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第一章 その絵は、モナリザのようには微笑んでいない

第二話

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「そうそう」と朱香は思い出したように資料室からでた。
「文房具類がなくなりそうだったら、経理の菊沢永久子さんに言ってね。通販で頼んどいてくれるから」
 朱香の視線の先には事務デスクが六つ向き合って並んでいた。一席残して、社員は席に就いていた。
 ちらっと冬矢は視線を配った先で、永久子が「どうもぉ」とヒラッと軽く手を振った。

「荷物運びお疲れ―、男手が増えると助かるな! 永久子でーす、若いなぁ、ねえいくつ?」
 きゃはきゃはした甲高い声で訊いてきた永久子の目は、付け睫毛とアイラインで支配されていた。眼力だけで、人を石にしてまう能力って本当にあるんだと悟る。
 素顔が想像できないぐらい濃いメイクだったので、返す言葉を呑み込んだ。
 コテで頑張って巻いているのだろう茶髪の髪は、手入れが行き届いていないようで、金色に色褪せていた。

「今年で十九です」
 初日の冬矢はビジネス・スーツだが、社員は私服だった。だから、永久子も事務服ではなく、ストールが散りばめられた黒のミャミソールに、薄ピンクのカーディガンを羽織っている。
 下はミニのデニム・パンツだ。ミニ過ぎて、目のやり場にちょっと困った。

「やっぱり若いなぁ、私と十も違うのかぁ、もう笑っちゃうね。若い子もカワイイなぁ」
「永久子さん何言ってるんですか、デリカリーのない彼に何の魅力を感じるんですか」
 うわ、ひどい。初日からストレートに人を貶す朱香の方が、デリカシーないんじゃないんですか、と言い返してやりたかったが冬矢は苦笑いだけ向けた。

「朱香ちゃんは冬矢君と歳近いからねぇ、無理ないよ。体力がある男子は頼りがいがあって、いいよねぇ」
 二ヒッと永久子は得意げに笑って見せた。
「どうも」と冬矢は軽く会釈で返した。

 嬉しいには嬉しいが、天使の微笑には騙されない。なぜなら、教室の大掃除の時、女子が大物を動かそうとしていたので、手伝ったのだか、その時の女子の人を見る目といったら――まぁ、過去の苦い思い出は割愛する。
 永久子と目が合って、冬矢はとんでもなく照れ臭くなったが、彼女のウィンクに「弟目線だよ」と釘を刺された気がした。

「ま、習うより慣れろだよ、新人君。大丈夫、皆親切だからさ、分からないことがあったら何でも訊いて。え、年齢? 僕はねぇ永久子さんと一緒だよ、二十八、今年二十九か」
 何故か訊いてもいないのに、訊かれたフリまでして年を発表した熊野揺太は、ニッと小生意気そうに八重歯を見せて笑った。

 こーいう人も得意じゃないなぁ、容姿はイイのに、どことなく暑苦しそうな人だぞ。俺と同じ、残念タイプか。
 優男風の熊野は長身で、色素の薄い髪はおそらく天然の栗毛色。色白でハーフかと見まがうほどだ。美形の分類に入るだろう、もしこの人がアンドロイドと同じ、白い血を出しても、なんら不思議ではない感じがした。

「私は早生まれなのぉ、一緒にしないでよぉ」
 永久子がムッと頬を膨らまして否定した。
「ハイハイ、どっちでもいいじゃないっスか、年齢なんて」と永久子の横の席から、虫を手で追い払うよりも軽くあしらった男は、永久子から反感を浴びた。
「よくないわよ! 重要でしょ! ト部君、今年で二十五でしょ、そっからが早いから」

 永久子が名前を出してくれたので、思い出せた。ト部大輝が「本を資料室に置いておいて」と指図した男性社員だ。
 熊野と永久子よりも若干は若そうにも見える。スポーツマン・タイプだ。
「助言は、素直に受け取っときまーす」
 背凭れに身を預けているト部は、クルッと椅子を回転させた。

「とにかく分からんことがあったら、誰かに訊けよ。ちょいと変わった業種だしな、怪談とか昔話とか、三十三観音とか、知ってる? 一応、ここら辺の民俗学なんだけどさぁ」
 ソフト・モヒカンの青年は体躯がデカいくせに、カラッとした真夏の空みたいな笑顔を作った。
 カーキ色のTシャツを着ている。下は普通のデニム・ジーパンだ。

「んー、三十三観音ぐらいなら、皆で肝試しと称して、怪談話ならしましたけど――」
 何故、そんな質問をされたのか、さっぱり理解できず、冬矢は眉根を寄せた。
 三十三観音とは、地元にある峠沿いに三十三観音霊場が点在し、ウォーク・ラリーもできる、いわゆる巡礼地だ。名前ぐらいは、冬矢も知っている。

 巡礼の地を、怪談話をしながらみんなで歩き回ったりした記憶は微かにある。
「ト部先輩、今度みんなで巡礼地を回りながら、怪談話に花を咲かしに行きましょうよ」
 朱香が用意されていた科白を、棒読みするかのようにト部に耳打ちした。しかも冷淡に。

「い、いやぁ、生憎、その日、俺用事があってさぁ―、残念だー」
「まだ日にち、言ってないですけど、やるとも、決定してませんが」
 完全に焦っているト部はハハハ―とあからさまに、顔を引き攣らせていた。つまり、大柄男にも弱点はあるということだ。

「そんじゃあ、運んで来た本をさ、空いてる棚の中にでも、しまっといて」
 投げやりに言われ「はい」と冬矢は渋々ながら返事をした。これが会社という所か、としみじみ実感している間もなく、再び埃っぽい本に囲まれた。
 朱香も資料室に入ってきて、手伝ってくれた。
 冬矢が脚立の上に立ち、朱香が本を下から差し出してくれた。

「そうそう。私、伊賀君の教育係でもあるから――と言っても、私もまだ入社して二年目なので、素人同然なんだけどね」
 女の子にしては低めの声だが、上品な低音だ。ちょっと掠れていて、綿飴みたいにやんわりした喋り方だ。相手を受け入れようとゆっくりと向かってくる感じが心地良い。それなのに冷たく感じるのは気のせいだろうか。
 
 黒髪のストレートは背中に落ちて、白い肌がさらに白く見える。それこそ日本人形みたいな顔立ちで、瞳が透き通るぐらいに潤っていた。
 落ち着いた感じでナチュラル・メイクの朱香には、見事に似合っていた。
 黄色のミャミソールの上に、白のシースルーのブラウスを着ていた。ブラウスの下の、豊胸と思われる小高い山に目が留まり、朱香から本を受け取るたび、襟口から谷間が見えそうになっていた。
 
 膝上スカートは黒地で、ドット柄のシフォン・スカート。白い脚は細すぎない、均整のとれた形だ。つい目が脚をチラ見してしまう。
「そのほうが、畔戸も勉強になって、いいだろ」
 背筋に定規でも刺さっているかのような、キレのある口調が資料室の入口付近から発せられた。
ビクッと冬矢は視線を上げた。

「あ、豊原部長、そうですね。この業界は奥が深いですから」
「部長」という響きに冬矢は緊張したが、朱香はそうでもなさそうで、爽やかに口角を吊り上げていた。
 唯一、豊原だけは、スーツだった。グレーのネクタイに、紺色の背広を羽織っていた。

「いっぺんに名前も覚えられないだろうから、もう一度、ここで言っておく、豊原昂だ。君の働きに期待する」
 初出勤した時、従業員駐車場の隣の倉庫の前で、出迎えてくれた人だ、そんで本運びを命じた人でもある。
 漆黒の短い髪をワックスでオールバックにしている。厳格そうな太い眉が印象的だ。
 目尻に小皺があるものの、まだ張りのある肌を見ると、三十半ばといったところか。

「あ、はい、よろしくお願いします」
 冬矢は凝り固まった声を、ぎこちなく吐き出した。
 豊原が自分の席に戻っていくのを見送り、再び本を棚へしまっていく。
 本を全て棚にしまい終わり、自分の席に戻った。
 
 皆の机の上は、やたらに資料関係の書類が、たくさん積まれていた。何がどこにあるのか把握しているんだろうか。
 一番きれいに整頓されているのは――と冬矢は皆の席を見回してから、横の席に視線を移すと、朱香と目が合った。
「どうしたの? きょろきょろして」

 声は出さずに驚いた冬矢は「いえ、なんでも」と、苦笑いで誤魔化した。
「あの、俺は今から、何をすればいいんですか?」
 一応、教育係の朱香に訊ねた。
 冬矢のデスクには、まだパソコンも置かれていない。やることもないので、とんでもなく手持無沙汰だった。

「今から君には、部長の講習を受けてもらいます、私と一緒に。筆記用具を持ってきてください」
 きびきびと押し付けてくるような口調に、気圧された冬矢は「はい」と事務的に返事をした。
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