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花冠
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穏やかな春の昼下がりだった。
「とても気持ちがいいわ」
エマは両腕を伸ばし、大きく深呼吸をする。
小高い丘から見下ろせる野原には一面、白い花が咲いており、周りの木立から聴こえてくる小鳥の囀りが耳に心地よい。
「ねえ、ユーリ、下りてみましょう」
エマは返事を待たず、緩やかな坂道を駆け降りて行く。
「お待ちください、お嬢様」
ユーリはエマが勢いのあまり、転んでしまわないかと懸念する。
「ほら、早く来て」
腰まで伸ばした亜麻色の髪を春の暖かな風に靡かせ、いたずらっぽい笑みを浮かべながらユーリの方を振り向く。
つばの広い帽子を被り、細やかな装飾を施された品の良いワンピースに身を包んでいても、心は等身大の少女のままだった。
「はい、ただいま」
ユーリがすんなり追いつくと、エマは走るのをやめる。
「ふふ、ユーリったら、私が転ぶんじゃないかと思ったんでしょう?」
「はい」
「私もそこまでお転婆じゃないわ。最後に転んだのだっていつだったか思い出せないくらいよ」
エマはいかにも慎ましげに、形の良い唇に指を添えた。
「最後にお嬢様が転ばれましたのをわたしが知っている限りでは、五日前に屋敷の大広間でドレスの裾をふまれて――」
「もう! あれは、ドレスが私にぴったりのサイズじゃなかったからよ! 誰だってああなるに決まってるわ!」
エマは赤面しながら、ユーリの腕をぽんぽんと叩く。
「お気を悪くされたのでしたら申し訳ありません。わたしは事実を述べようとしただけなのです」
「ふん、ユーリのいじわる。せっかく忘れていたのに」
わざとらしくふくれっ面をしながら、ユーリを見上げる。
ちょっとばかり、彼を困らせたかっただけだった。
ところがユーリはエマを傷つけてしまった(と認識している)ことにどう対処しようか決めかねているように、しばらく動こうとしなかった。
エマはユーリを追い詰めてしまったことに気づき、慌てて言葉を続ける。
「まあ、いいわ。あなただって悪気があって言ったのじゃないでしょうし。私は気にしていないから大丈夫よ。早くお淑やかになれるように努めなきゃね」
そう言うと、しおらしく笑ってみせた。
「お嬢様、わたしは忘れるということが出来ないのです。いかなる記憶も曖昧さや感情的なものに左右されることはありません。ですので、どうかわたしの愚行をお許しください」
沈黙を破り、説明するユーリはまだ落ち込んでいるように見えた。
「ユーリったら、もう十分に謝ってくれたからいいのよ」
エマも何だか物哀しくなり、声に元気がなくなってしまう。
それはユーリの忘れることが出来ない、という性質がひどく残酷に感じられたからだった。
大抵の人間なら嫌なことも辛かったことも、時間が経てば忘れられるものだ。
もしユーリや彼の仲間のように生きている限り、いつでも鮮明に思い出すことが出来るとしたらどうだろう?
決して気持ちの良いことでないことは明らかだった。
エマは途方に暮れる。
「――ですが」
ユーリは突如、エマの思考を断ち切るように喋り出す。
「ですが、もし仮に全てを忘れることが出来たとしても、同時にお嬢様に関わる記憶も失うのであれば、わたしは決して忘れたいとは思わないのです」
ユーリは青く慈愛に満ちた瞳で、エマを見つめる。
エマは胸が高鳴るのを感じて一瞬、呼吸を止めた。
「ありがとう。あなたの気持ち、とても嬉しいわ」
エマはどぎまぎしながら、必死に平静を装う。
ユーリの言葉の意味は何なのだろう?
いや、意味なんて無いに違いない。
(だって彼は自分のために働いているのだから。もし忘れたりでもしたら、仕事に差し支えるからよ)
エマは自問自答し、それらを意識の縁へ追いやると、目の前に丘の下に広がる野原を見遣る。
「――綺麗」
エマは心から呟いた。
青空は透き通るようにどこまでも広がり、小さな雲がゆっくりと流れていた。
四方を囲む山々は春の陽気で芽吹き、淡く色づいている。
眼下に広がる野原は見渡す限り白詰草が咲き誇っており、まるで一枚の風景画を観ているようだった。
先ほどまでのくよくよした感情など、もはやどうでもいいことに思えた。
エマは再び坂道を駆け降りる。
そして躊躇うことなく、野原の中へ飛び込んだ。
草花たちは天然の絨毯となって、彼女を優しく受け止めた。
「いい匂い」
エマは仰向けになると目を閉じ、大きく息を吸い込んだ。
大自然と自分が一体になっていくのを感じ取る。
「ほら、ユーリも一緒に寝転んで」
ユーリは一瞬、主人の目の前で横になるということが不適切だと判断して迷ったが、エマの命令に従うことにした。
ぎこちない動作で腰を下ろし、横になる。
「こっちを向いて」
体をエマの方に動かすと、まるで鏡像のようにこちらを向いていた。
互いの息遣いが聞こえるほど、二人の距離は近い。
「ねえ、ユーリ」
「はい、お嬢様」
「私、こうして寝転んでいたら急に思い出したの。幼い頃、あなたに抱かれて初めてここへ来たときのことを」
エマはユーリを見つめながら、話し続けた。
「あの時も私はこうやって寝転んでいて、あなたはそばで見守ってくれていたわ」
ユーリは正しい記憶かどうか確かめるように、静かに耳を傾けている。
「そのあと、あなたは私のために白詰草で小さな冠を作ってくれたの。私、すごく嬉しかった」
エマは懐かしむように目を細める。
「もしかしてユーリは、ずっと覚えてくれていたの?」
「はい、覚えておりました」
ユーリは遠い昔の記憶を反芻するように、マホガニー色の瞳の中に幼いエマを映し出す。
「あの時のお嬢様もこう言われたのです。いい匂い、ユーリも一緒に寝転んで、と」
エマは思わず目頭が熱くなり、今にも泣きそうなくしゃくしゃの笑顔になりながら答える。
「そうだったのね。私、昔と全然変わってないのね」
「はい、お嬢様はいつもわたしを気遣ってくださいました。ですから、わたしはお嬢様との思い出を大切にしてゆきたいのです」
エマの顔を涙が伝う。
「お嬢様がやがて大人になられ、わたしが必要でなくなる日まで誠心誠意、お嬢様に尽くしたいのです」
ユーリは起き上がると、エマの涙をそっと指で拭った。
涙がとめどなく流れたが、彼はエマが落ち着くまで何も言わずに見守ってくれた。
「ありがとう、ユーリ」
ようやく起き上がると泣き腫らした目をこすり、ユーリを見つめる。
「私、今日のことを絶対に忘れない。生きている限り、ずっとずっと覚えているわ」
「はい、わたしも忘れることはありません」
「それからね、もうひとつ」
エマは微笑みながら右手を差し出す。
「四つ葉のクローバー。花冠のお返しよ」
ユーリも同じように微笑むと、エマから四つ葉のクローバーを受け取った。
「とても気持ちがいいわ」
エマは両腕を伸ばし、大きく深呼吸をする。
小高い丘から見下ろせる野原には一面、白い花が咲いており、周りの木立から聴こえてくる小鳥の囀りが耳に心地よい。
「ねえ、ユーリ、下りてみましょう」
エマは返事を待たず、緩やかな坂道を駆け降りて行く。
「お待ちください、お嬢様」
ユーリはエマが勢いのあまり、転んでしまわないかと懸念する。
「ほら、早く来て」
腰まで伸ばした亜麻色の髪を春の暖かな風に靡かせ、いたずらっぽい笑みを浮かべながらユーリの方を振り向く。
つばの広い帽子を被り、細やかな装飾を施された品の良いワンピースに身を包んでいても、心は等身大の少女のままだった。
「はい、ただいま」
ユーリがすんなり追いつくと、エマは走るのをやめる。
「ふふ、ユーリったら、私が転ぶんじゃないかと思ったんでしょう?」
「はい」
「私もそこまでお転婆じゃないわ。最後に転んだのだっていつだったか思い出せないくらいよ」
エマはいかにも慎ましげに、形の良い唇に指を添えた。
「最後にお嬢様が転ばれましたのをわたしが知っている限りでは、五日前に屋敷の大広間でドレスの裾をふまれて――」
「もう! あれは、ドレスが私にぴったりのサイズじゃなかったからよ! 誰だってああなるに決まってるわ!」
エマは赤面しながら、ユーリの腕をぽんぽんと叩く。
「お気を悪くされたのでしたら申し訳ありません。わたしは事実を述べようとしただけなのです」
「ふん、ユーリのいじわる。せっかく忘れていたのに」
わざとらしくふくれっ面をしながら、ユーリを見上げる。
ちょっとばかり、彼を困らせたかっただけだった。
ところがユーリはエマを傷つけてしまった(と認識している)ことにどう対処しようか決めかねているように、しばらく動こうとしなかった。
エマはユーリを追い詰めてしまったことに気づき、慌てて言葉を続ける。
「まあ、いいわ。あなただって悪気があって言ったのじゃないでしょうし。私は気にしていないから大丈夫よ。早くお淑やかになれるように努めなきゃね」
そう言うと、しおらしく笑ってみせた。
「お嬢様、わたしは忘れるということが出来ないのです。いかなる記憶も曖昧さや感情的なものに左右されることはありません。ですので、どうかわたしの愚行をお許しください」
沈黙を破り、説明するユーリはまだ落ち込んでいるように見えた。
「ユーリったら、もう十分に謝ってくれたからいいのよ」
エマも何だか物哀しくなり、声に元気がなくなってしまう。
それはユーリの忘れることが出来ない、という性質がひどく残酷に感じられたからだった。
大抵の人間なら嫌なことも辛かったことも、時間が経てば忘れられるものだ。
もしユーリや彼の仲間のように生きている限り、いつでも鮮明に思い出すことが出来るとしたらどうだろう?
決して気持ちの良いことでないことは明らかだった。
エマは途方に暮れる。
「――ですが」
ユーリは突如、エマの思考を断ち切るように喋り出す。
「ですが、もし仮に全てを忘れることが出来たとしても、同時にお嬢様に関わる記憶も失うのであれば、わたしは決して忘れたいとは思わないのです」
ユーリは青く慈愛に満ちた瞳で、エマを見つめる。
エマは胸が高鳴るのを感じて一瞬、呼吸を止めた。
「ありがとう。あなたの気持ち、とても嬉しいわ」
エマはどぎまぎしながら、必死に平静を装う。
ユーリの言葉の意味は何なのだろう?
いや、意味なんて無いに違いない。
(だって彼は自分のために働いているのだから。もし忘れたりでもしたら、仕事に差し支えるからよ)
エマは自問自答し、それらを意識の縁へ追いやると、目の前に丘の下に広がる野原を見遣る。
「――綺麗」
エマは心から呟いた。
青空は透き通るようにどこまでも広がり、小さな雲がゆっくりと流れていた。
四方を囲む山々は春の陽気で芽吹き、淡く色づいている。
眼下に広がる野原は見渡す限り白詰草が咲き誇っており、まるで一枚の風景画を観ているようだった。
先ほどまでのくよくよした感情など、もはやどうでもいいことに思えた。
エマは再び坂道を駆け降りる。
そして躊躇うことなく、野原の中へ飛び込んだ。
草花たちは天然の絨毯となって、彼女を優しく受け止めた。
「いい匂い」
エマは仰向けになると目を閉じ、大きく息を吸い込んだ。
大自然と自分が一体になっていくのを感じ取る。
「ほら、ユーリも一緒に寝転んで」
ユーリは一瞬、主人の目の前で横になるということが不適切だと判断して迷ったが、エマの命令に従うことにした。
ぎこちない動作で腰を下ろし、横になる。
「こっちを向いて」
体をエマの方に動かすと、まるで鏡像のようにこちらを向いていた。
互いの息遣いが聞こえるほど、二人の距離は近い。
「ねえ、ユーリ」
「はい、お嬢様」
「私、こうして寝転んでいたら急に思い出したの。幼い頃、あなたに抱かれて初めてここへ来たときのことを」
エマはユーリを見つめながら、話し続けた。
「あの時も私はこうやって寝転んでいて、あなたはそばで見守ってくれていたわ」
ユーリは正しい記憶かどうか確かめるように、静かに耳を傾けている。
「そのあと、あなたは私のために白詰草で小さな冠を作ってくれたの。私、すごく嬉しかった」
エマは懐かしむように目を細める。
「もしかしてユーリは、ずっと覚えてくれていたの?」
「はい、覚えておりました」
ユーリは遠い昔の記憶を反芻するように、マホガニー色の瞳の中に幼いエマを映し出す。
「あの時のお嬢様もこう言われたのです。いい匂い、ユーリも一緒に寝転んで、と」
エマは思わず目頭が熱くなり、今にも泣きそうなくしゃくしゃの笑顔になりながら答える。
「そうだったのね。私、昔と全然変わってないのね」
「はい、お嬢様はいつもわたしを気遣ってくださいました。ですから、わたしはお嬢様との思い出を大切にしてゆきたいのです」
エマの顔を涙が伝う。
「お嬢様がやがて大人になられ、わたしが必要でなくなる日まで誠心誠意、お嬢様に尽くしたいのです」
ユーリは起き上がると、エマの涙をそっと指で拭った。
涙がとめどなく流れたが、彼はエマが落ち着くまで何も言わずに見守ってくれた。
「ありがとう、ユーリ」
ようやく起き上がると泣き腫らした目をこすり、ユーリを見つめる。
「私、今日のことを絶対に忘れない。生きている限り、ずっとずっと覚えているわ」
「はい、わたしも忘れることはありません」
「それからね、もうひとつ」
エマは微笑みながら右手を差し出す。
「四つ葉のクローバー。花冠のお返しよ」
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