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第五話 限界

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 真夏の梅雨時。

 じめじめと蒸れるような不快感が全身を常に覆い続けて、雨音ばかりが鼓膜を襲っていた。

 今日は珍しく、琴音からの要望に応えて、病院へと足を運んでいた。

 雨傘を小突くような大粒の雨が降り注いで、僅かな先の視界さえも遮っている。

 行き交う雑音を、周りの人影でさえも、呑み込んで、此処には俺一人のようにさえ、感じさせた。

 けれど、当然のように受付には見慣れた面差しの看護師が居並んで、廊下にも雑多な人たちがいた。

 けれど、扉の先には……。

「は?」

 黄金を帯びた一枚の花びらを残して、いつものように外を眺めていた彼女の姿が見当たらなかった。

 静寂。

 窓を叩く雨音が、ハッと我に返らせて、気付けば俺は一心不乱に駆け出していた。

 看護師の忠告を振り切って、階段を降りんと曲がり角に爪先を向けた瞬間。

 視界の端に何かを捉えた。

 徐に一瞥すれば、誰かが中庭の真ん中で、天を仰いで立ち尽くしていた。

 慌ただしくその姿の元に向かっていく。

 分かっている。分かっていた。

 それが誰なのかを、どんな理由なのかも。

 けれど、考えたくない。

 それに気付いてしまったら、もう……戻れない。

 灰色の空から清濁を含んだ雨粒が降り注ぐ最中、弱々しい体躯に鞭打ちながら、病衣が透き通るほどにその身を大雨で濡らしていた。

 琴音は緩やかにこちらに振り向く。

「琴音。何やってんだ……風邪引くだろ!」

 まるで三流芝居のような下手くそな演技で、限界を疾うに迎えていた筈の琴音に怒号を飛ばした。

 そして、これ見よがしに、握りしめたチェーンを振るって、雨風に打たれる懐中時計を翻す。

「どうせ、また同じ春が来るんでしょ?なら、私がどうなろうと問題ないんでしょ?」

「……」

「ねぇ、忘れたの?私との約束」

「約束?」

「もう随分昔のことだから仕方ないよね。でも、私はいつまでも覚えてるよ。だって、大切な思い出だから」

 琴音はその所作に一切の躊躇なく、するりと指先から鎖を解いた。

 一刹那。

 脳裏に危険が迸るよりも僅かに早く、俺は大地を蹴り上げて、前屈みに飛び上がる。

 地に触れる寸前の時計を間一髪の所で救い出し、今も何とかその鼓動を打ち続けていた。

 身体中が泥と土に塗れた不快感よりも、地に寝そべった俺を見下ろした、侮蔑と悲壮な眼差しを向ける様が、限りなく己に嫌悪と焦燥感を訴えていた。

「嘘つき」

「……」

 そそくさと立ち上がり、彼女から少し後ずさって徐に天を仰ぐ。

「だったら、どうすればいいんだよ。どうすれば、君は何年も何十年も生きていられる?」

 次第に頬が歪なものへと変わっていく。引き攣っているような強張りが全体に広がってゆき、その顔つきを琴音に向けてしまった。

 それが最悪なのは想像に難く無い。それなのに、向けずにはいられなかった。この感情の行き所を、俺は他に知らない。

「なら教えてくれよ。苦しまずに、辛い思いをせずに、お前がずっと笑っていられる道を」

「……」

「なぁ、お願いだよ。教えてくれよ!!」

「…」

「こんな馬鹿げた時計の力に縋って、やる事が全部身勝手なのも、自分本位なのも分かってるよ。でも、それでも大切な人にずっと生きてて欲しいって思うのは、間違ってるのか?」

「私はそれでも……止まった時間の中は嫌なの……」

「なんで……」

 言葉で告げる事なく、虚ろな目だけを向けた。頬から清澄なる大粒の涙がとめどなく零れ落ちてゆく。

 その姿に、俺はただ、下唇を噛み締めて、泳がせるように目を逸らし、何歩も何十歩も後ずさっていくしかできなかった。

 差し伸べればすぐ届くのに、きっと琴音はその手を掴み取ってくれるはずなのに。

 俺は……。

「……。あぁ、分かったよ」

 彼女から目を背けて、逃げるようにその場から、帰路につく道筋に歩みを進めていた。

「颯飛、お願い」

「……。風邪を引いたら困るから、早く戻ってね」
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