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第二十四章

愛-07

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 愚母という存在の誕生は、百三十年以上前に遡る。

  とは言っても、名有りとしてこの世に君臨した際には愚母という名ではなく、星熊童子という名を、当時彼女達を率いていた母体の一体から頂戴した。


 構成メンバーは、当時の愚母……星熊童子を含めて六体。

  母体・酒呑童子。

  名有り・茨木童子。

  名有り・熊童子。

  名有り・虎熊童子。

  名有り・星熊童子。

  名有り・金熊童子。


  彼ら彼女らはそれぞれ名無しの災いを率いて、主にレアルタ皇国での消極的な活動に従事していた。

 その当時は姫巫女達や聖堂教会、皇族達が小競り合いを起こしていた時期ではあったが、しかしまだ姫巫女の数も多く、母体である酒呑童子の貯蔵虚力量も少なかった。兵糧の問題で姫巫女との戦いが苦戦すると分かったからこそ、積極的な行動を控えていた、という事だ。

  星熊童子はまだ名無しから名有りへと昇格を果たしたばかり、しかも名無し時代にも姫巫女との交戦は無く、経験に乏しかった。

  だからこそ、酒呑童子を始めとして他の名無しも、星熊童子には皇族と姫巫女が小競り合いをしているこの状況を利用して、聖堂教会による活動が消極的な国へと、彼女を行かせる事にした。

  しかし、星熊童子は不安だった。名無しの災いを使役し、人間社会に災厄を振りまき、混沌へと導く事の意味を理解していなかったのだ。

  そもそも何故自分が、こうした名を頂戴する程までに生き残る事が出来たのか、それすら理解しない。

  そうした不安を誰よりも熱心に聞いて、心からの言葉を伝えてくれたのは、熊童子……男性型の名有りだった。


「俺達災いは、本来名無しの頃から個性を有する筈だ。なんたって、虚力は感情を司る力だぜ? 人間は、特にオスの個体は名無しより虚力が少ない筈なのに、メスと同等の感情表現を果たす事が出来る。これは、矛盾していると思わないか?」

「そう、ですけど……でも、わたくしは名無しの時の記憶などは……全然、無くて」


 星熊童子は、あまり感情を表に出せない女性型だった。貯蔵していた虚力量も多く、その【浸蝕】を主とした固有能力は非常に強力。皆は次期母体候補として彼女を推していた程だったのだが、彼女のそうした引っ込み思案な部分が懸案事項だった。


「星熊。君は随分臆病なんだね」

「……はい」

「とても怖がりだ。君はもっと、自分の能力にも、自分の在り方にも自信を持っていい筈なのに、君の心が邪魔をするんだ」

「はい。……だからわたくし、皆さんの足を、引っ張って、ばかりで」

「いや、そんな事は無いよ。……むしろ、酒呑も茨木も、君のそうした所を認めてる」


 首を傾げ、何をと問うと、彼は微笑みながら、星熊の唇に、指先で触れた。


「君はね、名無しの頃から臆病な子だったんだよ。名無しに感情や思考能力がないっていう定説はあるけれど、あれは嘘というより統計上の話さ。ただ多くの名無しに自我が薄く、名有りに従えばいいと思っているだけでね」


 だが星熊の基となった名無しの災いは、時に名有りの強引な命令にも消極的になり、命令を無視するような子だったという。


「人間と災いの争いは、基本的にイタチごっこさ。俺達災いは、人間を全て滅ぼす事なんて出来ない。そして人間も、俺達災いを全て滅ぼす事なんか出来ない。だって、俺達にも分からないどこかから、いつの間にか産まれて、勝手に災厄を振りまくんだぜ? それを全部倒せってのは人間にも酷な話だろう?」


 そう笑う彼の表情は、星熊から見ても美しく感じた。

  初めて感じた、心の煌めき。

  それによって胸を締め付けられ、何時までも彼と共に居たいと、感じてしまう。


「君の臆病さや怖がりな部分は強みだよ。姫巫女達と戦う事を強いられる俺達は、いつの日か災厄を振りまく為に、時にはそうして逃げる事も必要だからね」

「……臆病は、怖がりは、いけない事じゃ、無いのですか……?」

「違うよ、全然違う。むしろそれは君の個性で……これから災いの皆が得るべき、感情の動き方だと思うよ」


 これは人間の真似事だ、と。

  熊童子はそう言って、星熊の唇と自分の唇を重ね合わせた。

 彼はすぐに唇を離してしまったが、星熊はずっとそうしていたくて、離された時に少しだけ、切なそうな表情を浮かべていたのだが、熊童子も、星熊童子本人とて、決してその想いに気付く事はなかった。


「俺には、人間が何を考えているのか、分からない。こうした口付けに何の意味があるのかもね」

「……わたくしは、少し……分かる気がします」

「そうなのか。やっぱり君は、人間と思考が似ているんだよ。……きっと、長い時間をかければ、いつか人間と分かり合う事も出来るさ」

「分かり合う……? 人間と、ですか?」

「うん。……何時までも、俺達は人間と争い続けていては駄目だ」


 名有りは、母体は、有する虚力量が多いからこそ、そうした感情を有し、思考回路も人間と遜色ない者も現れる。

  熊童子も含め、徒党を組んだ彼らはそうした思考によって、これから先にある未来を憂いでいた。


「確かに人間は数が多いからこそ、思考の不一致や感情的な問題で、同族同士殺し合う事もいとわない。けれど、名有りとして感情を有してしまった俺達も……いつの日か、そうした恨みや恐怖、他への不信によって、人間のように殺し合う未来が、あるのかもしれない」

 進化と呼ぶべきかもしれないが、それが怖いのだ、と。

  熊童子は僅かに身体を震わせ、冷える身体を温める様に、腕を擦る。


「だから君には、人間を多く学んで、人間の良い所を沢山吸収してほしいんだ。……俺達は、そうして君が学んだ人間の事を理解し、歩み合って生きていく未来を選びたい」

「……人間は、私たちの様な異なるモノを、受け入れてくれるでしょうか……?」

「難しいかもしれない。けれど、それを怖がっていては駄目なんだ。俺達も、ただ人間と争い続けるだけじゃなくて、もっと多くの事を知らないと……」


 そこで、熊童子が僅かに言葉を止めた。

  星熊は、首を傾げながら問いかける。


「知らないと、どうなるのですか?」

「……誰もが、幸せになれないよ」


 熊童子は……否、徒党を組んだ皆は、そうした災いの未来を憂いだ。

  人間と争い、人間社会を破壊する為に災厄を振りまく。

  そんな無為な事の為に命を散らす、災い側も幸せになれなければ、そうして「何故そうするのか」を自覚もせず、ただ人間社会に災厄を、と巻き込まれる人間側も、決して幸せにはならない。

  

  ――災いも、未来や進化に目を向ける時が来たんだと、星熊へ語り掛けた。


  
  それから星熊童子は、レアルタ皇国イルメール領から出る輸出船舶に乗り込み、グロリア帝国と呼ばれる国へと渡った。

  グロリア帝国はフレアラス教国として政教分離が進められておらず、異教徒である姫巫女の存在も少ない国であったからこそ最適とされ、星熊も百年近くの年月をその地で過ごした。
  
  そうして二十年前に、レアルタ皇国へと戻った時――酒呑童子率いる災いの徒党は、既に壊滅状態にあった。


『星熊……君は、人間を怨んじゃ……いけないよ』

「何故……ッ、何故こんなことに……ッ!」


 ルワン・トレーシーによって滅ぼされかけ、既に身体を形成する虚力も拡散されかかり、星熊の持つ浸蝕能力を以てしても助ける事が出来ぬ程に弱体化した熊童子。


「皆さんは、人間を……っ、人間社会を、そしてわたくし達の進化を、願っていたじゃないですか……ッ!」


 星熊もそれまでに仕入れた情報で、理解はしているのだ。

  過去の姫巫女と比較しても最強格と名高いルワン・トレーシーが、現皇族であるヴィンセント・ヴ・レアルタに取り入って、トレーシー家の安否を約束させた事。

  それによって、酒呑童子も含めて五体の災いは懸念を払いきれなかった。


  ――ルワン・トレーシーという姫巫女を中心とした対災いへの防備に、皇族が動いてしまえば、もう戦いどころではなくなる。


  相互理解を深める時間も無いのであれば――明日を生きる為に戦うしかない、と。


『俺は……俺達は……死にたく、無かった……生きていたかった……今を生きる人間を、犠牲にしてでも……っ』


 だがこの戦いで、酒呑童子が、茨木童子が、熊童子が、虎熊童子が、金熊童子が、抱いた人類への恐怖や反感情は、過ちだったのであろうか。

  否、否だろう。


 虎熊童子は叫んだ。

『どうして私たちが殺されなければならないの?』と。


 熊童子は叫んだ。

『俺は存在しちゃいけない存在なのか?』と。


 茨木童子は叫んだ。

『ならなんで、アタシにはこんな感情なんてあるの?』と。


 金熊童子は叫んだ。

『いやだ、死にたくない、殺されたくない、人間が死ね、僕たちは生きるんだ!』と。


 人間と共存したいと、災いも人間のようになるべきだと、そうした尊い願いも、想いも、意味を成さなかった。

  人類は、人間は、百年余りの年月しか生きる事の出来ない者達で、彼らは時にその内の数年を生き残る為だけに、同族ですら蹴落とす存在だ。


  ――そうした人間と共に過ごしたい、そうなりたいと願った災いの想いにすら気付かず、彼らは災いを敵視する。


「……許せない」

『星熊……ダメだ……君は……人間と……、っ』

「分かり合う事など、出来ません……理解し合う等、出来ません……わたくしは、皆さんと……いいえ、貴方と共に、永遠の時間を過ごしたかったのに……ッ」


 熊童子の、朧げな身体を抱き寄せながら、星熊は彼の唇と、自分の唇を重ね合わせる。


  ――もう二度と、そうして触れある事も出来ぬようになるのだから、せめてこれだけは、と。


「わたくしは、貴方を愛しておりました……貴方を殺した、皆さま方の願いを無に帰した人類を、人間を、許す事など出来ません……ッ!」


 彼女から溢れ出るのは、おおよそ名無しである彼女が有する筈の無い、どす黒い感情からあふれ出す虚力。

  元々恐怖心等の感情を真っすぐに表現できる彼女だからこそ、その心中から生み出す事が出来る虚力は、あまりに膨大だった。


 その虚力量は既に、名有りと呼ぶのも相応しくない。

 彼女は、人間への強い恨みによって、母体へと進化を果たしたのだ。


『……君は、人間を、恨むのかい?』

「ええ、恨みます。愛した貴方を殺した人類を……愚かな人類を」

『愚かなのは、君も同じになってしまうよ……?』

「愚かで構いません」

『……なら、今日から君は、星熊じゃない……【愚母】だ』

「愚母……ええ、良い名です。……わたくしに、丁度いい名ではないですか」

『本当に……本当に、愚かになったね……愚母』


 かくして、愚母という存在は生まれた。

  人間を、人類を愛せる素養はどれだけでもあったのに――彼女は進化へと至れる為の道を、自らが絶ったのだ。
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