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ただいま

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 慌ただしく振り返れば、一羽の鴉が巣をも容易に覆い隠してしまうほどの黒々とした両翼を広げ、鋭い嘴を能天気に鳴き頻る雀に向けていた。

 俺は、疾くに眼下に落ちている小石を掴み上げるとともに、鴉に目掛けて振り翳した。

 そして、それと時同じくして、躊躇する。

 ただ偶然、ひとりぼっちの雀の雛と、運良くそれにありつけた鴉。そして、全くの無関係な俺。

 この相関図にとって、最も不必要で押し付けがましいのは、他ならない俺であろう。

 高みの見物さながらの生き様で、己の欲求を満たすがために、身勝手な偽善を振るう。

 そんな理由で自然に触れてしまっていいのだろうか。

 けれど、

「あっ…」

 その想いとは裏腹に、既に俺の上腕は振り下ろし終え、礫は鴉の眼前へと迫っていた。

 小石は鴉の頭上を僅かに掠め、一驚を喫した鴉は、ぶんぶんと羽音を立てて振り回す。

 空を切り裂く両翼が、巣にぶつかった。

 それぞれが相反するかのように枝分かれした、二つの枝が絶妙に巣を支え合っていた。

 当然の事ながらにその均衡を崩した鴉は、垂涎ものの雀を放棄したまま、逃げるように黄昏色の大空へと飛び去っていく。

 それを横目に、俺は身を倒すほどに傾ぐ巣の真下へと、そそくさと駆け出していた。

 雛鳥の落下。

 迂闊に咄嗟に両手を差し伸べる。

 触れたらどうなる?匂いは?菌は?

 刹那の猶予も許されぬ瀬戸際で、そんな厭世的な思考を馳せる余裕を見せた俺は、両腕を忙しなく退かせた。

 そのまま流れるように、ラブレターを差し出すかのように、両手でクッション代わりの学生鞄の四隅を握りしめて差し伸べた。

 その上に保険としての、指の腹ならぬ腕の腹を乗せる。

 未だ己の状況を理解し得ていない様子の雀は、間一髪のところでボスッと乾いた音を呑むようにして、静かに腕へと沈み込む。

 額に妙な冷や汗を滲ませ、己の鼓動が次第に心身に響き渡っていくのを肌で感じながら…。

 徐に一瞥する。

 すずめは腕の中で元気に鳴いていた。

「はぁ……良かった」

 魂が抜けてしまいそうなため息を零し、その最中に、巣が遅れて頭上に降り掛かった。

 片方の掌で受け流すように受け取る。

 やっぱり独りだったか。

 まだ淡紅色の体躯を覆い隠せるほどの産毛さえ生えておらず、小指の骨にも満たぬ痩骨でかろうじて頭を支えている。

 一旦は雛をその場に放置して、猿の様に軽快に二つ枝へと上り詰めていく。

 巣というのは新型携帯と大差ないほど、いやむしろ、それ以上にふんわりと強く握り締めれば、その形を容易く崩してしまうほどに、軽々とした物であった。

 上り詰めていく内に、靄のようなものが体を覆い尽くしていく。

 黒々と禍々しく、目の前の現実を閉ざすようにして、眼前を黒々とした靄が呑み込んだ。

 夢を見るな。絶対に。

 けれど、靄は俺の正常な判断を狂わせて、気付けば過ちの道へと誘われていた。

 そして、俺は黄昏色の陽を背にして、牛歩の如く重き足取りで、淡々と家路を辿っていく。

 鞄から落ちぬように、周囲の人たちに気付かれぬように、丁寧に慎重にゆっくりと。

 雀の雛を抱えて、歩みを進めていた。

「何やってんだ……俺」

 あれからまだ数分と経っていない。

 あと少しの長考があれば、道は変わっていたかもしれないのに……。

 もし、あの時鴉に小石が当たっていたら、もしも、雀にぶつかっていたら、俺は……どちらかを殺めていたかもしれない。

 そんな過ぎたことばかりが幾度となく脳裏をよぎり、頻りに眩暈が襲っていた。

 小さく、引き摺るような一歩一歩。

 その稚児たる歩幅が原因か、帰路に着く頃には、天を真っ黒な暗雲が覆い隠していた。

「ただいま」

「おかえりー」

 帰りを待っていたのは、キッチンで拍手の如く喝采を奏でる油の湖と、激しい格闘を繰り広げていた母であった。

 仄かに焦がした醤油や生姜の匂いが鼻の奥を突き抜けていき、自然とそれは目に入る。

 銀のバットの上には、狐色にこんがりと揚がった無数の揚げ物が積み上がっていた。

 あれは、鳥の唐揚げ……だろうか。

 そう思いつつも、母を素早く横切って、緩やかに椅子に腰を下ろすとともに、机上に鞄と雀を置いた。

 母の静かな足音が次第に近づいていき、傍らでその音はピタリと止んだ。

「もうすぐご飯できるから」

 母は大皿をテーブルに置く。

「ねぇ、母さん」

「んー?」

 揚げ物の山に目が奪われ、息をするのさえ忘れてしまうほどに、釘付けになっていた。

 徐に息を呑む。

「こ、これは?」

「唐揚げ。鳥の」

「え!?それなに?」

 だが、母の視線はその隣に佇む雀に注がれていた。

「唐揚げ……じゃっなくって、雀の雛。カラスに襲われそうになってて……」

「そう……。ご飯の支度がもうそろそろ終わりそうだから、テーブルの上、綺麗にしておいてね」

「え?」

 母の反応は意外にも淡白なものであった。

 冷蔵庫に秘蔵されていたプリンを食べた時とはまるで異なり、鶏かのように記憶を長期保存できないのかと焦りを含むほどの対応。

「あのさ、飼うっていうか、育てて……」

 ガチャ。玄関口からそんな音がした。

 俺の言葉を遮った音は、俺の淡い理想を一瞬にして粉々に打ち砕き、引き摺り下ろす様にして夢から我に返した。

「ただいま」

 兄の静かなる帰還がそう告げる。

「おかえりー」

 緩やかに廊下に一瞥する。

 淡々と大地を踏みしめるかのようなずっしりとした足音が近づいてゆき、壁に映し出された人影が、次第に大きく明瞭になっていく。

 脳裏に飛び交うのは数多の戯言ばかりで、未だ尚、あいつが満面の笑みで頷いてくれる口実を見出せていない。

 そんな最中にも、無情にも時は進んでゆき、遂には訪れてしまった。

 居間に第一歩を踏み出すとともに、兄の視線は真っ先に机上のすずめへと向けられる。

「……お、おかえり」

 己にできるのは、最大限の笑みを浮かべることのみ……のつもりだったが、それは自らでさえも想像に難くないほどに、引き攣った歪なものであった。

「駄目だ」

 食い気味に放ったその第一声は、父との面影を重ねるのに一瞬の躊躇も要さなかった。
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