うしかい座とスピカ

凛音@りんね

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青い鳥

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 ちょっと目を離したばかりに、取り返しのつかない事態に陥ってしまうことがある。
 それが例え、日常生活の些細な気まぐれから生じたものだったとしても、当の本人からしてみたら何の慰めにもならない。

 だからエマが庭園の真っ白な花をたくさん咲かせているラマルキーの枝の間に突然の来訪者を見つけた時、今この瞬間そう感じている人がいるに違いないと確信した。

「まあ、あなたはどこからきたの?」

 エマは自分よりも少し高い位置に留まっている、小さな生き物に話しかけた。
 小鳥はエマを見ても逃げずに、黒く丸い瞳でじっとこちらを見つめている。

「ほら、怖くないわ。こちらへいらっしゃい」

 エマは驚かせないよう、ゆっくりと腕を伸ばした。
 しばらくそのままの姿勢でいると、おもむろに枝からぴょんと飛び移り、エマの人指し指に桃色の両足をあずける。

「いい子ね。私はエマよ、あなたの名前は?」

 小さな生き物は答えるように、甲高くピュイッと囀る。 エマは少し困った顔をして、すぐに笑顔になった。

「あなたのこと、青い鳥さんと呼ぶわね」

 それから指に乗った小鳥の姿を、じっくりと観察する。

 全体はやや紫がかった深い青色で頭は白く、翼の付け根辺りまで縞模様が入っていた。
 翼には青い縁取りがある黒い羽毛が生えており、風切羽と尾羽も同様に黒い。

 目はつぶらで黒く、嘴の上にある鼻は白色で、頬の辺りの相対的な模様が愛らしい顔立ちをより一層引き立てている。
 指に乗せている足は温かく、どこか恐竜を思わせる風姿をしていた。

「どうなされましたか、お嬢様」

 急な来客の対応を済ませたユーリはエマの姿を追い、薔薇のアーチから彼女の姿を見つけるとすぐに声を掛けた。
 快活なエマはユーリに駆けよろうとして、思い留まる。
 
 エマはユーリへ静かにするようジェスチャーを送ると、小鳥へと視線を戻した。

「あのね、ユーリ。庭を散歩していたらこの子がいたの」

 ユーリが自分のそばまで来るのを待って、エマは状況を説明した。

「これだけ人馴れしているから、飼い鳥じゃないかしら」

 小鳥はユーリが近くまで来ると、首を傾げて様子を伺っているようだった。
 ユーリはそれ以上近づかず、細心の注意を払ってエマに返事をする。

「はい。足輪もついていますし飼い鳥で間違いないでしょう」

 ユーリの言う通り、左足首に銀色の輪があって春の日差しを浴びてきらりと光った。
 エマは足輪に気づいていたが、何のためなのかよく知らなかったので、もしかしたら手がかりにならないかと彼に訊ねた。

「ねえ、足輪これに住所とか書いてないかしら?」

 ユーリは小鳥に近づかず、立ったままの位置から足輪を素早く詳細に調べて返答する。

「何らかの情報を刻印している場合もありますが、残念ながらこの足輪には見当たりません」
「そうなのね」

 エマはがっかりして眉を下げた。

「でも、この子の飼い主は必死で探しているに違いないわ」
「捜索願いが出ていないかすぐに調べてみます。それまで安全な場所で保護いたしましょう」

 ユーリは豪奢な屋敷に視線を向ける。
 エマは頷くと小鳥に話しかけた。

「青い鳥さん、おうちへ入りましょう」

 すると小鳥はピッと短く鳴いてエマの肩に飛び移ったので、羽ばたいた瞬間に遠くへ飛んで行ってしまうのではないかどきまぎした。
 そうでないと分かると、エマは胸を撫で下ろす。

「いい子ね、すぐに安全なところへ連れて行ってあげるわ」

 エマはあまり体を揺らさないよう、慎重に歩き出す。
 その後ろを、ユーリが規則正しい足取りでついて来た。

 今や太陽は高い位置にあって、柔らかな光が辺り一面に降り注いでいる。
 厳しい寒さを耐え忍んでいた草木たちは、春の訪れを待ちわびて一斉に芽吹き、地上に生きるすべてのものが美しさを讃えていた。

「さあ、もうすぐ着くわ」

 二人は八面形の白く塗られたガゼボの側を通り過ぎ、屋敷へ続く石畳を進んで行った。
 花壇には一面チューリップが咲き誇り、ほのかに甘い香りを漂わせている。
 エマは匂いを嗅ぐと、幼い自分がユーリに抱かれて美しく広大な庭園を眺めている光景を思い出した。

 ユーリは優しくあやすように、チューリップの色ごとに違う花言葉を教えてくれた。
 エマはとりわけ赤いチューリップが好きで、見かけるたびに彼に花言葉を訊ねた。

 何度同じことを聞いても嫌な顔ひとつせず、ユーリは小さな主人のために説明する。
 花言葉は『愛の告白』『真実の愛』で、エマにとって生まれて初めてときめきを覚えた言葉だった。
 
 この気持ちをたどたどしくユーリに打ち明けると、エマもいつか誰かを大切に想う日がくるだろう、花言葉の持つ意味が分かるだろうと教えてくれた。

 エマは話を聞くなりユーリから降りて、花壇へ駆け寄ると無邪気に赤いチューリップを一輪摘み取り、彼を見上げながら差し出した。
 ユーリは僅かに驚いた表情をしたが、エマは気にせずにこりと笑っている。

「あなたへのおくりもの」

 エマはマホガニー色の瞳をきらきらと輝かせた。

「はなしをきいてたら、ユーリにわたさなきゃっておもったの」

 ユーリは少しばかり躊躇ったが、すぐに優しく微笑みながら跪くとチューリップを受け取った。

「ありがとうございます、お嬢様」

 エマは満面の笑みを浮かべ、むっちりとした小さな腕を伸ばして抱っこをせがむ。
 ユーリはエマを抱き上げると、愛おしそうに頭を撫でた。

 その後のことと言えば、母親に毒や棘のある植物もあるので勝手に触れてはいけないと叱られ、赤いチューリップは花瓶に挿して壁龕ニッチへと飾られた。

 あの時のことをユーリは覚えているのかしら、とエマは考えたが何となく気恥ずかしくて聞くのをやめた。

 そうしているうちに屋敷の前までたどり着き、ユーリが進み出て扉を開けるとエマは慣れた様子で先に入って行く。

「いい子にしてたわね、青い鳥さん」

 エマが肩にちょこんと乗っている小鳥に微笑むと、小鳥は彼女の唇の端を甘噛みした。

「こら、だめよ。くすぐったいったら」

 エマはくすくすと笑う。

「ねえ、うちに鳥籠ってあったかしら?」
「旦那様が以前お使いになっていたものがあったはずです」
「お父様が?」

 エマは意外だと言わんばかりに、きょとんとした。
 父親は生き物に興味がないとばかり思っていたからだ。

「はい。旦那様はお若い頃、庭で怪我をした野鳥を保護されては回復するまでお世話をしていたのです。最近はご多忙でそのようなお暇がないとよくおっしゃられていました」
「――へえ、私は初耳だわ」

 エマは自分抜きで父親と思い出を共有していたユーリに、少なからずジェラシーを感じた。
 エマの表情の変化から心境を察知したユーリは、あくまで折り目正しく言葉を続ける。

「ご結婚され、お嬢様がお生まれになられる前には保護するのを辞められていたのです。わたしにお話された時も、取り立てて言うほどの事でもないとおっしゃられました。もし、わたしの無分別な言動をご不快に感じられたのでしたらお詫び申し上げます」
「もう、ユーリが謝ることじゃないわ」

 エマはこれ以上ユーリを責める気分にはならなかったし、自分の子供じみた感情がひどく恥ずかしかったので、この話は終わりにすることにした。

「せっかくだしその鳥籠を使いましょう」
「では、すぐにお持ちいたします」

 ユーリは幅の広い布張りの立派な階段を、静かに上がって行った。
 エマはエントランスの絨毯の上に突っ立ったままでいたので、応接間へ向かうことにした。
 ユーリも自分の姿が見えなければ、いつものように屋敷の中を探すだろう。
 
 エマは応接間に入ると中央に配置されている、お気に入りのベルベットの猫脚ソファに腰を下ろす。
 自分の他に誰も居ない時は、靴を履いたままの足を縁に掛けてごろりと寝転ぶのがエマの密かな楽しみだったので、いつものように横になろうとしてハッとする。

「危なかったわ、ごめんなさいね」

 エマが左手の人差し指を肩へ伸ばすと、小鳥はすぐに飛び乗ってきた。
 小鳥はストレッチをするように羽を片方ずつ足と一緒に伸びをして、最後に両羽をくっつけるように持ち上げた。

「あら、私のこと、慣れてきてくれたのね」

 両手に収まってしまうほど小さな生き物がこんなにも懐いてくれることに、エマは喜びで胸がいっぱいになった。
 今まで守られるだけの立場であった自分も、誰かを慈しみ、育むことができる。愛を与えることができる。
 
 たとえ草原の羽虫や道端に咲く野花であっても、この気持ちは変わらなかった。
 エマは赤いチューリップの花言葉を思い浮かべ、真の意味を知覚する。

(ああ、きっと世界は愛で満ち溢れているのね――)

「お待たせいたしました、お嬢様」

 エマは夢見心地から現実に引き戻されて、一瞬ぽかんとしてしまった。

「どうなされましたか?」
「ううん、なんでもないわ。鳥籠はあったの?」
「はい、こちらになります」

 ユーリは吊り下げ式で円形の、下部と上の開口部に縁取られた装飾が美しい鳥籠を手にしていた。
 古めかしい雰囲気を醸し出していたが、きちんと手入れをされていたため、すぐに使えそうだった。

「ほら、ここがあなたのおうちよ」

 エマは開口部からそっと中へ入れてやると、小鳥は備え付けてある天然木のパーチに留まった。
 小鳥の様子を見ると、ほっと肩を撫で下ろす。

「これでひとまずは安心ね」

 小鳥は嘴をめいっぱい開けて欠伸をすると、ごにょごにょ呟きながら瞼を閉じた。

「きっと疲れたのね」

 小さく体を揺らしながら呼吸をしている小鳥を見て、エマは飼い主の心情を憂いた。

「早くこの子の飼い主を探してあげなくちゃ」
「ですが、お嬢様」

 ユーリが珍しく話を遮ったので、エマは幾らか驚く。

「まずは水分と食料を与えることが最善かと思われます」

 そう聞くなり、当たり前のことになぜ気づかなかったのか自分を責めたくなったが、今は小鳥のためにくよくよしている場合ではない。

「そうね、早く用意してあげましょう」

 エマは小鳥が一体何を食べるのか全く分からなかったので、いつものようにユーリへ尋ねた。

「この子は何を食べるのかしら?」
 
 ユーリはなるべく簡潔に説明した。

「この鳥は種子類を主食としている穀食性の動物です。飼い鳥には主にアワ、キビ、ヒエ、カナリアシード、カキガラなどを与えます。水は毎日新鮮なものと交換し、ミネラルの補給には塩土、カトルボーンを与えます」

 エマはなるほどと感じつつ、ユーリに再度訊ねる。

屋敷うちにそれらはあるの?」
「残念ながらありません。ですが果物や青葉も好んで食べますので、与えても大丈夫なものをすぐにご用意いたします」
「自分で用意したいから、何を与えていいのか教えてちょうだい」
「お嬢様にお手間をかけさせるわけにはいきませんので、わたしが」
「いいえ、私がこの子のためにしてやりたいの。お願いよ」

 今度はエマの方が遮った。
 エマの真摯な態度にユーリはほんの一瞬、どう対応すべきか判断を迷ったがそれ以上提言するのをやめ、素直に従うことにした。

「かしこまりました。よく与えられている果物は苺や林檎、桃、洋梨などです。これらはバラ科になりますので、葉と種の部分は取り除いて与えて下さい。一度にたくさん食べないので少しの量で十分です。バナナも大丈夫ですがカロリーが高いのと、葡萄は水分が多いのでいずれも与え過ぎないようにお気をつけ下さい」
「分かったわ、ありがとう」

 エマは礼を述べると、キッチンへと急いだ。
 普段はご飯の支度は専用の機械が、午後のお茶はユーリに淹れてもらっていたので、誰かのために用意するのはエマにとって初めての体験だった。

 けれど包丁やまな板がどこにしまわれているのか全く知らないことに気づき、エマは途方に暮れる。
 手当たり次第に戸棚を開けてやっと見つけると、次に言われた果物を探しに取り掛かった。

 キッチンと一体化した冷蔵庫はシックな木製キャビネットに真鍮の取っ手がついており、一見すると冷蔵庫には見えない作りになっている。
 エマは幅が自身の身長の二倍はありそうなキャビネットの前に仁王立ちすると、左手の取っ手を引っ張り勢いよく開けた。

 残念、こちらはシャンパンや瓶詰めの飲料が整然と並べられているだけだった。
 大好きなオレンジジュースを見つけたが飲みたい気持ちをぐっと堪えて、今度は右の取っ手を引いて中を覗き込んだ。

 上三段はあらゆる肉や魚介類が、これでもかというほど詰め込まれている。
 視線を下げていくと、上から五段目に目当ての果物を見つけだし、エマはまるでアレキサンドライトを掘り当てたかのように喜んだ。

 ユーリの教えてくれた果物は全てあったが、小鳥の体格からたくさん食べれないことを考慮し、林檎のみを手に取るとカウンターのまな板の上へと置いた。

 しばらく林檎を見つめ、林檎を手に持って刃を当て、するすると皮を剥いてゆくユーリの姿を思い浮かべ、実際にやろうとして包丁の力加減や林檎の持ち方が全然分からず、どうしようかと考えを巡らせる。

 結局、まな板の上に置いたまま皮の部分を少しづつ削ぎ落としていった。
 どうしてユーリはあんなに上手くできるのかしらと、自分の剥き終わった不恰好な林檎の塊を見ながら首を傾げる。

 種の部分はしっかり取り除き、適当な大きさに切ると皿に移そうとして、まだ用意していなかったことに気がつく。
 食器類は備え付けのガラス戸の棚にしまってあるのが見えたので、あまり時間をかけずに目的の大きさの皿を探すことができた。

 エマは少し深みのある小皿に水を入れ、もう一つの小皿に林檎の欠片を数個置いた。
 それらを銀色のトレイに乗せると、こぼさないように応接間で待つ小鳥の元へと運ぶ。

「お待たせ、青い鳥さん。ごはんとお水よ」

 小鳥は起きていてエマの声を聞くと、ピピッと鳴いて籠の手前に両足でしっかりと掴まり、こちらをじっと見つめた。

「お嬢様、わたしがお持ちいたします」

 ユーリは銀色のトレイを受け取ろうと歩み寄るが、エマは首を横に振る。

「自分でやるから大丈夫よ」

 エマはトレイをテーブルの上に置くと、まず水の小皿を手に取って鳥籠の開口部からゆっくりと入れた。
 小鳥の様子を見ながら、怖がらせないように林檎の小皿も時間を空けて置いてやる。

 小鳥はそれぞれの小皿を観察していたが、やがて林檎のそばへ近寄ると一口齧り、もう一口齧るとシャリシャリ音を立てて咀嚼した。

「良かった、食べてくれたわ」

 エマは心から嬉しさが込み上げ、柔らかく微笑んだ。
 小鳥を見守るエマの目は、母親が我が子に向ける眼差しのように優しく慈愛に満ちていた。

「そうだわ、この子の飼い主を見つけなくちゃ」

 次にやるべきことは、もうこれしかないとエマは確信していた。

「お嬢様をお待ちしている間に、捜索願いの情報が出ていないか調べておりました」

 有能な使用人であるユーリが、ただ待っているだけのはずがなかった。
 エマはリビングの壁際にある、半透明の小さな電子機械へと視線を移す。
 情報は随時更新され、あらゆる文字や映像が浮かび上がり、下から上へとせわしなく流れては消えていった。

「飼い主は見つかったの?」
「今も探しておりますが、まだ該当する情報がありません」

 ユーリはインターネットの膨大な情報を走査していた。 もちろん、地球以外の惑星の事柄については省くよう設定している。

「そう」

 エマはがっかりしたが、まだ望みがついえたわけではない。
 この分野に関して、ユーリほど頼りになる者は他にいないのだから。

「こちらから情報を掲示したいのですが、よろしいでしょうか?」

 答えは決まっていた。

「ええ、そうしてちょうだい」
「かしこまりました」

 ユーリは返事をするのと同時に、今回の事柄に関する情報を詳細にまとめて送り出すのに一秒の何十分の一の時間も掛からずやり終えると、これに対する反応を確かめるように目を瞬かせながら説明した。

「今、発信しました情報は極めて匿名性の高いもので、お嬢様のお名前やお住まいの場所は決して開示されません。小鳥の画像とともに身体的特徴や、保護された地域を当事者に分かるように記しております。地球でのインターネットの普及率は96%ですが、このうち情報を閲覧しているものの数はおよそ78%で、国内であれば数値はもう少し上がります」
「反応はあったの? 誰かから返信は?」

 エマは急かすように、早口でまくし立てる。

「情報はあらゆる形で急速に拡散されております。各方面から反応はありますが、飼い主らしき人物からの返信はまだありません」

 エマはじれったくなり、知人に片っ端から連絡したくなった。
 だがユーリのしていることがそれと同じ――いや、それらをはるかに上回る速度で、想像もつかない数の人間や機械と応対していることを考えるとじっとしていることにした。

 小鳥は小皿の水を飲むとパーチへ戻り、羽毛をぶわっと膨らませて体を何度か振るとまた眠り始めた。
 安心して目を閉じる小鳥を見て、エマは何としてもこの子を守らなければ、と心に誓う。

 数分間、ユーリは動かずにいたが不意に声を上げた。

「お嬢様。たった今、飼い主と思われる人物から返信がありました」
「本当?」

 エマは思わず立ち上がった。

「はい、これから対話を行いますのでしばらくお待ちください」

 そう言うなり、ユーリは再び一言も発しなくなる。
 おそらく脳内で直接、やり取りをしているのだろう。
 ユーリは目を開いたまま数分間同じ状態だったが、エマは辛抱強く待ち続けた。

「お待たせいたしました、お嬢様」
「どうだったの?」
「はい、小鳥の飼い主で間違いないようです」
「良かった……」

 エマは安堵の息をついた。

「住んでいる場所は第三地区で、距離的にはそれほど離れていません。今朝、小鳥を部屋に放鳥し鳥籠の掃除をしている最中に、飼い主の子どもが窓を開けたために逃げ出してしまい、家の近くをくまなく探していたそうです」
「まあ、そうだったのね」

 エマは顔を曇らせた。

「でも、なぜすぐに情報を上げなかったのかしら?」
「わたしも気になりましたので尋ねたところ、自宅の電子機械全ての交換を同日に予定しており、直ちに使えない状態だったようです。逃げ出してからすぐに近くを探し回り、それから知人に連絡して情報がないか調べてもらったのですが見つからず、また地区の外まで飛んで行ったとも思わなかったので一旦引き上げ、お嬢様が小鳥を保護されましたのが午後を過ぎた頃でしたので、その頃には機械の交換も終わり自宅から情報が出ていないか調べていたところ、わたしの上げた情報へたどり着いた、というわけです」
「つまり、この子の行動力は予想よりはるかに逞しかったのね」

 エマは鳥籠の中でちょこんと座ってこちらを見ている小鳥の体のどこに、そんな力が秘められているのかと思案する。
 同時に飼い主に対して憤りを覚えた。

「飼い主はもっと早く情報は上げるべきだったわ。もしかしたら保護されずに、今も外を心細く外を彷徨っていたかもしれないじゃない」
「その事に関しましては飼い主も強く反省しておりました。もちろん二度とこのようなことは起こさないように最善を尽くしますが、万一そのような事態に陥った時は直ちに情報を上げるよう留意すると約束されました」
「それじゃ、今回はこの子の幸運に免じて許すわ」

 エマは自分がどうして怒っているのか、この不明確な気持ちの正体を突き止めようとする。

(――私はまだ、この子と一緒に居たいのだわ)

 目の前の小鳥と引き離されてしまうことが悲しく、飼い主に八つ当たりをしているのだと分かり、再び自身の子どもじみた感情に恥ずかしさを覚えた。

 もちろん小鳥のために一刻も早く飼い主の元へ帰してやるべきだったし、飼い主も完全に落ち度があった訳でなく、こうして無事に見つかって涙しているかもしれない。

 だから、そこまで責める必要はなかった。
 ただ行き場のないこの気持ちを、どうしてよいのか分からずに持て余しているのだ。

「お嬢様」

 ユーリが俯くエマに、思慮深い目を向ける。

「小鳥がこうして無事に飼い主の元へ帰れるのも、お嬢様が保護され懸命にお世話をなされたからです。誰にでも成し得ることではありません。お嬢様は慈悲深い心をお持ちになっておられるのです」

 エマは答えず、籠の中の小鳥を見つめる。

「飼い主と二時間後に小鳥の引き渡しを行います。どうかそれまでのお世話をお願いしたいのです」
「……私はこの子ともう少しだけ一緒に過ごせるのね」

 ちょうど二時間後はピアノの稽古をしなければならない。
 自身のわがままで休ませてはもらえないのは、分かりきっていた。

「はい。待ち合わせ場所は決めていますので、わたしが責任を持って小鳥を飼い主へお渡しいたします」
「ええ、お願い」
「それと」

 ユーリはエマを見ながら言葉を続けた。

「差し出がましいかもしれませんが、若かった頃の旦那様も話し振りから、今のお嬢様のように随分と思い悩んでおられたように感じました」
「お父様が?」
「はい、わたしにお話されたときに言っておられたのです。保護をした鳥が元気になり、自然へ帰すときは嬉しいはずなのに同時に決まって悲しくなるのだと。このまま手元へ置いて、ずっと慈しんでやれたらどんなにいいかと。ですがそれは、自分の独りよがりな想いであって鳥の幸せを考えたら、手放してやるのが一番なのだと答えを出されたとのことです」

 エマは少年時代の父親の姿を思い浮かべた。
 父親も籠の中の小鳥を手放したくなかった――幼いながらに、母性ともいえる愛情を胸に抱いていたのだ。

 だが、それは自己中心的な感情で、狭い鳥籠に閉じ込めておくのは小鳥の幸せとは言い難い。
 翼を広げ、どこまでも続く大空を飛んで行く姿を思い描く。

(あなたたちは、ここから自由に羽ばたいてゆくの――)

「私とお父様ってやっぱり親子なのね」

 エマは微笑みながら、噛み締めるように呟く。

「さあ、青い鳥さん。もうすぐお家へ帰れるのよ。それまであなたのお世話をさせてね」

 小鳥がピュイッと甲高く返事をすると、エマは愛おしそうに笑いかけた。

 ♢♢♢

「お嬢様」

 エマは読んでいた本から顔を上げると、目を丸くする。

「まあ、ユーリったらどうしたの?」

 ユーリは真っ赤なチューリップの花束を、大切そうに抱えていた。

「先日保護されました小鳥の飼い主から、お嬢様へと承っております」
「私は見返りを求めてやったわけではないのよ」
「そうおっしゃらず、どうかお受け取りになって下さい」

 エマは少し困った表情をしたが、好意を無下にするのも気が引けたので受け取ろうと立ち上がった。

「それじゃ、遠慮なくいただくことにするわ。でも、どうして赤いチューリップなの?」
「小鳥の飼い主から、お嬢様のお好きな花をと聞かれましたので、誠に勝手ながらそうお答えしたのです」

 ユーリの返答に、思わずエマの心臓が高鳴る。

「私が好きだと覚えてくれていたの?」
「はい。お嬢様はいつもわたしに赤いチューリップの花言葉をお聞きになられました。いつの日か、花壇から一輪お取りになって渡してくださいました」

 遠き春の記憶を辿りながら話すユーリは、微笑をたたえている。
 エマは暖かな風が頰を撫でるような、くすぐったくも心地よい気持ちになった。

「ええ、あの後お母様に叱られたんだったわね」
「左様でございます」

 はにかむように笑うとユーリからチューリップの花束を受け取り、胸いっぱいに匂いを嗅いだ。
 瞬間、あの日の様子が脳裏に蘇る。
 幼いエマはユーリに抱かれ、一面チューリップが咲く花壇を眺めていた。
 それはまるでゆりかごのように、エマを優しく包み込んでいる。

 不意に、ユーリから赤いチューリップの花束を贈られたことを思い出した。
 おやつのチョコレートをあげた日がホワイトデーだったので、わざわざ用意してくれたのだ。

(ユーリ、いつも本当にありがとう)

 柔らかな日差しが降り注ぎ、吸い込まれそうな青空を白い雲がゆっくりと流れてゆく。
 どこからか小さな青い鳥が飛んで来て、エマの肩に留まると彼女は殻を突き破り、青い鳥と共に地上のゆりかごから大空へと力強く羽ばたいた。

 エマは瞳を閉じて、花束をそっと抱きしめる。

「こちらが一緒に添えられておりました」

 エマはユーリから白い封筒を受け取り、丁寧に開けて中を覗くとお礼の手紙とともに一枚の写真が入れられていた。

「まあ! 見て、ユーリ」

 それは小鳥が巣箱で、まだ生まれて間もない雛たちと仲睦まじく体を寄せ合っている姿だった。

「あの子、お母さんだったのね」

 エマは思わず目頭が熱くなる。
 小鳥はお腹に宿った命を、必死に守ろうとしていたのだ。

「ユーリ、私ね」

 エマはユーリを見つめながら、話し始める。

「これから、また困っている子を見つけたら助けたいの。だからあの鳥籠は、私が譲り受けることにするわ。お父様だって文句は言えないはずよ」
「では、わたしから旦那様にお伝えいたします」
「いいえ、私が自分で伝えるわ。だって親子ですもの」

 エマはいたずらっぽく笑ってみせると、踊るように軽い足取りでくるりと体の向きを変えた。

「せっかくいただいたお花だし、早く生けてあげなくちゃ」
「それでしたら、わたしが」
「大丈夫よ、自分でやるから。いつもユーリにしてもらってばかりで悪いもの」

 エマはユーリがどう返事をすれば良いか考思する間もなく、会話を進める。

「さあ、行きましょう。これに似合う花瓶を一緒に選んでくれるかしら?」

 そう言いながら、キッチンに向かって歩き出した。
 
「あの頃みたいに壁龕へ飾りましょう」
「かしこまりました」

 先を行くエマの背中は、以前よりもしゃんとしていて頼もしい。
 ユーリはほんの少しだけ寂しそうな表情を浮かべたように見えたが、青く光る瞳以外から窺い知ることは不可能だった。
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