中庭の幽霊

しなきしみ

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中庭の幽霊

4・中庭の幽霊

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 窓枠に足をかけて、校内から中庭に足を踏み出した。帰宅部の生徒は既に帰宅をしているだろうから、残っているのは部活動を行う生徒達ばかり。
 日中よりは人目は少ないだろうと予想して、背の高い木の幹に足をかける。

 教師が校内の見回りを始める前に、さっさと指輪を取り戻そう。

 木登りをするのは初めてだから、靴のまま登ろうとすればずるっと足を滑らせる。
 裸足の方が上にあがりやすいのだろうかと思い、靴を脱いだ所で兄が壁をすり抜けて俺の元へやってきた。

 何かを俺に言おうとしているのだろうけど、頭の中が纏まっていないのか、口をパクパクと動かしている。言葉が声となって出てこない。

 腕まくりをして木登りをし始めると、もともと白い顔を真っ青にした兄が俺を見上げる。
 木の枝を支えに、一歩一歩足を進めながら樹高の高い木をのぼっていく。
 
 上に登るにつれて、木の幹は細さを増していく。俺の体重を何とか支えてくれてはいるようだけど、右へ左へ揺れ動く。木がぽきっと折れてしまえば、俺の体は真っ逆さま。地面に体を打ちつける事になるだろう。

 手を伸ばせば届く距離に指輪がある。しかし手を伸ばせば自然と体のバランスをとる事も難しくなる。
 このまま、届きそうで届かない距離にある指輪に向かって腕を伸ばしていてもきりがない。
 考えた結果、指輪の引っかかっている木の枝に手をかけた。力を込めて何とか木の枝を折る事は出来ないだろうかと考えた結果。
 グイッと木の枝に力をこめる。しかし、地面に足がついていないこの状況の中で木の枝を折るほどの力をこめる事は出来なくて、何度も木の枝に力をこめていると大きく上下に揺れた木の枝の先に引っかかっていた指輪がコロッと外れて地面に向けて真っ逆さま。

 甲高い悲鳴を上げる女性が落下する指輪を拾いに行くために両手を広げて、指輪の真下へ回り込む。

「何をしてるんだ! 君は!」
 タイミング悪く、俺は校内の見回りを行っていた教師に見つかった。
 ゆっくりと木の枝に手をかけて、幹を足場にしながらおりる姿を教師がもの凄い形相を浮かべながら眺めている。
 きっと地面に足がついたらすぐに、長々と説教を受ける事になるだろう。

 指輪は手を伸ばして受け取ろうとしている女性の体に触れる事なく、通過する。
 幽霊である彼女は指輪に触る事が出来なかった。

 ぽさっと音を立てて花壇の上に落ちた指輪を確認するために、地に足をつけると顔を真っ赤にして怒っている教師のすぐ横を通り過ぎる。足早に花壇の元へ移動した。

 指輪を掴みそこなった女性は腕を掲げたままの状態でポロポロと涙を流していた。
 きっと、指輪が地面に叩きつけられて壊れてしまったと思い込んでいるのだろう。

「無事だ」
 しかし、指輪は花壇の中に落ちたため、土はついたものの、壊れてはいなかった。

 あぁああああ!有難う。私の宝物。
 指輪を手に取り女性の目の前に差し出すと、女性は号泣していた。
 触れる事は出来ないため、指輪を手で囲って何度も何度も頭を下げる。

 この指輪を旦那に返して欲しいの。短い間だったけど、あなたと結婚出来て幸せだったと伝えて。
 もしも、今後の人生で好きな人が出来たら、私に気を遣わず幸せになって欲しいとも伝えて欲しいの。

「分かった」
 女性の頼みを俺は受け入れる。

 ありがとう。最後に一言、お礼を言った女性の体がふわりと空へ舞い上がる。
 女性は伝えて欲しいと、旦那へ対する思いを俺に告げて行った。
 しかし、女性は重要な事を伝え忘れているのではないだろうか?

 俺は女性の旦那の名前を聞いていない。
 呆然と空へ舞い上がる女性を見送っていた俺の目の前にやってきたのは鬼の様な形相を浮かべている教師だった。そう言えばさっき、真横を素通りしてきてしまったなと、過去の自分の行動を思い起こす。

「それって……」
 しかし、俺が手にしている指輪を見て教師の表情が一変する。
「これが木の枝に引っかかっていたから、木に登ってたんだよ」
 指輪を指さして、ポツリと呟いた教師に俺が木登りをしていた理由を告げると
「妻の指輪です」
 教師がポツリと呟いた。

「妻って、黒い長い髪をした人? ここの学校の保健の先生だった? もしかして、この学校の屋上から転落して亡くなってる?」
 ついさっきまでいた、女性の幽霊を思い起こしながら教師に問いかけると
「あぁ。どうして君がそれを? 妻は30年も前に亡くなっているのだけど……」
 
 全く予想もしていなかった返事があった。
 今、俺の目の前に佇んでいる男性教師は確か60代の教師だったと思う。
 30年前に亡くなった女性は時を止めたまま、女性も気づかないうちに長い年月が経過していたのだろう。
 女性は今後の人生で男性に好きな人が出来たら、自分に構わずに幸せになって欲しいと言っていた。
 しかし、男性は30年たった今でも誰とも結婚する事無く独り身だ。

「その30年も前に亡くなっている女性。先生の奥さんが、指輪が木の枝に引っかかっている事を教えてくれたんだ。短い間だったけど、あんたと結婚出来て幸せだったって言ってたぜ」
 はいっと指輪を差し出すと、男性教師はしっかりと両手で指輪を握りしめる。
 
「有難う」
 胸に指輪を押し当てるようにして、深々と頭を下げた教師の声は僅かに震えていた。



 ホッと息を吐き出した俺の体は汗だくだった。
 汗を大量にかいていたにも関わらず、無理して木登りをしたため、脱水症状に陥っていたようで、俺の意識はここで途切れてしまった。
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