うしかい座とスピカ

凛音@りんね

文字の大きさ
上 下
5 / 12

焼き焦がすもの

しおりを挟む
 本を読むのをやめると、エマは肘をつきながら窓の外に広がる灰色の景色を眺めた。
 遠くの山は霞んでいてよく見えない。
 もう春だというのに天気のせいかいつもより少し肌寒く、椅子の背もたれに掛けてあるカーディガンに手を伸ばした。

「何か温かいものをお持ちいたしましょうか、お嬢様」
 
 ユーリはすかさず、エマの肩にカーディガンをそっと掛けた。

「ありがとう、ユーリ」
 
 エマは微笑みながらカーディガンを羽織る。
 ユーリはいつもエマの様子を注意深く観察しており、彼女の要求に対して鋭敏に対応していた。

 単にユーリがそうであるように設計されているからにすぎなかったが、彼にとってその機能が人間で言うところの生きる目的であり、またエマの幸福が何よりも最優先されるものだと認識していたからだった。
 
 だからエマが不快に感じる事柄は速やかに取り除き、より快適に過ごせるようにしなければならない。

「紅茶をお願いするわ」

 あと何か甘い食べ物も一緒にね。
 エマは思っただけで口にしなかった。
 言わなくても、ユーリが取り計らうのを知っていたからだ。
 そしてあまり食べすぎないように、と量を調節することも。

「銘柄はいかがいたしましょう」

 エマは少し考えてから答える。

「アールグレイにしてちょうだい」
「かしこまりました」

 ユーリは恭しくお辞儀をすると、規則正しい動作で部屋を出て行った。
 エマは開いていた本へと視線を落とす。 

 約五世紀前のノンフィクションで、初めて人類が火星へ降り立ち、植民地時代の幾多の苦悶と葛藤を乗り越え、やがて触手を太陽系外へと伸ばしてゆく壮大で感動的な物語だった。

 エマは幼い頃から何度もこの本を読んでいて、どう話が展開するのか覚えていたが、読む度によりいっそう強く彼らに心惹かれていった。

 その星は地球から見える恒星で一番明るく、古代では豊穣の女神として知られ、初期の天文記録にも記されている。
 天文単位でいえばごく近かったが、人類がこの恒星の星域を回る惑星に到達したのはおよそ一世紀前のことで、科学の加速度的な発達によってついに成し遂げられたのだった。

 その中には様々な用途に適した自立型機械ロボットの活躍も含まれており、すでに人と殆ど見分けのつかないモデルまで作られているらしい。

(もし彼らを見たら、私も見分けがつかないのかしら?)

 エマは古い映画に出てくる彼らの姿を思い浮かべた。
 彼らも人間と変わらず、生命の火花を散らし生きていた。
 誰かを愛してさえいた。
 でも最後には確か――

 結末を思い出すとひどく気の毒に感じ、胸の奥がズキリと疼く。
 ユーリが彼らの仲間であることを認めるのと同時に、悲しいエンドロールに彼も映し出してしまったことに嫌気が差した。

(ユーリは誰にも奪わせたりしないわ。だって彼は私の――)

「お待たせいたしました、お嬢様」

 ユーリが銀のトレイを持って姿を現す。
 エマは先ほどまでの思考を心の底に隠すようにさっさと本を閉じると、机の隅に追いやる。
 ユーリはエマの様子を視覚の端で窺いつつ、彼女の前にティーカップと小皿を静かに置いた。

「まあ、チョコレート」

 エマは小皿に数個乗せられた、小粒だが手の込んだ細工を施されているチョコレートを見るなり、マホガニー色の目を丸くする。
 最近ではカカオ豆の生産量が著しく落ちこみ、滅多に手に入らないと聞いていたからだった。

「いったいどうしたの?」
「こちらは旦那様からお嬢様への贈り物でございます」
「お父様が?」
「はい」

 エマは父親がまた寂しい思いをさせている代償に自分への贈り物を選んでくれたことが嬉しい反面、複雑な気持ちになった。

 まだほんの小さな頃、ユーリに抱かれあやされていたころならいざ知らず、十三歳にもなれば親の苦労や気遣いを人並みに理解することは難しいことではない。

 確かに全く寂しさを感じないと言えば嘘になるが、いつもユーリがエマの善き保護者として、また時には友人としてそばにいてくれることが大きな支えとなっていた。
 だから両親にはこれ以上、負い目を感じて欲しくなかったのだ。

「もうお父様ったら、いつまでも私を子ども扱いするのね」

 そう言いながらも、やはりチョコレートともなれば話は別である。
 エマは意地を張るのをやめると、父親の好意をありがたく受け取ることにした。

「でも、せっかくだしいただくわ」

 エマは半円形をした、光沢のある淡いグラデーションが美しいチョコレートを一粒、手に取ると口へと運ぶ。
 すると舌の上でゆっくりと溶けていき、芳醇な甘さと程よい苦味を放出して味蕾をまろやかに刺激した。

「美味しい」

 エマは思わず顔をほころばせ、口の中に残っている上品な甘さの余韻に心ゆくまで浸った。

「お口に召しましたようで安心いたしました」

 ユーリは先ほどのエマの様子から何か不快な気分でいることを察知していたが、表情や仕草から現在は快適であると判断し、自らも感情を共有しているように微笑してみせた。

「紅茶もすごくいい香り」

 エマはティーカップから立ち上る湯気を形の良い鼻から吸い込み、いつもより少し長めに息をく。
 それから一口飲むと、爽やかなベルガモットの香りが先ほどのカカオの風味と優しく調和し、心地良いハーモニーを奏でた。
 
 ユーリの淹れる紅茶は、いつも最高に美味しい。
 それは何故か? 
 ユーリが全ての銘柄を把握しており、茶葉それぞれの最適な量と時間を完璧に算出し、風味を最大限に引き出せるからだった。

「あなたの淹れる紅茶って、本当に美味しいわ」
「そう言っていただけて大変光栄でございます」

 エマが褒めるとユーリはいつも似たような返事をするのだが、長年の習慣でもはや気にならなくなっていた。

「お父様たち、今度はいつ帰ってくるのかしら?」

 エマは一息つくと、至福のひとときを与えてくれた両親の近況を訊ねる。

「来月下旬にはお戻りになられると伺っております」
「そう」

 短い返事をして、もう一粒チョコレートを頬張った。

「忙しいのだからしょうがないわね。あのね、この本を読んでいたのだけれど」

 エマは隅に置いやった本を、手元へ引き寄せながら話し出す。

「火星に移民し出したばかりの地球では、ごく普通にチョコレートが食べられていて、バレンタインという風習では気軽に送り合ったり災害時の保存食にさえなっていた、なんてとても想像がつかなかったことを思い出したの」

 ユーリは本に記載されている内容と、それらに関する項目を何十万分の一秒もかからずに引き出した。

「確かにその時代は今よりもはるかに多く市場に出回っていましたが、カカオ豆の特殊な生育環境の問題と増してゆく需要に対して、次第に均衡が取れなくなっていったのです」
「ええ、人間が住んでいたのはもう地球だけじゃなくなっていたのだから」

 エマは感慨深げに答える。

「はい、こうして人類が宇宙へと進出し他の惑星に適応していっても、動植物も同じとは限らないのです。数々の研究や実験の結果、カカオ豆はカカオベルトという限られた場所でしか生育が出来ない非常にデリケートな植物だということが分かり、具体的な解決策を見出せず現在に至ります」
「まあ、そうだったの」

 エマは貴重なカカオ豆から作られた、小皿に残っている最後の一粒を見つめた。
 もしかするとこれを食べてしまったら、もう二度とチョコレートを口にすることができなくなるのではないかと感じ、我ながら食い意地の張っていることね、とエマは心の中で苦笑した。

 こんな心情をユーリに悟られたくなかったので、エマはチョコレートから素早く目を離し、話を続ける。

「火星が完全に植民地化された後、他の星にも移民したじゃない? ほら、シリウス星域にある惑星に」
「はい、一世紀前に初めて植民地化され、現在の人口はおよそ二千万人です」
「開拓者たちはその星をシリウスと名付けた。ちょっと紛らわしいわよね」

 エマはくすりと笑った。

「シリウスはまだ開拓されているのよね。ただ、火星や月の時と違うのは、自立型機械の活躍があったことよ。彼らがいたから人類は太陽系の外へと行けたのだし、今だってシリウスで第一市民として懸命に働いている。人々はあまり気にしないけれど、私は彼らを誇りに思うわ。あなたをそう思うのと同様に」
「ありがとうございます」

 ユーリはエマの口調から少し興奮気味であると判断したが、エマは止める間もなく喋り続ける。

「あとね、このことは他の人には決して話さないのだけれど。両親にさえも。でもあなたになら話しても怒ったりはしないだろうから。私は彼らにも心があると思うの。もちろん、ごく単純なモデルは必ずしもそうじゃないかもしれないけれど、私にはそう思えてならないのよ」

 ユーリは返事をしなかった。
 思考回路の中でそれらに関する情報が素早く交錯し、照査された。
 弾き出された結果とエマの言葉が強く反発し合い、彼はしばらく身動きが取れなくなったように停止する。

「どうしてそう思えるのか、私にはすぐ分かったわ。ユーリ、あなたがいたからよ。あなたは人間とすぐに見分けがつくけれど、それは外見だけであなた自身は誰よりも人間らしいわ」
「お嬢様――」

 ユーリはのろのろとした動作で喋り出す。

「単なる意識の模倣にすぎません。わたしたちはそのようにプログラムされているだけです。したがって心、と呼ばれるものは存在しません。フィクションなのです」

 エマは尚も訴えかけるように話した。

「たとえそうだとしてもあなたたちは意識の模倣をしていくうちに、プログラムされたものとそうでないものとの区別がつかなくなり、やがて意識の集合体を作り出すのよ。まるで夢を見ているようにね。誰が見た夢を嘘だと決めることが出来るのかしら? 夢は本人にしか分かりえないのに。心だって同じことよ」

 ユーリは適応外の情報を与えられ、ただじっとエマの話を聞くことしか出来ずにいた。

「あなたは夢を見るでしょう? ほら、実際に眠るわけじゃないけれど、あなたは夢がどういうものかを知っている。想像することができる。想像するということは意識の基本であり中枢よ。意識こそが心なのよ。この二つを切り離して考えることは決してないわ。そうでないと私も心がないことになってしまうから。だからユーリ、あなたにも心があるのよ。あなたはそう考えなくても、私には分かるの。だって、あなたと私はずっと一緒に過ごしてきたでしょう? あなたが私を理解してくれるように、私もあなたを理解しているつもりよ。他の誰よりもね」

 熱っぽく語るエマの頬は火照ったように上気し、僅かに呼吸が荒くなっていた。
 ユーリはようやく正常な動作を取り戻すと、一番にエマの容態を懸念する。

「大丈夫でございますか、お嬢様」
「ええ、平気よ。ありがとう、心配してくれて。あなたはいつも私を気遣ってくれる。私はそれがたまらなく幸せなの。話を戻すけど、シリウスにはたくさんの自立型機械がいるでしょう? 中には人と見分けのつかないモデルも存在すると聞いているわ。だから私、大人になったらシリウスへ行きたいの。もちろん観光目的じゃなく、開拓者としてね」

 エマは両親のことを考えた。
 二人はきっと強く反対するだろう。
 ワーグナー家の一人娘である自分の役割が何であるのか諭そうと、躍起になることだろう。

 けれどエマは、決められた人生をのうのうと歩きたくはなかった。
 誰のものでもない、自分だけの人生をこの手で勝ち取りたかったのだ。

「大変恐縮ですが、お嬢様。旦那様と奥様はご心配されるのではないでしょうか」
「ええ、そうね。でも自分のことは自分が決めるわ。このまま暖かな鳥籠の中で過ごすつもりはないの。私だっていつまでも子どもではないのだし。だからシリウスへ行ってみたいのよ。人間と見分けのつかない彼らと会うために」
「なぜ彼らと会いたいのですか?」

 ユーリは純粋に理解しかねたように尋ねる。
 今のエマの言動は、完全に彼の認知範囲の埒外だった。

「それはね、ユーリ。彼らは人間そっくりに作られている分、結果的に思考もより人間らしくなっているんじゃないかと思うから。たとえ今は意識の模倣だとしても、いつか本物になる時が来るのよ。彼らに会ってそれを確かめたいの」
「そのためだけにですか?」
「ええ、それだけよ」

 ふとエマは、大人になった自分がシリウスへ降り立つ姿を想像した。
 そこにユーリはいないはずなのに、彼と離れて暮らすことに不安を感じ、その事実にひどく当惑する。

「ねえ、ユーリ。あなたはどう思う?」

 ユーリに聞いても仕方のないことは承知していた。
 ただこの漠然と湧き出た感情をどうしてよいのかエマ自身、持て余していたのだ。

「わたしは分かりかねますがお嬢様のお心のままに、とだけ申し上げます」
「――そう、ありがとう」

 エマは力なく笑った。
 ユーリは意識と心についての答えを出そうとしなかった。
 エマと彼自身に対しての最善策だと判断したのだろう。

「さあ、私の話はこれでおしまい。聞いてくれて嬉しかったわ。今度はダージリンを入れてもらえる?」
「はい、すぐにお持ちいたします」

 ユーリはいつもの調子に戻ると、規則正しい動作で部屋を出ていった。
 彼を見送り、窓の外の景色へ視線を移す。
 空は一面濃い灰色に包まれ、大粒の雨が降り出していた。
 エマは握りしめたままでいた本をおもむろに開き、シリウスにいる彼らのことを考えた。

 もし、彼らにも意識と心が存在していることを確認できたとして、その後はどうすればよいのだろう? 
 彼らとともに生きてゆくのか、それともシリウスにいる開拓者のまだ見ぬ誰かと恋に落ち、結婚するのだろうか。 いつか子どもを産み、母親になるのだろうか。

 そのどれもが、ことごとく現実と掛け離れているように思えてならなかった。
 今はユーリのことだけが気掛かりだった。

(ユーリは私から離れたらどうなるのかしら?)

 エマはユーリのことを、誰よりもよく知っている。
 でも他の人から見れば、彼もたくさんいる自立型機械のひとつに過ぎなかった。

 ユーリはまだ自分の中にある心に気づいていない。
 高度に構築されたプログラムが、邪魔をするのだろう。 だがもしを取り除いてやったら、彼は自由になれるのだろうか? 
 自由になったユーリは何を望むのだろうか? 
 いや、その時、彼が決めればいいことだ。

 問題はエマ自身の気持ちだった。
 ユーリという存在がエマにとってどういう意味を持ち始めているのかこの時、はっきりと気づいたのだ。
 心の中で重く渦巻き、エマから楽観的な子どもらしさを永遠に拭い去ってしまった。

 もう後に戻ることは不可能だった。
 エマは小さくため息をつき、皿に残っていた最後のチョコレートを口に入れる。

 それは焼き焦がされたようにほろ苦く、儚く溶けて無くなった。
しおりを挟む

処理中です...