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★「愛することはない」と告げる夫に、私は復讐を誓う 〜鳥籠の中で一生を過ごす気はありませんので〜
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「リゼット、俺がお前を愛することはない」
新婚初夜の寝室にて。
夫となったアラン・ハウンドの言葉に私は息を止める。
前々からなんとなくではあるが、勘づいていた。
夫には他に愛する女性がいるのではないか、と。
「…………」
私は居心地が悪くなってショールを羽織る。
薄手の夜着が肌に擦れ、ピリピリとした。
夫は無言のまま、寝室を後にする。
一人残された私は、しばし呆然と立ち尽くしていた。
♢♢♢
夫に見捨てられた可哀想な妻だと思われないよう、気丈に振る舞った。
だが屋敷の使用人たちは私と夫の仲が良くないのでは、と薄々察している様子だった。
(実家へ帰りたい……)
私は切に願う。
だが、これは親同士が決めた政略結婚。
こちらから一方的に戻ることなど許されない。
「奥様、朝食のご用意ができました」
「ありがとう、ジェームズ」
今夜もアランは屋敷へ戻らないのだろうか。
愛する女性の元へ行き、睦み合うのだろうか。
どちらにしても私たち二人の間に子どもができなければ、石女として離縁されるだろう。
それまでこの暮らしが続くのかと思うと、食事が喉を通らなかった。
(私もあなたのように自由になりたいわ……)
庭に植えられているラマルキーの木の枝に留まる小鳥を眺めながら、私は小さくため息をついた。
♢♢♢
結婚して半年が経ったある夜。
夫が唐突に寝室を訪れた。
「あの……?」
「いいから服を脱げ」
強引にベッドへ押し倒される。
私は恐怖と嫌悪で目を見開いた。
もはやアランを愛してなどいなかった。
いや、元々私たちの間に愛という感情は存在しなかったのだ。
自分が女としての幸せを掴みたくて、婚約期間中もぞんざいな扱いを受けてなお、彼に縋り付いていただけに過ぎない。
「何をしている? 早くしないか」
「…………っ」
あくまでも私を自由にさせる気はないということか。
籠の中の鳥のようにここで一生を過ごすなど、想像しただけでゾッとする。
(こんな男の子どもなんて、死んでも生みたくない――!)
「その……今、月のものでして」
「ふん、この役立たずが」
夫は悪態をつくとベッドから起き上がり、さっさと部屋から出て行った。
悔しくて腹立たしくて、洗いたてのシーツを強く握りしめる。
(許さない、絶対に――)
その夜、私は夫に復讐を誓ったのだった。
♢♢♢
「ミリア、ね」
探偵を雇い、夫の愛人について調べさせた。
ミリア・ローザは平民の娘で、金髪碧眼の美しい容姿をしていた。
対する私も金髪碧眼。
社交界ではそれなりにもてはやされた。
渡された写真を見る限り、面持ちも髪型もほぼ同じ。
つまり私とミリアは、瓜二つの外見をしているのだ。
「なんて悪趣味なのかしら」
妻とそっくりな愛人を作るだなんて。
どういう神経をしているのだろうか。
でも、その方が色々と都合がいい。
私は一人、薄笑いを浮かべながら紅茶を飲んだ。
♢♢♢
相変わらず屋敷を空けることの多い夫だったが、週に一、二度は出かけない日もあった。
ミリアは駆け出しの女優として、映画や舞台に出演しているらしい。
そのため夫は彼女に度々、援助をしているようだった。
(まあ、いいわ。はした金をあの人がどう使おうと関係ない)
私は私で妻としての役割を果たしつつ、好き勝手に暮らしている。
趣味の読書やガーデニングを心ゆくまで楽しめるのも、ハウンド侯爵家に住んでいるからこそ。
このまま怠惰に過ごすのも悪くない。
でも私は、本当の自由を手にしたかった。
そのためにも、あの人には消えてもらわなければ。
♢♢♢
今夜はミリアの元へ行かない日のようで、夫は仕事を終えるとダイニングルームで年代物のワインを開けていた。
「旦那様、ここで寝られてはお体に障ります」
「ああ……」
使用人に促されるまま、自室へとふらふら歩いて行く夫。
夫は大の酒好きだ。
よく飲むし、酒にも強い。
私は数ヶ月前から不眠だと言って、医者に診てもらっていた。
もちろん嘘である。
夫に愛されないからと夜な夜な枕を濡らす、か弱い女ではない。
医者は直ぐに睡眠薬を処方してくれた。
試しに一度だけ飲んでみたが、普段なら朝の六時には目覚めることのできる私ですら、使用人に起こされるまでぐっすりと寝てしまっていた。
(すごい効果だわ)
これは使えると確信する。
私は薬屋で注射器を入手した。
残った錠剤の睡眠薬を細かく砕き、粉末にした。
それを水で溶いて注射器に入れる。
この後、どうしたかは事細かに話さなくともお分かりいただけるだろう。
そう、夫が飲むため使用人に用意させたワインのコルクから、瓶の中へ睡眠薬をこっそり注入したのだ。
幸い、夫はダイニングルームで眠ることなく、自室へと引き上げた。
(これからとびきりの悪夢を見させてあげる)
私は口角を釣り上げながら、夫の元へと向かった。
♢♢♢
「ねぇ、アラン」
「ん……」
「ねぇったら」
ベッドで横になる夫の耳元で、甘えるように囁きかける。
ぷん、と酒の匂いがした。
思わず顔を背けたくなるのを我慢する。
「……ミリア」
「もう、お寝坊さんね」
薬の副作用により泥酔している夫は、私をミリアだと勘違いした。
こちらの思惑通りだ。
癖の強い、ブラウン色の髪を優しく撫でてやる。
すると私には一度も向けたことのない微笑を浮かべた。
(ああ、気持ち悪い)
内心そう思いつつ、私は笑顔を取り繕う。
夫は視点の定まらない顔つきで、私を見つめた。
「今夜は会えないはずだったろう?」
「映画の撮影が延期になったの」
「だから会いに来てくれたのか?」
「もちろんよ。あなたを愛しているから」
二度ほどミリアの出演する映画を観たが、あまり演技が上手いとは言えなかった。
美貌と若さだけで何とかなっているのだろう。
ミリアの普段の喋り方は、二人の逢瀬を追っていた探偵から事細かに聞いていた。
私よりも高く澄んだ声で、子猫が鳴くように話すのだ。
異性に媚を売ることに躊躇いのないミリア。
どうやら夫の他にも複数の恋人や愛人がいるようだった。
そうとはつゆ知らず、真実の愛だと信じて疑わない夫に笑いが込み上げてくる。
「こっちへおいで、ミリア」
「……月のものが来ちゃったの」
「そうか、あまり無理をしてはいけないよ」
「ええ、そうするわ」
私は腸が煮えくり返りそうになった。
『役立たずが』
夫が私に言い放った言葉が脳裏をよぎる。
この扱いの差は一体、なんなのだろうか。
私をただの子どもを生む道具としか見ていない夫。
(そんなに欲しかったらミリアに生んでもらえばいいのよ)
何股もしているミリアのことだ。
避妊は抜かりないだろうし、仮にできたとしても素直に生むとは思えない。
(だったらなおさら二人に悪夢を見させてあげる)
「ねぇ、アラン。私、あなたの子どもが欲しいわ」
「俺もミリアとの子どもが欲しいよ」
「でも月のものが終わるまでお預けだし私、引っ越したの」
「へえ、どこへだい?」
「隣街のモンベルよ。アパルトマン暮らしは窮屈だから一軒家を借りたの」
モンベル街はサイネン街から馬車で約二十分。
ミリアが今、街外れに住んでいるアパルトマンへ行く時間と大して変わらない。
それに隣街の一軒家だと、今よりも周囲の目を気にする必要もない。
もっとも、夫はミリアと付き合っていることを隠す気はあまりないようだけれど。
「そうか、なら引っ越し祝いをしなくてはいけないね」
「本当? 嬉しい!」
「家の場所はどこだい?」
私はミリアになりきって、嘘の場所と次に会える日時を教えた。
夫は忘れないように、といつも持ち歩いている手帳に万年筆で書き記す。
(本当に馬鹿な男)
夫を見下しながら、私は天真爛漫に笑ってみせる。
「さあ、俺の可愛い子猫ちゃん。隣へおいで」
「その前にシャワーを浴びてくるから、アランは先に寝てて」
「ああ、そうするよ……」
薬が効いてきたのだろう。
夫は大きく欠伸をすると、瞼を閉じた。
私は笑うのをやめ、夫の部屋から逃げるように抜け出す。
準備は整った。
後はあの場所で夫を待つだけだ。
♢♢♢
翌日の午前中、私は夫に教えた場所へと来ていた。
いつもとは違う華美な服装をして。
今の季節は夏。
ここは一年中、霧が発生しやすいため視界が悪い。
「ミリア、待たせたね」
ほどなくして夫が現れた。
手には薔薇の花束とワインを持っている。
(霧が出てくれていて助かったわ)
「こんな場所に引っ越すなんてミリアは変わり者だな」
「とても静かで暮らしやすいの。新しい家はこっちよ」
私は夫に背を向け、歩き出した。
もちろんこの先に一軒家などない。
「ここは……」
「アラン、どうしたの?」
「いや、何でもないよ」
「…………」
やっと夫も気づいたようだ。
ここがどこなのか。
滝壺の音が私たちの鼓膜を震わせる。
そう、ここはミュスカルデルの滝の近く。
夫と二人きりで唯一、訪れたことのある場所。
夫と一度だけ、気まぐれに口づけをした場所。
「なあ、ミリア……」
「せっかくだし、滝壺の見える所まで行きましょう」
「あ、ああ……」
一歩、一歩と進んで行く。
霧がより濃くなってきた。
「わぁ! すごい!」
私は無邪気を装い、滝壺を覗き込む。
川から勢いよく水が流れ落ち、空気は冷んやりとしていた。
ミュスカルデルの滝は名の知れた観光地。
同時に危険な場所でもあるのに、柵などは設置されておらず毎年、何人かの死者が出ている。
「きゃあっ!」
「ミリアッ!」
私はぬかるんだ地面で足を滑らせるフリをした。
夫はミリアを助けようと、迷うことなく手を伸ばす。
その手を私は掴み、夫の顔をジロリと覗き見る。
「――捕まえた」
「えっ?」
本来の声に私が戻すと、夫はポカンとした。
地頭は良いはずなのだが、女が絡むとまるきりダメらしい。
「――おやすみなさい、あなた」
「お、お前はリゼット……!?」
私がミリアではなくリゼットだと気づいた時には、夫の両足は滑って地面から離れていた。
そのまま滝壺へと真っ逆さまに落ちてゆく。
悲鳴は水音に掻き消され、聞こえなかった。
「ふふ、いい夢を――」
薔薇の花束とワインは邪魔なので、滝壺へと投げ捨てておいた。
血のように真っ赤な薔薇。
こんなにも美しいと感じたのは久しぶりだ。
「さて、と。片付いたことだし帰ってお茶にしましょ」
夫の体が滝壺に呑み込まれるのを見届けると、私は軽い足取りでハウンド侯爵家へと帰路につく。
♢♢♢
夫が突然、行方不明になって数ヶ月。
義父も義母も、息子が生きて帰ってこないかもしれないと諦め始めていた。
私にどうしたいかと聞いてきたので、あくまで控えめな態度で実家に戻りたいことを伝える。
こうして思いの外、あっさりと離縁することができたのだった。
♢♢♢
「ふわぁ、良い天気」
冬だというのに、よく晴れてポカポカと暖かい。
つい微睡んでしまいそうになる。
離縁する際、売れ出していたミリアが複数の男性と付き合っていると出版社に教えた。
いつの時代もゴシップは人々の大好物だ。
あっという間にミリアの評判は落ち、今では女優業を辞めて娼館で働いているらしい。
あばずれ女にうってつけの職だ。
私は夫だったアランからひどい扱いを受けていたことを理由に、多額の慰謝料を貰っていた。
これだけあれば当面の間、好きなことをして暮らしていけるだろう。
「お姉様、お客様がお見えですわ」
三つ年の離れた妹のルイーゼ・カーソンが、好奇心を青色の瞳に宿しながら私に言った。
「ありがとう、ルイーゼ」
「帰ってきたばかりなのに、お姉様も隅に置けませんわね」
ルイーゼがくすくすと笑い、目配せしながら退室する。
「やあ、リゼット」
「会いたかった、ジェームズ」
私は愛する彼の胸へと飛び込む。
アランは自分だけが愛人を作っていると思っていたようだけれど、妻にも愛人がいるとは考えが及ばなかったようだ。
ジェームズ・クレイはハウンド侯爵家の執事をしていた。
私がアランから愛されていないと、いち早く気づいた人物でもある。
艶やかな黒髪、オリーブ色の健康的な肌。
アランよりも整った顔立ち。
執事服の彼も素敵だったけれど、私服姿もまた魅力的だ。
アランがミリアと逢瀬を交わす間、私もジェームズと肌を重ねていた。
新婚初夜、アランに『お前を愛することはない』と宣言されたベッドの上で。
「ああ、愛してるわ、ジェームズ……」
潤んだ瞳で彼を見上げる。
ジェームズは優しく微笑むと、私の体を抱きしめながらそっと口づけを落としたのだった。
END
新婚初夜の寝室にて。
夫となったアラン・ハウンドの言葉に私は息を止める。
前々からなんとなくではあるが、勘づいていた。
夫には他に愛する女性がいるのではないか、と。
「…………」
私は居心地が悪くなってショールを羽織る。
薄手の夜着が肌に擦れ、ピリピリとした。
夫は無言のまま、寝室を後にする。
一人残された私は、しばし呆然と立ち尽くしていた。
♢♢♢
夫に見捨てられた可哀想な妻だと思われないよう、気丈に振る舞った。
だが屋敷の使用人たちは私と夫の仲が良くないのでは、と薄々察している様子だった。
(実家へ帰りたい……)
私は切に願う。
だが、これは親同士が決めた政略結婚。
こちらから一方的に戻ることなど許されない。
「奥様、朝食のご用意ができました」
「ありがとう、ジェームズ」
今夜もアランは屋敷へ戻らないのだろうか。
愛する女性の元へ行き、睦み合うのだろうか。
どちらにしても私たち二人の間に子どもができなければ、石女として離縁されるだろう。
それまでこの暮らしが続くのかと思うと、食事が喉を通らなかった。
(私もあなたのように自由になりたいわ……)
庭に植えられているラマルキーの木の枝に留まる小鳥を眺めながら、私は小さくため息をついた。
♢♢♢
結婚して半年が経ったある夜。
夫が唐突に寝室を訪れた。
「あの……?」
「いいから服を脱げ」
強引にベッドへ押し倒される。
私は恐怖と嫌悪で目を見開いた。
もはやアランを愛してなどいなかった。
いや、元々私たちの間に愛という感情は存在しなかったのだ。
自分が女としての幸せを掴みたくて、婚約期間中もぞんざいな扱いを受けてなお、彼に縋り付いていただけに過ぎない。
「何をしている? 早くしないか」
「…………っ」
あくまでも私を自由にさせる気はないということか。
籠の中の鳥のようにここで一生を過ごすなど、想像しただけでゾッとする。
(こんな男の子どもなんて、死んでも生みたくない――!)
「その……今、月のものでして」
「ふん、この役立たずが」
夫は悪態をつくとベッドから起き上がり、さっさと部屋から出て行った。
悔しくて腹立たしくて、洗いたてのシーツを強く握りしめる。
(許さない、絶対に――)
その夜、私は夫に復讐を誓ったのだった。
♢♢♢
「ミリア、ね」
探偵を雇い、夫の愛人について調べさせた。
ミリア・ローザは平民の娘で、金髪碧眼の美しい容姿をしていた。
対する私も金髪碧眼。
社交界ではそれなりにもてはやされた。
渡された写真を見る限り、面持ちも髪型もほぼ同じ。
つまり私とミリアは、瓜二つの外見をしているのだ。
「なんて悪趣味なのかしら」
妻とそっくりな愛人を作るだなんて。
どういう神経をしているのだろうか。
でも、その方が色々と都合がいい。
私は一人、薄笑いを浮かべながら紅茶を飲んだ。
♢♢♢
相変わらず屋敷を空けることの多い夫だったが、週に一、二度は出かけない日もあった。
ミリアは駆け出しの女優として、映画や舞台に出演しているらしい。
そのため夫は彼女に度々、援助をしているようだった。
(まあ、いいわ。はした金をあの人がどう使おうと関係ない)
私は私で妻としての役割を果たしつつ、好き勝手に暮らしている。
趣味の読書やガーデニングを心ゆくまで楽しめるのも、ハウンド侯爵家に住んでいるからこそ。
このまま怠惰に過ごすのも悪くない。
でも私は、本当の自由を手にしたかった。
そのためにも、あの人には消えてもらわなければ。
♢♢♢
今夜はミリアの元へ行かない日のようで、夫は仕事を終えるとダイニングルームで年代物のワインを開けていた。
「旦那様、ここで寝られてはお体に障ります」
「ああ……」
使用人に促されるまま、自室へとふらふら歩いて行く夫。
夫は大の酒好きだ。
よく飲むし、酒にも強い。
私は数ヶ月前から不眠だと言って、医者に診てもらっていた。
もちろん嘘である。
夫に愛されないからと夜な夜な枕を濡らす、か弱い女ではない。
医者は直ぐに睡眠薬を処方してくれた。
試しに一度だけ飲んでみたが、普段なら朝の六時には目覚めることのできる私ですら、使用人に起こされるまでぐっすりと寝てしまっていた。
(すごい効果だわ)
これは使えると確信する。
私は薬屋で注射器を入手した。
残った錠剤の睡眠薬を細かく砕き、粉末にした。
それを水で溶いて注射器に入れる。
この後、どうしたかは事細かに話さなくともお分かりいただけるだろう。
そう、夫が飲むため使用人に用意させたワインのコルクから、瓶の中へ睡眠薬をこっそり注入したのだ。
幸い、夫はダイニングルームで眠ることなく、自室へと引き上げた。
(これからとびきりの悪夢を見させてあげる)
私は口角を釣り上げながら、夫の元へと向かった。
♢♢♢
「ねぇ、アラン」
「ん……」
「ねぇったら」
ベッドで横になる夫の耳元で、甘えるように囁きかける。
ぷん、と酒の匂いがした。
思わず顔を背けたくなるのを我慢する。
「……ミリア」
「もう、お寝坊さんね」
薬の副作用により泥酔している夫は、私をミリアだと勘違いした。
こちらの思惑通りだ。
癖の強い、ブラウン色の髪を優しく撫でてやる。
すると私には一度も向けたことのない微笑を浮かべた。
(ああ、気持ち悪い)
内心そう思いつつ、私は笑顔を取り繕う。
夫は視点の定まらない顔つきで、私を見つめた。
「今夜は会えないはずだったろう?」
「映画の撮影が延期になったの」
「だから会いに来てくれたのか?」
「もちろんよ。あなたを愛しているから」
二度ほどミリアの出演する映画を観たが、あまり演技が上手いとは言えなかった。
美貌と若さだけで何とかなっているのだろう。
ミリアの普段の喋り方は、二人の逢瀬を追っていた探偵から事細かに聞いていた。
私よりも高く澄んだ声で、子猫が鳴くように話すのだ。
異性に媚を売ることに躊躇いのないミリア。
どうやら夫の他にも複数の恋人や愛人がいるようだった。
そうとはつゆ知らず、真実の愛だと信じて疑わない夫に笑いが込み上げてくる。
「こっちへおいで、ミリア」
「……月のものが来ちゃったの」
「そうか、あまり無理をしてはいけないよ」
「ええ、そうするわ」
私は腸が煮えくり返りそうになった。
『役立たずが』
夫が私に言い放った言葉が脳裏をよぎる。
この扱いの差は一体、なんなのだろうか。
私をただの子どもを生む道具としか見ていない夫。
(そんなに欲しかったらミリアに生んでもらえばいいのよ)
何股もしているミリアのことだ。
避妊は抜かりないだろうし、仮にできたとしても素直に生むとは思えない。
(だったらなおさら二人に悪夢を見させてあげる)
「ねぇ、アラン。私、あなたの子どもが欲しいわ」
「俺もミリアとの子どもが欲しいよ」
「でも月のものが終わるまでお預けだし私、引っ越したの」
「へえ、どこへだい?」
「隣街のモンベルよ。アパルトマン暮らしは窮屈だから一軒家を借りたの」
モンベル街はサイネン街から馬車で約二十分。
ミリアが今、街外れに住んでいるアパルトマンへ行く時間と大して変わらない。
それに隣街の一軒家だと、今よりも周囲の目を気にする必要もない。
もっとも、夫はミリアと付き合っていることを隠す気はあまりないようだけれど。
「そうか、なら引っ越し祝いをしなくてはいけないね」
「本当? 嬉しい!」
「家の場所はどこだい?」
私はミリアになりきって、嘘の場所と次に会える日時を教えた。
夫は忘れないように、といつも持ち歩いている手帳に万年筆で書き記す。
(本当に馬鹿な男)
夫を見下しながら、私は天真爛漫に笑ってみせる。
「さあ、俺の可愛い子猫ちゃん。隣へおいで」
「その前にシャワーを浴びてくるから、アランは先に寝てて」
「ああ、そうするよ……」
薬が効いてきたのだろう。
夫は大きく欠伸をすると、瞼を閉じた。
私は笑うのをやめ、夫の部屋から逃げるように抜け出す。
準備は整った。
後はあの場所で夫を待つだけだ。
♢♢♢
翌日の午前中、私は夫に教えた場所へと来ていた。
いつもとは違う華美な服装をして。
今の季節は夏。
ここは一年中、霧が発生しやすいため視界が悪い。
「ミリア、待たせたね」
ほどなくして夫が現れた。
手には薔薇の花束とワインを持っている。
(霧が出てくれていて助かったわ)
「こんな場所に引っ越すなんてミリアは変わり者だな」
「とても静かで暮らしやすいの。新しい家はこっちよ」
私は夫に背を向け、歩き出した。
もちろんこの先に一軒家などない。
「ここは……」
「アラン、どうしたの?」
「いや、何でもないよ」
「…………」
やっと夫も気づいたようだ。
ここがどこなのか。
滝壺の音が私たちの鼓膜を震わせる。
そう、ここはミュスカルデルの滝の近く。
夫と二人きりで唯一、訪れたことのある場所。
夫と一度だけ、気まぐれに口づけをした場所。
「なあ、ミリア……」
「せっかくだし、滝壺の見える所まで行きましょう」
「あ、ああ……」
一歩、一歩と進んで行く。
霧がより濃くなってきた。
「わぁ! すごい!」
私は無邪気を装い、滝壺を覗き込む。
川から勢いよく水が流れ落ち、空気は冷んやりとしていた。
ミュスカルデルの滝は名の知れた観光地。
同時に危険な場所でもあるのに、柵などは設置されておらず毎年、何人かの死者が出ている。
「きゃあっ!」
「ミリアッ!」
私はぬかるんだ地面で足を滑らせるフリをした。
夫はミリアを助けようと、迷うことなく手を伸ばす。
その手を私は掴み、夫の顔をジロリと覗き見る。
「――捕まえた」
「えっ?」
本来の声に私が戻すと、夫はポカンとした。
地頭は良いはずなのだが、女が絡むとまるきりダメらしい。
「――おやすみなさい、あなた」
「お、お前はリゼット……!?」
私がミリアではなくリゼットだと気づいた時には、夫の両足は滑って地面から離れていた。
そのまま滝壺へと真っ逆さまに落ちてゆく。
悲鳴は水音に掻き消され、聞こえなかった。
「ふふ、いい夢を――」
薔薇の花束とワインは邪魔なので、滝壺へと投げ捨てておいた。
血のように真っ赤な薔薇。
こんなにも美しいと感じたのは久しぶりだ。
「さて、と。片付いたことだし帰ってお茶にしましょ」
夫の体が滝壺に呑み込まれるのを見届けると、私は軽い足取りでハウンド侯爵家へと帰路につく。
♢♢♢
夫が突然、行方不明になって数ヶ月。
義父も義母も、息子が生きて帰ってこないかもしれないと諦め始めていた。
私にどうしたいかと聞いてきたので、あくまで控えめな態度で実家に戻りたいことを伝える。
こうして思いの外、あっさりと離縁することができたのだった。
♢♢♢
「ふわぁ、良い天気」
冬だというのに、よく晴れてポカポカと暖かい。
つい微睡んでしまいそうになる。
離縁する際、売れ出していたミリアが複数の男性と付き合っていると出版社に教えた。
いつの時代もゴシップは人々の大好物だ。
あっという間にミリアの評判は落ち、今では女優業を辞めて娼館で働いているらしい。
あばずれ女にうってつけの職だ。
私は夫だったアランからひどい扱いを受けていたことを理由に、多額の慰謝料を貰っていた。
これだけあれば当面の間、好きなことをして暮らしていけるだろう。
「お姉様、お客様がお見えですわ」
三つ年の離れた妹のルイーゼ・カーソンが、好奇心を青色の瞳に宿しながら私に言った。
「ありがとう、ルイーゼ」
「帰ってきたばかりなのに、お姉様も隅に置けませんわね」
ルイーゼがくすくすと笑い、目配せしながら退室する。
「やあ、リゼット」
「会いたかった、ジェームズ」
私は愛する彼の胸へと飛び込む。
アランは自分だけが愛人を作っていると思っていたようだけれど、妻にも愛人がいるとは考えが及ばなかったようだ。
ジェームズ・クレイはハウンド侯爵家の執事をしていた。
私がアランから愛されていないと、いち早く気づいた人物でもある。
艶やかな黒髪、オリーブ色の健康的な肌。
アランよりも整った顔立ち。
執事服の彼も素敵だったけれど、私服姿もまた魅力的だ。
アランがミリアと逢瀬を交わす間、私もジェームズと肌を重ねていた。
新婚初夜、アランに『お前を愛することはない』と宣言されたベッドの上で。
「ああ、愛してるわ、ジェームズ……」
潤んだ瞳で彼を見上げる。
ジェームズは優しく微笑むと、私の体を抱きしめながらそっと口づけを落としたのだった。
END
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