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82.祝福という名の魔法
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突然立っていられないほどの揺れと共に床が次々と崩れていって、わたくし達はアリーナの床下にある大きな地下空間に投げ出されてしまいました。
けれども、地下には不死スライムが、恐らくかなりの高さまで堆積して埋め尽くしていたのでしょう。皮肉な事にその恩恵で、落下したといってもそれほど高さはありません。司祭シドニー様が展開した広域結界に護られて、怪我も無く尻もちを着くくらいで済みました。
馬車もその場に居た全員も、わずかに残った床板と共に、薄い皮膜のような結界で出来た大きな球体の中に居ます。
「フローラさん、怪我は無いか?」
「はい。……ですが、これは結構困った状況ですよね……」
ギルバートさんに手を借りて立ち上がり、薄暗い周囲をよく見れば、赤黒い泥水で出来た海の上に居るようなものです。怪我人は出て居ないようですが、これでは退路も足場も無くて、ここから動く事も出来ません。
シドニー様の結界が破れたら、どれだけ深さがあるか分からない粘液の海に落ちてしまいます。海水と違って泳ぐ事も出来ないでしょうし、何より不死スライムが逃がさないはず。
「足場が無けりゃ、武器があっても、踏み込む地面が無いようなものだしな……」
ギルバートさんが眉間に皺を寄せています。光明の見えない中で、アグレアス伯爵の声がしました。
ドルフさんの後ろから、ギルバートさんと二人でそっと様子を窺います。ドルフさんの豪胆な言葉に少しだけ安心していると、バーバラさんが陽気に笑い出して、アグレアス伯爵と対峙しています。
「だってねぇ、あんた、魔法使いはあたしとフローラちゃんだけだと、そう思っているだろう?」
その言葉を聞いて、わたくしは頭の中に、ぽんと光が灯ったような気がしました。
けれどもアグレアス伯爵は、相も変わらず嘲るような表情をしています。
「……はは。その妙に強気な鍛冶職人と、それから後ろの、斧の使い手も魔法使いだ、とでも言いたいのでしょう。耄碌でもしましたか? 全員ここに、閉じ込められているではありませんか」
縛られたままそう言って、アグレアス伯爵は嘲笑を浮かべています。
けれども、その言葉でわたくしの頭の中に宿った光は、確信に変わり形になりました。バーバラさんの意図がわかって、うっかり真似をして笑ってしまいそうなので、むずむずする顔を隠して、ギルバートさんの袖を引っ張ります。
「……ギルバートさん、準備をしましょう」
「えっ……?」
小声で呼んで、それから振り向いて、聖職者様や傭兵さん達に目で合図を送ります。皆さんちょっと不思議そうな顔をしていますが、きっとすぐに理解してくださるはず。
馬車のところまで行って、鍛冶職人の村の子供たちが作ってくれた、あの女神像を取り出します。それから気付いて集まってくれた人達とそれを囲みました。チェルシーさんや黒騎士さん、ベレスフォルドの騎士様も来てくれました。
「まずは、足場を作りましょう」
「作る……? 馬車を分解して、その木材を足場にするとかか?」
「いいえ、ギルバートさん、この馬車をドルフさんが何と言っていたか、覚えていますか?」
なるべくアグレアス伯爵に悟られないように、小声でひそひそと話します。
「……えっと、村の職人と魔法使い全員の祝福が篭もったどこよりも安全な……ああ、そういう事か!」
小さな声で諳んじた後で、ギルバートさんが納得したように音も無く手で膝を叩きます。
「魔法使いはまだ他に職人の村にも居るんだな」
「祈ればわかりますよ。力を、貸してもらいましょう」
ギルバートさんの答えは少し惜しいですが、実際にはやってみなければわかりません。
全て言ってしまってアグレアス伯爵に気付かれてはまだ困るので、今は曖昧にしておきました。
背筋を伸ばして座り、手を組んで目を閉じて、足場となる大地を頭の中に描きます。武器を持って戦える人達が立ち、踏み込むための、不死の泥には決して飲まれる事の無い地を。
薄暗い地下に居るのに、瞼の向こうは明るく光が宿り、それから暖かい風が吹いて、さわさわという音と共に森の中にいるような植物の優しい香りがします。
目を開ければ、馬車の筐体はアイビーの蔦に覆われて、その蔦が、結界の外に向かって伸びて行きます。緑色の蔦の道が、赤黒い粘液の海の上に出来て行くのが見えます。
「……これは、すごいな」
「何か今な、ケルヴィム領に居る嫁と子供が、祈ってんのが見えた……」
「私も見えた。娘が……うちの娘が、ベレスフォルドの教会で祈っていた」
感嘆する声の横で、呆然とそう言ったのは傭兵さんと、ベレスフォルドの年嵩の騎士様でした。他の方々も、大切な人の声が聞こえたり、顔が思い浮かんだりしたのだそう。それを聞いて、何だか嬉しくなってしまいました。
バーバラさんは、祝福は満ちていると言っていました。祝福が掛け合わさり強化されている恩恵で、遠くの祈りをそうして報せてくれているような、そんな気がします。
「無私の祝福を持つ人は、みんな、魔法使いなんですよ」
少しだけ得意げな声になってしまいました。
「この馬車に宿っている、村の魔法使いさん達の祝福を道標にして、ここに居る皆さんに宿っているそれぞれの大事な方の祝福と、それから女神様に集う大勢の祝福を少しお借りして、最後にこの場の私達の祈りを掛け合わせて、すべてを結んだのです」
そう口にしてみますが、バーバラさんに言われた通りに、いつも通り祈っていただけで、特別な事をしたわけではありません。けれども、こうして顕現するのは、そういう事なのだろうと思うのです。
振り返れば、バーバラさんがにっこりと満面の笑みを返してくれます。その向こうのアグレアス伯爵は、表情を失くしていました。少しは意表を突けたでしょうか。
それでも、不死スライムは一筋縄ではいかない様子。蔦の道を阻むように表面から触手のようなものが生えて、進行を邪魔しているのが見えました。
「バーバラさん、印の無いものにも道標を宿せないでしょうか。もしくは、増幅を……」
ふと思いついて尋ねれば、バーバラさんは腰に手を当てて思案した後で笑います。
「やってみよう。これだけ祝福が満ちていたら、出来るかもね。それから後はきっと……ギルバートが迷いを振り切れるかも鍵だろうねぇ……」
「えっ、俺……!?」
唐突に話を振られて、ギルバートさんが挙動不審になっていました。
けれども、地下には不死スライムが、恐らくかなりの高さまで堆積して埋め尽くしていたのでしょう。皮肉な事にその恩恵で、落下したといってもそれほど高さはありません。司祭シドニー様が展開した広域結界に護られて、怪我も無く尻もちを着くくらいで済みました。
馬車もその場に居た全員も、わずかに残った床板と共に、薄い皮膜のような結界で出来た大きな球体の中に居ます。
「フローラさん、怪我は無いか?」
「はい。……ですが、これは結構困った状況ですよね……」
ギルバートさんに手を借りて立ち上がり、薄暗い周囲をよく見れば、赤黒い泥水で出来た海の上に居るようなものです。怪我人は出て居ないようですが、これでは退路も足場も無くて、ここから動く事も出来ません。
シドニー様の結界が破れたら、どれだけ深さがあるか分からない粘液の海に落ちてしまいます。海水と違って泳ぐ事も出来ないでしょうし、何より不死スライムが逃がさないはず。
「足場が無けりゃ、武器があっても、踏み込む地面が無いようなものだしな……」
ギルバートさんが眉間に皺を寄せています。光明の見えない中で、アグレアス伯爵の声がしました。
ドルフさんの後ろから、ギルバートさんと二人でそっと様子を窺います。ドルフさんの豪胆な言葉に少しだけ安心していると、バーバラさんが陽気に笑い出して、アグレアス伯爵と対峙しています。
「だってねぇ、あんた、魔法使いはあたしとフローラちゃんだけだと、そう思っているだろう?」
その言葉を聞いて、わたくしは頭の中に、ぽんと光が灯ったような気がしました。
けれどもアグレアス伯爵は、相も変わらず嘲るような表情をしています。
「……はは。その妙に強気な鍛冶職人と、それから後ろの、斧の使い手も魔法使いだ、とでも言いたいのでしょう。耄碌でもしましたか? 全員ここに、閉じ込められているではありませんか」
縛られたままそう言って、アグレアス伯爵は嘲笑を浮かべています。
けれども、その言葉でわたくしの頭の中に宿った光は、確信に変わり形になりました。バーバラさんの意図がわかって、うっかり真似をして笑ってしまいそうなので、むずむずする顔を隠して、ギルバートさんの袖を引っ張ります。
「……ギルバートさん、準備をしましょう」
「えっ……?」
小声で呼んで、それから振り向いて、聖職者様や傭兵さん達に目で合図を送ります。皆さんちょっと不思議そうな顔をしていますが、きっとすぐに理解してくださるはず。
馬車のところまで行って、鍛冶職人の村の子供たちが作ってくれた、あの女神像を取り出します。それから気付いて集まってくれた人達とそれを囲みました。チェルシーさんや黒騎士さん、ベレスフォルドの騎士様も来てくれました。
「まずは、足場を作りましょう」
「作る……? 馬車を分解して、その木材を足場にするとかか?」
「いいえ、ギルバートさん、この馬車をドルフさんが何と言っていたか、覚えていますか?」
なるべくアグレアス伯爵に悟られないように、小声でひそひそと話します。
「……えっと、村の職人と魔法使い全員の祝福が篭もったどこよりも安全な……ああ、そういう事か!」
小さな声で諳んじた後で、ギルバートさんが納得したように音も無く手で膝を叩きます。
「魔法使いはまだ他に職人の村にも居るんだな」
「祈ればわかりますよ。力を、貸してもらいましょう」
ギルバートさんの答えは少し惜しいですが、実際にはやってみなければわかりません。
全て言ってしまってアグレアス伯爵に気付かれてはまだ困るので、今は曖昧にしておきました。
背筋を伸ばして座り、手を組んで目を閉じて、足場となる大地を頭の中に描きます。武器を持って戦える人達が立ち、踏み込むための、不死の泥には決して飲まれる事の無い地を。
薄暗い地下に居るのに、瞼の向こうは明るく光が宿り、それから暖かい風が吹いて、さわさわという音と共に森の中にいるような植物の優しい香りがします。
目を開ければ、馬車の筐体はアイビーの蔦に覆われて、その蔦が、結界の外に向かって伸びて行きます。緑色の蔦の道が、赤黒い粘液の海の上に出来て行くのが見えます。
「……これは、すごいな」
「何か今な、ケルヴィム領に居る嫁と子供が、祈ってんのが見えた……」
「私も見えた。娘が……うちの娘が、ベレスフォルドの教会で祈っていた」
感嘆する声の横で、呆然とそう言ったのは傭兵さんと、ベレスフォルドの年嵩の騎士様でした。他の方々も、大切な人の声が聞こえたり、顔が思い浮かんだりしたのだそう。それを聞いて、何だか嬉しくなってしまいました。
バーバラさんは、祝福は満ちていると言っていました。祝福が掛け合わさり強化されている恩恵で、遠くの祈りをそうして報せてくれているような、そんな気がします。
「無私の祝福を持つ人は、みんな、魔法使いなんですよ」
少しだけ得意げな声になってしまいました。
「この馬車に宿っている、村の魔法使いさん達の祝福を道標にして、ここに居る皆さんに宿っているそれぞれの大事な方の祝福と、それから女神様に集う大勢の祝福を少しお借りして、最後にこの場の私達の祈りを掛け合わせて、すべてを結んだのです」
そう口にしてみますが、バーバラさんに言われた通りに、いつも通り祈っていただけで、特別な事をしたわけではありません。けれども、こうして顕現するのは、そういう事なのだろうと思うのです。
振り返れば、バーバラさんがにっこりと満面の笑みを返してくれます。その向こうのアグレアス伯爵は、表情を失くしていました。少しは意表を突けたでしょうか。
それでも、不死スライムは一筋縄ではいかない様子。蔦の道を阻むように表面から触手のようなものが生えて、進行を邪魔しているのが見えました。
「バーバラさん、印の無いものにも道標を宿せないでしょうか。もしくは、増幅を……」
ふと思いついて尋ねれば、バーバラさんは腰に手を当てて思案した後で笑います。
「やってみよう。これだけ祝福が満ちていたら、出来るかもね。それから後はきっと……ギルバートが迷いを振り切れるかも鍵だろうねぇ……」
「えっ、俺……!?」
唐突に話を振られて、ギルバートさんが挙動不審になっていました。
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