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人魚姫
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エマは大きな硝子張りの海洋の中で、様々な生き物が自由に動き回る様子を、感動と興奮の入り混じった顔で眺めていた。
「わぁ、すごい! ユーリも見て!」
後ろで見守っていたユーリは、エマのそばへと近寄る。
「どうしてこの子たちは水の中で息ができるのかしら?」
「魚のエラには毛細血管が張り巡らされていて、そこに水を通過させることにより血中の二酸化炭素を水中に排出し、水中にある酸素を取り込むからです」
ユーリはしごく簡潔に説明した。
「ふうん、じゃあこの子たちは水の中でしか生きてゆけないのね」
エマは八歳の女の子らしく、説明の意味をあまり深く考えずに返事をする。
「ユーリ、この子はなんて名前なの?」
エマは頭上からこちらを見下ろすように泳いできた、巨大な生き物を指差した。
「この生き物はオニイトマキエイで、世界最大のエイです。マンタと呼ばれることもあります」
「すごく大きいのね」
エマはまるで羽ばたくように泳ぐ、オニイトマキエイの姿に釘付けになっていた。
そこへ視界の端から一匹のウミガメが姿を現し、エマの方へゆっくりと降りてくる。
「あら、カメさん」
幼いエマにも、その生き物を認識することができた。
ウミガメは平たい四肢の前足を使って辺りを優雅に旋回し、エマの前まで来ると静止した。
エマは顔を上げる姿勢で、ウミガメと向き合う。
眼窩から放たれる視線は鋭かったが、不思議と恐怖を感じさせず、むしろ慈愛に満ちているようだ。
思わず両手を硝子につけると、エマはその思慮深く明敏な瞳に見入ってしまう。
しばらくすると、ウミガメは水面へと姿を消した。
「ユーリ、今の見た? 私、ウミガメと見つめ合っていたの」
エマは感動を抑えきれずに話し続ける。
「そうしたらね、何だか私も一緒に海の中を泳いでいるように感じたの。とっても不思議! まるで夢を見ているようだったわ」
うっとりとした様子でほう、とため息をつく。
「あなたもそう感じなかった?」
ユーリは申し訳なさそうに、だがはっきりと答えた。
「お嬢様、わたしは夢を見たことがないのです。ですからそういった感情が脳にどのような影響を与えるのか、わたしには理解が及ばないことをどうかお許しください」
エマは心底、驚いた。
「ユーリは夢を見たことがないの? 本当に? 一度も?」
「はい、一度もありません」
エマは尚も信じられないといったように続ける。
「夢の中では何だってできるのよ。妖精になったり、魔法使いになったり、ツバメの背中に乗ってお空を飛んだりね。私、昨日は雲の上のお城でユニコーンと出会えてすっごく嬉しかったの」
エマはマホガニー色の目を輝かせながら、無邪気に笑う。
彼女の表情を観察していたユーリは訊ねる。
「夢を見るのは楽しいことなのですか?」
「とっても楽しいわ。でも、たまに怖い夢を見ることもあるの。だから寝る前に大好きな絵本を読みながら、楽しかったことをたくさん思い出すの。このおまじないはすごいんだから」
「そうなのですね」
「ええ、そうよ」
エマはちょっと誇らしげに返事をする。
そして夢よりもずっと夢のような目の前の光景へ、意識を戻した。
「ほら、早くあっちへ行きましょう」
エマは前方を指差し、足早に歩き出す。
奥には大小様々な水槽があり、全てが海の一部を切り取ったように均等な生態系を保たれていた。
砂からぴんと細長い体を伸ばして顔を覗かせている魚、岩の隙間でじっとしているダンゴムシのような灰色の生き物、珊瑚礁の近くで群れをなす色鮮やかな魚たち――
どれもが美しく、エマの心を震わせた。
愛おしく、また尊いと思った。
(地球は美しいもので満ち溢れているんだわ――)
エマは胸を躍らせた。
少し離れたところに丸い、薄暗く大きな水槽があった。 周りには誰もいない。
中ではたくさんの透明な、何本もの触手を生やした円状の生き物が浮遊していた。
「この子たちはクラゲね。絵本に出てきたから知ってるわ」
クラゲたちは人工的な光に照らされて、七色の見事なグラデーションを作りながら、無限の時を揺らめくように動いている。
エマは急に思い立ったようにユーリと向かい合うと、後ろで手を握り彼を見上げた。
「あのね、ユーリ。私、いいことを思いついたの」
「なんでございますか、お嬢様」
「夢を見るのは、眠っているときだけじゃなくてもいいのよ」
エマは少しはにかみながら、ユーリに説明する。
「今、あなたと私は夢の中にいるの。私は小さな人魚姫であなたは優しい王子様。私たちはとても幸せで、互いに手を取り合って見つめるの」
エマはユーリの手に触れた。
「そして海の中を自由に泳ぎまわるのよ。ずっとずっと、どこまでも」
エマはユーリをじっと見つめ、彼も同じように見つめ返す。
「もし夢を見たくなったら、いつでも見れるのよ。目を閉じて頭の中で思い描くの」
そう言うとエマは静かに目を閉じた。
ユーリも目を閉じると、エマの言葉通りに情景を構築してゆく。
するとエマは可憐な人魚姫となってユーリの前に現れ、亜麻色の髪の毛を静かに躍らせながら微笑んだ。
二人は手を取り合うと幸せそうに見つめ合い、揺蕩うクラゲや優雅に遊泳するウミガメとともに、七つの海を泳いでいった。
どこまでも、どこまでも――
ユーリは目を開けた。
エマは夢の中で見た人魚姫のように頬を赤く染め、澄んだ瞳で彼を見つめている。
「私、夢を見ていたの。とってもすてきな夢よ」
ユーリも微笑をたたえながら跪くとエマの小さな手を取り、優しく口づけをした。
「わたしも同じ夢を見ておりました。マイプリンセス」
「わぁ、すごい! ユーリも見て!」
後ろで見守っていたユーリは、エマのそばへと近寄る。
「どうしてこの子たちは水の中で息ができるのかしら?」
「魚のエラには毛細血管が張り巡らされていて、そこに水を通過させることにより血中の二酸化炭素を水中に排出し、水中にある酸素を取り込むからです」
ユーリはしごく簡潔に説明した。
「ふうん、じゃあこの子たちは水の中でしか生きてゆけないのね」
エマは八歳の女の子らしく、説明の意味をあまり深く考えずに返事をする。
「ユーリ、この子はなんて名前なの?」
エマは頭上からこちらを見下ろすように泳いできた、巨大な生き物を指差した。
「この生き物はオニイトマキエイで、世界最大のエイです。マンタと呼ばれることもあります」
「すごく大きいのね」
エマはまるで羽ばたくように泳ぐ、オニイトマキエイの姿に釘付けになっていた。
そこへ視界の端から一匹のウミガメが姿を現し、エマの方へゆっくりと降りてくる。
「あら、カメさん」
幼いエマにも、その生き物を認識することができた。
ウミガメは平たい四肢の前足を使って辺りを優雅に旋回し、エマの前まで来ると静止した。
エマは顔を上げる姿勢で、ウミガメと向き合う。
眼窩から放たれる視線は鋭かったが、不思議と恐怖を感じさせず、むしろ慈愛に満ちているようだ。
思わず両手を硝子につけると、エマはその思慮深く明敏な瞳に見入ってしまう。
しばらくすると、ウミガメは水面へと姿を消した。
「ユーリ、今の見た? 私、ウミガメと見つめ合っていたの」
エマは感動を抑えきれずに話し続ける。
「そうしたらね、何だか私も一緒に海の中を泳いでいるように感じたの。とっても不思議! まるで夢を見ているようだったわ」
うっとりとした様子でほう、とため息をつく。
「あなたもそう感じなかった?」
ユーリは申し訳なさそうに、だがはっきりと答えた。
「お嬢様、わたしは夢を見たことがないのです。ですからそういった感情が脳にどのような影響を与えるのか、わたしには理解が及ばないことをどうかお許しください」
エマは心底、驚いた。
「ユーリは夢を見たことがないの? 本当に? 一度も?」
「はい、一度もありません」
エマは尚も信じられないといったように続ける。
「夢の中では何だってできるのよ。妖精になったり、魔法使いになったり、ツバメの背中に乗ってお空を飛んだりね。私、昨日は雲の上のお城でユニコーンと出会えてすっごく嬉しかったの」
エマはマホガニー色の目を輝かせながら、無邪気に笑う。
彼女の表情を観察していたユーリは訊ねる。
「夢を見るのは楽しいことなのですか?」
「とっても楽しいわ。でも、たまに怖い夢を見ることもあるの。だから寝る前に大好きな絵本を読みながら、楽しかったことをたくさん思い出すの。このおまじないはすごいんだから」
「そうなのですね」
「ええ、そうよ」
エマはちょっと誇らしげに返事をする。
そして夢よりもずっと夢のような目の前の光景へ、意識を戻した。
「ほら、早くあっちへ行きましょう」
エマは前方を指差し、足早に歩き出す。
奥には大小様々な水槽があり、全てが海の一部を切り取ったように均等な生態系を保たれていた。
砂からぴんと細長い体を伸ばして顔を覗かせている魚、岩の隙間でじっとしているダンゴムシのような灰色の生き物、珊瑚礁の近くで群れをなす色鮮やかな魚たち――
どれもが美しく、エマの心を震わせた。
愛おしく、また尊いと思った。
(地球は美しいもので満ち溢れているんだわ――)
エマは胸を躍らせた。
少し離れたところに丸い、薄暗く大きな水槽があった。 周りには誰もいない。
中ではたくさんの透明な、何本もの触手を生やした円状の生き物が浮遊していた。
「この子たちはクラゲね。絵本に出てきたから知ってるわ」
クラゲたちは人工的な光に照らされて、七色の見事なグラデーションを作りながら、無限の時を揺らめくように動いている。
エマは急に思い立ったようにユーリと向かい合うと、後ろで手を握り彼を見上げた。
「あのね、ユーリ。私、いいことを思いついたの」
「なんでございますか、お嬢様」
「夢を見るのは、眠っているときだけじゃなくてもいいのよ」
エマは少しはにかみながら、ユーリに説明する。
「今、あなたと私は夢の中にいるの。私は小さな人魚姫であなたは優しい王子様。私たちはとても幸せで、互いに手を取り合って見つめるの」
エマはユーリの手に触れた。
「そして海の中を自由に泳ぎまわるのよ。ずっとずっと、どこまでも」
エマはユーリをじっと見つめ、彼も同じように見つめ返す。
「もし夢を見たくなったら、いつでも見れるのよ。目を閉じて頭の中で思い描くの」
そう言うとエマは静かに目を閉じた。
ユーリも目を閉じると、エマの言葉通りに情景を構築してゆく。
するとエマは可憐な人魚姫となってユーリの前に現れ、亜麻色の髪の毛を静かに躍らせながら微笑んだ。
二人は手を取り合うと幸せそうに見つめ合い、揺蕩うクラゲや優雅に遊泳するウミガメとともに、七つの海を泳いでいった。
どこまでも、どこまでも――
ユーリは目を開けた。
エマは夢の中で見た人魚姫のように頬を赤く染め、澄んだ瞳で彼を見つめている。
「私、夢を見ていたの。とってもすてきな夢よ」
ユーリも微笑をたたえながら跪くとエマの小さな手を取り、優しく口づけをした。
「わたしも同じ夢を見ておりました。マイプリンセス」
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