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黒猫は狂った世界を見届けない
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彼は息を切らしながら森の中を駆け抜けていた。
後ろに聳える建物からはけたたましいサイレンの音が鳴り響き、二階部分から煙が上がってじきに炎に包まれると夜空へ向かって唸り声を上げ始める。
暗闇の中、何度も木の根や石に躓きながら、彼は麓の街へと向かう。
やっとのことで森を抜け、街を見下ろす小高い丘から見えたのは、至るところから炎が上がり、不気味なほどに静まり返った街の姿だった。
(なんだよ、これ――)
彼はその様子をしばらくの間、ただ呆然と見つめていた。
それから脇腹の下辺りが焼けるように痛むのを感じると、検査着に赤い染みが浮かんでいるのに気がついた。
「いってぇ……」
逃げ出すときに撃たれた弾が当たったのだろうか、かなり出血していたようで倒れるように蹲る。
(こんなとこで死んでたまるかよ――!)
彼は歯を食いしばって立ち上がり、よろよろと歩き出した。
裸足だったため散乱した硝子の破片で足を切ったが、ただ前へ進むことだけに意識を集中させる。
いつもはたくさんの車が行き交う道路は閑散として、あちこちに乗り捨てられた車があった。
信号機は全て消えていた。
辺りを見回すと街頭も建物の明かりもついておらず、立ち昇る炎が暗闇に包まれた街を赤々と照らすのを余計に際立たせている。
(みんな、どこに行っちまったんだよ――!?)
彼は打ち捨てられた道路を西へと歩いた。
この先には設備された公園と市民ホールがある。
もしかしたらそこに誰かいるかもしれない。
彼は脇腹を押さえながら僅かな希望を胸に抱いて向かうが突如、どこからか怒号と悲鳴が同時に耳ををつんざく。
彼は顔を硬らせ、声のする方向を見遣る。
(この先から――?)
彼は市民ホールのある公園へと急いだ。
公園の囲いの木々の隙間から、ちらちらと光の塊が忙しなく動いている。
そこから人々の争うような話し声が聞こえてきた。
「こいつらをホールの中へ閉じ込めろ!」
「早く入れ!」
「従わないやつは叩き殺しちまえ!」
口元を布で覆い、懐中電灯で怯える人々を照らし、片手には角材やハンマーなどの鈍器を持った何十人もの武装した男達が口々に叫んでいた。
駆り立てられた羊のように一塊りに集められて恐怖に震えていたのは、彼と同じ検査着姿の人々だった。
「俺は虫垂炎の手術で入院してただけだ! もう退院してもいいって言われてたんだ!」
「私も検査入院してただけなの……!」
「うわぁぁん! ママぁー!」
小さな女の子はただ泣きじゃくっている。
老人は目を閉じながら手を合わせ、何かをひたすら呟いていた。
「うるさい! お前らは保菌者だろうが!」
「おい、早くこいつらを入れないと俺らも危ないぞ!」
「早く入れ、病原菌ども!」
男達は手に持った鈍器を人々に振りかざし、ホールの中へと急き立てた。
人々はなす術もなく、絶望の表情を浮かべながら次々と詰め込まれていく。
「ひいぃっ!」
一人の男性が叫び声を上げながら逃げ出した。
武装した男達は男性を追いかけ、容赦なく背後から滅多打ちにした。
体をぐしゃぐしゃに潰された男性が動かなくなると、男達は狂気に目を血走らせながら人々に対して怒鳴り散らす。
「いいか! 逃げ出す奴はみんなこうだからな!」
人々は恐怖に慄き、すすり泣きや悲鳴が上がる。
彼は木陰に立ち、目の前の様子をただ見ていることしかできずにいた。
人々が全員収容されると、逃げられないように外から鍵を掛ける。
男達はポリタンクを手に持ち、ホールの周りにガソリンを撒いた。
そしてマッチを擦ると、撒かれたガソリンの中へと放り込む。
彼はこの後に起こるであろう最悪の事態を容易に想像し、心の中で祈るように叫んだ。
(嘘だろ、やめてくれ――!!)
ガソリンに引火すると凄まじい速さで炎が上がり、ホールを飲み込んだ。
中から人々の悲鳴と断末魔が響き渡り、やがて聞こえなくなっても炎は勢いを増して空を紅く染め上げた。
彼は耳を塞ぎ、ガタガタと体を震わせる。
たった今、目の前で行われた惨劇が現実の出来事だとは到底信じられなかった。
(一体、この街で何が起こっているんだ――?)
とにかく彼はこの場から離れなければ、と立ち上がる。
その時、懐中電灯に照らし出され、思わず目を背けた。
「おい! こっちにまだ病院の奴がいるぞ!」
男の一人が叫ぶと、他の男達もこちらへ走って来るのが見えた。
「この野郎、逃げやがって!」
「早く殺っちまえ!」
彼は体の痛みも恐怖も忘れ、全速力で駆け出した。
その後を何十人もの男達が追って来る。
彼は訳も分からぬまま、破壊された街中を走り続けた。
ガードレールにぶつかった救急車、ショーウインドウにこびりついた血痕、踏み荒らされた花壇――目に映るもの全てが変わり果てた姿となっていた。
これがただの悪夢であってくれたらどんなにいいか。
彼はかつては閑静であったであろう住宅地にたどり着いた。
ここ一帯も破壊の跡が生々しく残っており、家々に明かりはついていない。
やはり街全体が停電してしまっているようだ。
後ろから男達の怒号が聞こえた。
彼はこの先に高校があるのを覚えていた。
そこにはもう使われていない古いプレハブ小屋があって、今は立ち入り禁止になっている。
体力の限界を感じた彼は、ひとまずそこで一休みしようと考え、ひっそりと静まり返った校舎に沿ってプレハブ小屋へと急いだ。
扉に手を掛けると鍵は掛かっていなかった。
彼は素早く中に入ると鍵を掛け、その場にしゃがみ込む。
床は軋みひどく黴臭かったが、安堵から大きくため息を漏らすと目を閉じた。
先程見た光景が脳裏に焼き付いていたが、どうにも現実味がなかった。
だが、確かに惨事は起こったのだ。
彼は男達の言葉を思い出す。
殺された人々はみな、検査着や患者着を着ていた。
ということは、あの人々は病院から連れて来られたに違いない。
病原菌がどうとか言っていたが、あれは何か特定のウイルスのことだろうか?
病院にいた人達を皆殺しにするなんて、まるで狂気の沙汰でしかなかったが、何が彼らをそこまで駆り立てるのかまるで分からない。
しかし外の世界で良からぬ事が起こっているのだとしたら、施設から逃げ出した彼の行動は正しかったのだ。
彼は首元に刻まれたシェルター番号に手を触れると、静かに体を起こす。
別の部屋の扉を開ける音が微かに聞こえたのだ。
彼は耳を澄ませながら、床に投げてあったテニスラケットを手に取った。
今度は隣の扉を開ける音がした。
足音から相手は一人だけのようだ。
そして彼のいる部屋の前で足音が止まると、扉の取っ手がゆっくりと回された。
彼はごくりと唾を飲み込み、扉が開かれるのを凝視していた。
入って来たのは醜く太った中年の男だった。
ギラギラと光る目で彼を見つけると、右手に持った鎌を振り上げ叫ぶように言った。
「こんなとこにいやがったか! この病原菌が!」
言い終わらないうちに彼めがけて鎌を振り下ろす。
彼はすんでのところで躱すと、ラケットを構えて相手と対峙した。
「ははっ! 随分と威勢がいいじゃねえか!」
男は再び鎌を振り回して彼を仕留めようとした。
彼はラケットで受け止めたが衝撃でラケットは壊れてしまい、破片が床に叩きつけられ彼も床に倒れてしまう。
「さぁて、今度でおしまいにしてやるぜ!」
男は布越しにくぐもった笑い声を上げ、彼に止めを刺そうとありったけの力で鎌を振り下ろした。
なのに彼は避けようとせず、ただ男の狂気に満ちた瞳を見据えていた。
「っ!? なんだぁ?」
彼の顔ギリギリのところで鎌の切っ先が止まると、男は素っ頓狂な声を上げて彼を見下ろした。
彼は大きく目を見開き、驚きから確信へ表情を変えると立ち上がり男に訊いた。
「おい、なぜ俺を狙う?」
「それはお前が保菌者だからだ! って何で俺は動けないんだ?」
「感染とは何のことだ?」
「もちろん未知のウイルスのことだ! 病院にいた人間はみんな感染してるに決まってる! 何で俺は喋ってるんだ?」
男は自分の意思で話していないと分かると、狼狽した様子で目をギョロギョロと動かした。
「それは俺があんたの脳に直接命令してるからだよ」
「はぁ? そんなこと出来るわけないだろうが! さてはお前、精神病棟にいたな? そうだろう、このイカレ野郎が!」
「黙れ」
彼が言うと男は勢いよく口を閉じ、舌先を噛んでしまう。
口の中に鉄の味が広がり痛みで悲鳴を上げようとするが、唇は固く閉ざされたままだった。
「これからは俺が尋ねた事だけに答えろ」
男は怒りの表情を浮かべ体を震わせたが、自由に喋ることは出来なかった。
「そのウイルスとは、どんなものなんだ?」
「四カ月前にインドかどっかの国で発生して、あっという間に世界中に広まってったんだ! まだワクチンも特効薬もなくて、どんどん人が死んじまってる!」
「街の人々はどこへ行った?」
「臆病者はみんな散り散りに逃げ出しちまった。今この街に残ってるのは俺達、自警団だけだ」
「で、何であんたらが病院にいた人々を殺してる?」
「そりゃ、俺らが始末しなきゃみんな感染しちまうからだ! この街の病院でも院内感染があったに決まってる!
政府はすでにお手上げ状態でどうにもならねえ!」
「それは日本だけの話か?」
「違う! 世界中どこもかしこもおかしくなっちまってる! もうどうしようもねえなら、俺達が正義を貫くしかねえんだ!」
「……正義?」
彼は首を傾げ、言葉の意味を吟味するように低く呟いた。
「そうだ、この街を守るために俺達は――」
「違う、お前らのやっていることはただの虐殺だ」
彼は嫌悪に顔を歪ませ、男を鋭く睨みつけると言い放った。
「殺された人々へのせめてもの償いだ。鎌で自分の首を切れ」
その言葉に男はかっと目を見開き、首を振って抵抗しようともがいたが右手は命令された通りに動き、彼の首元に鎌を添えると躊躇なく横に切り裂いた。
迸る血飛沫を全身に浴びて、彼は虚ろな目をしながら男が息耐え倒れていくのをじっと見ていた。
「俺もあんたらと対して変わんねぇが、無差別に殺したりはしないと誓うよ」
そう言うと血で重くなった検査着を脱ぎ捨て、男の服を剥ぎ取る。
男には検査着を着せ、彼は男の汗と血まみれの服に着替えた。
シャツのポケットに煙草とライターが入っていた。
昔、父親が吸っている姿を頭の端で思い出すと、見よう見まねで火をつけ勢いよく吸ってみる。
すぐにむせて咳き込んだが、煙の匂いを嗅ぐと不思議と心が落ち着き、彼は窓から夜空に浮かんだ冷たく光る満月を眺めた。
今や彼は自身の能力を完全に把握していた。
撃たれたはずの脇腹を見ると傷口は塞がり、出血も止まっていた。
じきに傷口も消えてしまい、元の肌へと再生する。
失った体力も内側から湧き出るように満ち満ちていく。
「どうやら俺は人間じゃなくなっちまったみたいだな」
彼は自傷気味に笑いながらプレハブ小屋を後にした。
月明かりに照らされたグラウンドに立っていると、この世界に自分一人だけ取り残されたように感じられた。
「いっそ、その方が気楽でいいかもな」
だが辺りを見渡すと至るところから火の手が上がり、人々の悲鳴が聞こえてきた。
先程のような残虐行為が行われているのかと思うと、彼は感情を押し殺すように目を伏せる。
最後にこの街を見たのはニカ月前の特別外出の日だった。
田舎のありきたりな街並みのように、人々ものんびりと生きていた。
それが今では見る影も無いほどに破壊され、罪のない人々が無残に殺されているのだ。
彼はもう検査着ではなかったため時々、武装した男達とすれ違っても何の関心も示されなかった。
みな血眼になって探しているのは、病院から逃げ出した哀れな生贄達だ。
こうなってしまってはもう誰にも止められない。
愚かな人類は過去の歴史から何も学まず、血生臭い争いをただ繰り返すしか出来ないのだ。
「ったく、こんな狂った世界、さっさと滅びちまえばいいんだ」
彼は悪態をつき、道端に唾を吐いた。
その視線の先に夜目を光らせ、こちらを見つめる生き物がいるのに気がつく。
彼が猫だと分かるなり、足元にまとわりついてきた。
それは体格のよい黒猫で、毛色によって闇と一体化していた。
彼は少し迷ってから頭をそっと撫でる。
すると嬉しそうに鳴き声を上げながら、腕に頭を擦りつけてきた。
彼は喉元を撫でようとして首輪をしているのを見受けると、少し寂しそうに笑いながら黒猫に話しかけた。
「おまえもひとりぼっちなんだな」
黒猫は返事をするかのようにひと鳴きするとちょこんと座り、彼を見上げた。
「ごめんな、何も食いもん持ってねぇんだよ」
すまなそうにもう一度頭を撫でると、彼はその場を立ち去った。
黒猫はしばらく彼の背中を見つめたまま動こうとしない。
(さぁ、どこへ行こうか)
彼は右手に残る猫の毛並みと暖かさで幾分気分が和らいでいくのを感じながら、これからの事を考えた。
すでにこの街は暴徒によって占拠されているため、長く留まることは危険だ。
他の人々は一体、どこへ逃げたのだろう?
あの男は世界中、同じような状況だと言っていた。
もしそれが本当だとしたら、どこへ行こうがもはや安全な場所などこの世に存在しはしないのだろか。
何にしても、自身の目で確かめてみないことには分からない。
だしぬけに足元に温かな感触があり、彼は驚いて下を見た。
「……おまえ、ついてきたのか」
そこにいたのは先程の首輪をつけた黒猫だった。
黒猫は鳴き声を上げながら、彼の足に柔らかな体をすり寄せた。
「動物は好きじゃないんだけどな」
そう言いながら、彼はまんざらでもなさそうな顔をしている。
「ま、ついてきたきゃ勝手にしな」
彼は白みかけた空を仰ぐと目を閉じて深呼吸し、朝日が昇る方へ向かって歩き出した。
黒猫は彼の少し後ろを気ままについて来る。
夢も希望も何ひとつ持っていなかったが、この体があればそれで十分だった。
殺した男の血が乾いて固くなった服のポケットから煙草を取り出すと、慣れない手つきで火をつけた。
ゆっくりと一口吸い、今度はむせないように慎重に煙を吐き出すと満足そうに笑ってみせる。
「ま、こんな人生も悪くないかもな」
黒猫は体を伸ばすと、鋭い牙を覗かせながら大きく欠伸をした。
後ろに聳える建物からはけたたましいサイレンの音が鳴り響き、二階部分から煙が上がってじきに炎に包まれると夜空へ向かって唸り声を上げ始める。
暗闇の中、何度も木の根や石に躓きながら、彼は麓の街へと向かう。
やっとのことで森を抜け、街を見下ろす小高い丘から見えたのは、至るところから炎が上がり、不気味なほどに静まり返った街の姿だった。
(なんだよ、これ――)
彼はその様子をしばらくの間、ただ呆然と見つめていた。
それから脇腹の下辺りが焼けるように痛むのを感じると、検査着に赤い染みが浮かんでいるのに気がついた。
「いってぇ……」
逃げ出すときに撃たれた弾が当たったのだろうか、かなり出血していたようで倒れるように蹲る。
(こんなとこで死んでたまるかよ――!)
彼は歯を食いしばって立ち上がり、よろよろと歩き出した。
裸足だったため散乱した硝子の破片で足を切ったが、ただ前へ進むことだけに意識を集中させる。
いつもはたくさんの車が行き交う道路は閑散として、あちこちに乗り捨てられた車があった。
信号機は全て消えていた。
辺りを見回すと街頭も建物の明かりもついておらず、立ち昇る炎が暗闇に包まれた街を赤々と照らすのを余計に際立たせている。
(みんな、どこに行っちまったんだよ――!?)
彼は打ち捨てられた道路を西へと歩いた。
この先には設備された公園と市民ホールがある。
もしかしたらそこに誰かいるかもしれない。
彼は脇腹を押さえながら僅かな希望を胸に抱いて向かうが突如、どこからか怒号と悲鳴が同時に耳ををつんざく。
彼は顔を硬らせ、声のする方向を見遣る。
(この先から――?)
彼は市民ホールのある公園へと急いだ。
公園の囲いの木々の隙間から、ちらちらと光の塊が忙しなく動いている。
そこから人々の争うような話し声が聞こえてきた。
「こいつらをホールの中へ閉じ込めろ!」
「早く入れ!」
「従わないやつは叩き殺しちまえ!」
口元を布で覆い、懐中電灯で怯える人々を照らし、片手には角材やハンマーなどの鈍器を持った何十人もの武装した男達が口々に叫んでいた。
駆り立てられた羊のように一塊りに集められて恐怖に震えていたのは、彼と同じ検査着姿の人々だった。
「俺は虫垂炎の手術で入院してただけだ! もう退院してもいいって言われてたんだ!」
「私も検査入院してただけなの……!」
「うわぁぁん! ママぁー!」
小さな女の子はただ泣きじゃくっている。
老人は目を閉じながら手を合わせ、何かをひたすら呟いていた。
「うるさい! お前らは保菌者だろうが!」
「おい、早くこいつらを入れないと俺らも危ないぞ!」
「早く入れ、病原菌ども!」
男達は手に持った鈍器を人々に振りかざし、ホールの中へと急き立てた。
人々はなす術もなく、絶望の表情を浮かべながら次々と詰め込まれていく。
「ひいぃっ!」
一人の男性が叫び声を上げながら逃げ出した。
武装した男達は男性を追いかけ、容赦なく背後から滅多打ちにした。
体をぐしゃぐしゃに潰された男性が動かなくなると、男達は狂気に目を血走らせながら人々に対して怒鳴り散らす。
「いいか! 逃げ出す奴はみんなこうだからな!」
人々は恐怖に慄き、すすり泣きや悲鳴が上がる。
彼は木陰に立ち、目の前の様子をただ見ていることしかできずにいた。
人々が全員収容されると、逃げられないように外から鍵を掛ける。
男達はポリタンクを手に持ち、ホールの周りにガソリンを撒いた。
そしてマッチを擦ると、撒かれたガソリンの中へと放り込む。
彼はこの後に起こるであろう最悪の事態を容易に想像し、心の中で祈るように叫んだ。
(嘘だろ、やめてくれ――!!)
ガソリンに引火すると凄まじい速さで炎が上がり、ホールを飲み込んだ。
中から人々の悲鳴と断末魔が響き渡り、やがて聞こえなくなっても炎は勢いを増して空を紅く染め上げた。
彼は耳を塞ぎ、ガタガタと体を震わせる。
たった今、目の前で行われた惨劇が現実の出来事だとは到底信じられなかった。
(一体、この街で何が起こっているんだ――?)
とにかく彼はこの場から離れなければ、と立ち上がる。
その時、懐中電灯に照らし出され、思わず目を背けた。
「おい! こっちにまだ病院の奴がいるぞ!」
男の一人が叫ぶと、他の男達もこちらへ走って来るのが見えた。
「この野郎、逃げやがって!」
「早く殺っちまえ!」
彼は体の痛みも恐怖も忘れ、全速力で駆け出した。
その後を何十人もの男達が追って来る。
彼は訳も分からぬまま、破壊された街中を走り続けた。
ガードレールにぶつかった救急車、ショーウインドウにこびりついた血痕、踏み荒らされた花壇――目に映るもの全てが変わり果てた姿となっていた。
これがただの悪夢であってくれたらどんなにいいか。
彼はかつては閑静であったであろう住宅地にたどり着いた。
ここ一帯も破壊の跡が生々しく残っており、家々に明かりはついていない。
やはり街全体が停電してしまっているようだ。
後ろから男達の怒号が聞こえた。
彼はこの先に高校があるのを覚えていた。
そこにはもう使われていない古いプレハブ小屋があって、今は立ち入り禁止になっている。
体力の限界を感じた彼は、ひとまずそこで一休みしようと考え、ひっそりと静まり返った校舎に沿ってプレハブ小屋へと急いだ。
扉に手を掛けると鍵は掛かっていなかった。
彼は素早く中に入ると鍵を掛け、その場にしゃがみ込む。
床は軋みひどく黴臭かったが、安堵から大きくため息を漏らすと目を閉じた。
先程見た光景が脳裏に焼き付いていたが、どうにも現実味がなかった。
だが、確かに惨事は起こったのだ。
彼は男達の言葉を思い出す。
殺された人々はみな、検査着や患者着を着ていた。
ということは、あの人々は病院から連れて来られたに違いない。
病原菌がどうとか言っていたが、あれは何か特定のウイルスのことだろうか?
病院にいた人達を皆殺しにするなんて、まるで狂気の沙汰でしかなかったが、何が彼らをそこまで駆り立てるのかまるで分からない。
しかし外の世界で良からぬ事が起こっているのだとしたら、施設から逃げ出した彼の行動は正しかったのだ。
彼は首元に刻まれたシェルター番号に手を触れると、静かに体を起こす。
別の部屋の扉を開ける音が微かに聞こえたのだ。
彼は耳を澄ませながら、床に投げてあったテニスラケットを手に取った。
今度は隣の扉を開ける音がした。
足音から相手は一人だけのようだ。
そして彼のいる部屋の前で足音が止まると、扉の取っ手がゆっくりと回された。
彼はごくりと唾を飲み込み、扉が開かれるのを凝視していた。
入って来たのは醜く太った中年の男だった。
ギラギラと光る目で彼を見つけると、右手に持った鎌を振り上げ叫ぶように言った。
「こんなとこにいやがったか! この病原菌が!」
言い終わらないうちに彼めがけて鎌を振り下ろす。
彼はすんでのところで躱すと、ラケットを構えて相手と対峙した。
「ははっ! 随分と威勢がいいじゃねえか!」
男は再び鎌を振り回して彼を仕留めようとした。
彼はラケットで受け止めたが衝撃でラケットは壊れてしまい、破片が床に叩きつけられ彼も床に倒れてしまう。
「さぁて、今度でおしまいにしてやるぜ!」
男は布越しにくぐもった笑い声を上げ、彼に止めを刺そうとありったけの力で鎌を振り下ろした。
なのに彼は避けようとせず、ただ男の狂気に満ちた瞳を見据えていた。
「っ!? なんだぁ?」
彼の顔ギリギリのところで鎌の切っ先が止まると、男は素っ頓狂な声を上げて彼を見下ろした。
彼は大きく目を見開き、驚きから確信へ表情を変えると立ち上がり男に訊いた。
「おい、なぜ俺を狙う?」
「それはお前が保菌者だからだ! って何で俺は動けないんだ?」
「感染とは何のことだ?」
「もちろん未知のウイルスのことだ! 病院にいた人間はみんな感染してるに決まってる! 何で俺は喋ってるんだ?」
男は自分の意思で話していないと分かると、狼狽した様子で目をギョロギョロと動かした。
「それは俺があんたの脳に直接命令してるからだよ」
「はぁ? そんなこと出来るわけないだろうが! さてはお前、精神病棟にいたな? そうだろう、このイカレ野郎が!」
「黙れ」
彼が言うと男は勢いよく口を閉じ、舌先を噛んでしまう。
口の中に鉄の味が広がり痛みで悲鳴を上げようとするが、唇は固く閉ざされたままだった。
「これからは俺が尋ねた事だけに答えろ」
男は怒りの表情を浮かべ体を震わせたが、自由に喋ることは出来なかった。
「そのウイルスとは、どんなものなんだ?」
「四カ月前にインドかどっかの国で発生して、あっという間に世界中に広まってったんだ! まだワクチンも特効薬もなくて、どんどん人が死んじまってる!」
「街の人々はどこへ行った?」
「臆病者はみんな散り散りに逃げ出しちまった。今この街に残ってるのは俺達、自警団だけだ」
「で、何であんたらが病院にいた人々を殺してる?」
「そりゃ、俺らが始末しなきゃみんな感染しちまうからだ! この街の病院でも院内感染があったに決まってる!
政府はすでにお手上げ状態でどうにもならねえ!」
「それは日本だけの話か?」
「違う! 世界中どこもかしこもおかしくなっちまってる! もうどうしようもねえなら、俺達が正義を貫くしかねえんだ!」
「……正義?」
彼は首を傾げ、言葉の意味を吟味するように低く呟いた。
「そうだ、この街を守るために俺達は――」
「違う、お前らのやっていることはただの虐殺だ」
彼は嫌悪に顔を歪ませ、男を鋭く睨みつけると言い放った。
「殺された人々へのせめてもの償いだ。鎌で自分の首を切れ」
その言葉に男はかっと目を見開き、首を振って抵抗しようともがいたが右手は命令された通りに動き、彼の首元に鎌を添えると躊躇なく横に切り裂いた。
迸る血飛沫を全身に浴びて、彼は虚ろな目をしながら男が息耐え倒れていくのをじっと見ていた。
「俺もあんたらと対して変わんねぇが、無差別に殺したりはしないと誓うよ」
そう言うと血で重くなった検査着を脱ぎ捨て、男の服を剥ぎ取る。
男には検査着を着せ、彼は男の汗と血まみれの服に着替えた。
シャツのポケットに煙草とライターが入っていた。
昔、父親が吸っている姿を頭の端で思い出すと、見よう見まねで火をつけ勢いよく吸ってみる。
すぐにむせて咳き込んだが、煙の匂いを嗅ぐと不思議と心が落ち着き、彼は窓から夜空に浮かんだ冷たく光る満月を眺めた。
今や彼は自身の能力を完全に把握していた。
撃たれたはずの脇腹を見ると傷口は塞がり、出血も止まっていた。
じきに傷口も消えてしまい、元の肌へと再生する。
失った体力も内側から湧き出るように満ち満ちていく。
「どうやら俺は人間じゃなくなっちまったみたいだな」
彼は自傷気味に笑いながらプレハブ小屋を後にした。
月明かりに照らされたグラウンドに立っていると、この世界に自分一人だけ取り残されたように感じられた。
「いっそ、その方が気楽でいいかもな」
だが辺りを見渡すと至るところから火の手が上がり、人々の悲鳴が聞こえてきた。
先程のような残虐行為が行われているのかと思うと、彼は感情を押し殺すように目を伏せる。
最後にこの街を見たのはニカ月前の特別外出の日だった。
田舎のありきたりな街並みのように、人々ものんびりと生きていた。
それが今では見る影も無いほどに破壊され、罪のない人々が無残に殺されているのだ。
彼はもう検査着ではなかったため時々、武装した男達とすれ違っても何の関心も示されなかった。
みな血眼になって探しているのは、病院から逃げ出した哀れな生贄達だ。
こうなってしまってはもう誰にも止められない。
愚かな人類は過去の歴史から何も学まず、血生臭い争いをただ繰り返すしか出来ないのだ。
「ったく、こんな狂った世界、さっさと滅びちまえばいいんだ」
彼は悪態をつき、道端に唾を吐いた。
その視線の先に夜目を光らせ、こちらを見つめる生き物がいるのに気がつく。
彼が猫だと分かるなり、足元にまとわりついてきた。
それは体格のよい黒猫で、毛色によって闇と一体化していた。
彼は少し迷ってから頭をそっと撫でる。
すると嬉しそうに鳴き声を上げながら、腕に頭を擦りつけてきた。
彼は喉元を撫でようとして首輪をしているのを見受けると、少し寂しそうに笑いながら黒猫に話しかけた。
「おまえもひとりぼっちなんだな」
黒猫は返事をするかのようにひと鳴きするとちょこんと座り、彼を見上げた。
「ごめんな、何も食いもん持ってねぇんだよ」
すまなそうにもう一度頭を撫でると、彼はその場を立ち去った。
黒猫はしばらく彼の背中を見つめたまま動こうとしない。
(さぁ、どこへ行こうか)
彼は右手に残る猫の毛並みと暖かさで幾分気分が和らいでいくのを感じながら、これからの事を考えた。
すでにこの街は暴徒によって占拠されているため、長く留まることは危険だ。
他の人々は一体、どこへ逃げたのだろう?
あの男は世界中、同じような状況だと言っていた。
もしそれが本当だとしたら、どこへ行こうがもはや安全な場所などこの世に存在しはしないのだろか。
何にしても、自身の目で確かめてみないことには分からない。
だしぬけに足元に温かな感触があり、彼は驚いて下を見た。
「……おまえ、ついてきたのか」
そこにいたのは先程の首輪をつけた黒猫だった。
黒猫は鳴き声を上げながら、彼の足に柔らかな体をすり寄せた。
「動物は好きじゃないんだけどな」
そう言いながら、彼はまんざらでもなさそうな顔をしている。
「ま、ついてきたきゃ勝手にしな」
彼は白みかけた空を仰ぐと目を閉じて深呼吸し、朝日が昇る方へ向かって歩き出した。
黒猫は彼の少し後ろを気ままについて来る。
夢も希望も何ひとつ持っていなかったが、この体があればそれで十分だった。
殺した男の血が乾いて固くなった服のポケットから煙草を取り出すと、慣れない手つきで火をつけた。
ゆっくりと一口吸い、今度はむせないように慎重に煙を吐き出すと満足そうに笑ってみせる。
「ま、こんな人生も悪くないかもな」
黒猫は体を伸ばすと、鋭い牙を覗かせながら大きく欠伸をした。
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