中庭の幽霊

しなきしみ

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井原の道トンネル

20・井原の道トンネル

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 テレビをつけると、事故のニュースが報道されている。朝食を食べ終えて、食器を流しに運ぼうとしていた親父が、ニュース番組をまじまじと見つめると、ポツリと一言呟いた。

「明日はこの事故で亡くなった男性のお通夜になるから帰りは遅くなる」

「え?」
 全く予想していなかった言葉を耳にして、思わず気の抜けた声が出てしまったのだけれども、親父は昨日亡くなった男性とどのような関わりがあるのか。

「この事故で亡くなった男性は隣の家の旦那さんだよ」
 疑問を問いかける前に予想外の言葉が親父の口から発せられる。
 真剣な眼差しで呟く親父の言葉を耳にして、瞬く間に頭の中が真っ白になった。

「え……?」
 言葉がうまく出てこない。頭の中が真っ白になっているため自分が今どんな表情を浮かべているのかも分からない。
 
 隣に住む旦那さんの事は裏庭で家族とバーベキューをしている姿を時折見かけることがあった。お子さんは男子高校生が一人と女子中学生が一人。
 見かけることはあっても、直接顔を合わす機会は無かったため声をかけるどころか、挨拶すらしたことがない。

「顔が真っ青だけど、大丈夫か?」
 親父の問いかけに対して首を左右にふることも出来ずに
「大丈夫」
 ポツリと小声で呟いた。

 
 大丈夫ではないと正直に口に出してしまえば親父を心配させてしまう。
 テレビ番組の音。弟が流しで皿を洗う音。親父が仕事へ行くための準備をする音。決して、リビング内は静寂に包まれているわけではない。

 人のいる場所では、不安や恐怖心は薄れると言うけれども、昨日の夕方に起こった死亡事故のニュースを見てからは、不安や恐怖心は募っていく一方で、ふと強い寒気がして背後を振り向くと、それは視界に入り込んだ。

 快晴の空をバックに、リビングに設置された窓から、顔だけを覗かせて室内を眺めている男性の姿が視界に入り込む。
 目を大きく見開いて、まじまじと室内を眺めている男性の顔に見覚えがあった。

 子供さん達とバーベキューをしている姿を見たことがある。奥さんと一緒に洗濯物を棹に干している姿を見たことがある。高校生の息子さんとキャッチボールをしている姿を見たことがある。隣に住んでいた男性の顔は喜怒哀楽が無くなってしまったのか無表情のまま、ただ目を大きく見開いて観察をするように室内を眺めていた。

「兄貴、どうしたんだ? 窓の外に何かあるのか?」
 視線を窓に向けたまま、視線をそらすことも出来ずにいれば、弟が疑問を抱いたようで首をかしげて問いかける。
 弟には窓を隔てた向こう側にいる男性の姿は見えていないようで、窓際に移動して窓を開こうと手を掛けた。

「待て」
 何故弟が突然窓を開けようとするのか。全く予想していなかった行動を起こす弟に対して声をかけるタイミングが遅れてしまう。
 強張っている口を強引に開いて、待てと口にするよりも弟が窓を開く方がほんの少し早かった。 
 ガラッと音立てながら扉が開かれる。窓からゆっくりと、隣に住んでいた男性の顔が室内に入ってきた所で気がついた。

 男性の首から下。胴体は一体何処へ行ってしまったのか。
 弟の目と鼻の先を通過して、リビング内へと移動した男性の首から下が無かった。

 男性の顔が向かった先には親父がいる。親父も男性の姿は見えていないようで
「じゃあ、仕事へ行ってくる」
 スーツを身に付けて、玄関を出ようとしている親父に弟が
「行ってらっしゃい! 気をつけて」
 いつも通り声をかける。

 どうすればいい?
 親父に仕事へ行くなと言うべきか?
 言ったところで、何を言っているんだと怒られるだけ怒られて親父は仕事に行ってしまうだろう。

 隣の家に住んでいた男性の生首が親父の後に続こうとしていることを素直に伝えるべきか?
 言ったところで、何を言っているんだと頭がおかしくなってしまったと思われるだけのような気がする。

 軽蔑されるだろうけど、昨日の夕方に起こった出来事を素直に話すべきか。
 緊迫した雰囲気の中、頭の中を上手いこと纏めることが出来ず、親父が扉を開き家から足を踏み出した。
 
 今からでも追いかけてとめるべきか。
 親父が車に乗り込む方が先か。

 次から次へと考えは浮かぶものの行動に移すことが出来ずにいれば、生首が親父の後に続き親父の車の後部座席へと消えていった。

 車が出発してしまう。
 もしも、親父が帰宅時間になっても帰ってこなかったら、きっと後悔をする。
 やはり、仕事へ行くなと声をかけるべきか。
 
 親父の車を呆然と見つめたまま、考えを行動に移すことが出来ないまま時間だけが過ぎていき、隣に住んでいた男性の首を後部座席に乗せたまま、親父の運転する車がゆっくりと走り出してしまった。
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