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第一話 時計と時間
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満開の桜の木々たちは、その鮮美透涼なる容姿を掻き立てていた、淡いピンクの花びらたちを惜しみなく、周囲にばら撒いていた。
息をするのさえ忘れてしまうほどの至福のひと時である筈なのに、その舞い散る姿は、俺の胸をギュッと締め付けていく。
「……まだ寒いな」
暖かなマフラーを手離しても、突き刺すような寒さが襲うことは無くなったものの、やはりまだ、冬の影はしぶとく残っていた。
今日は何の話をしようか。
そんな想いが、無意識に俺の素早い足取りを、ゆったりとしたものへと変えていく。
並木道の桜に触れんと肩車をした仲睦まじい親子と、それに一切の興味を示さぬ仔犬を、降り積もっていく花びらを平然と踏みしめる少年たちを、視界から切っていく。
そうだ、どうせだからあの話をするか。
そう思い立ったのは、懐に仕舞い込んだ懐中時計の針が心臓の鼓動とともに、身体中に響き渡らせたのに他ならないだろう。
テーマはどうしようか。
時計、時間、春、道。
余命わずかな少年が、不思議な懐中時計を手にして、永遠の春を手にするとかかな。
……。
他には…。
物語が未完成でありながらも、辿り着く。
もはや、彼女の居住地にさえ見えてしまう、広々とした病院へと。
「……ハァ。ん?」
傍らにひらひらと舞い降りていく花びらを、そっと掴み取った。
それは、淡く澄んだピンクの花びらの中でも、一際強かに色を付けた一枚の花びら。
「……」
その花びらを懐中時計の中にそっと入れて、ほんの少しだけ弾んだ足取りで、彼女の元へと向かった。
灰色に染まった廊下を淡々と進んでいく。
ガラガラと点滴棒を引き摺らせ、骨と皮ばかりの病衣を纏った中年男性や、看護師に追われながら無邪気に走る子供たちから、目を逸らして横切っていき、ようやっと永遠に続くかと思われた道行きに終わりを告げる。
もはや、最初の頃の歩調は、跡形もなく消え去って、俺は扉の前で立ち往生し、ため息を零すかのように僅かに乱れた呼吸を整えた。
「ハァァァ……」
そして、ゆっくりと扉を開く。
そこにいたのは、いつものように色褪せた空をぼーっと眺めて、誰かの来訪を静かに待ち侘びる彼女の姿だった。
緩慢にこちらに振り返り、その生気の抜けたような黒き瞳に人影が映った瞬間。
「琴音、遅れてごめん」
琴音は静かに微笑んだ。
「いいよ、許してあげる」
少しでも長く、笑っていてほしい。
そんな細やかな願いを込めた懐中時計とともに、琴音ただ一人の病室へと踏み込んだ。
憂鬱に気分を沈めていたけれど、歩みを進めていく内に、曇った表情を切り払っていく。
白皙の頬を緩ませながら、細々とした掌を重ねて、緩やかに腰を下ろしていく俺の姿をじっと見つめていた。
「大丈夫?顔色悪くない?やっぱり、お家の方のお仕事が忙しいんじゃ……」
「別に無理なんてしてないよ!ただちょっと、寝不足なだけでさ」
琴音に物憂げな表情に浮かべさせんと、食い気味に言い放った。
「そう?なら良いんだけど」
「今日はギリギリまで大丈夫だからさ」
「そっか、ありがとう。ん?これは?」
「開けてみて」
琴音の前にそっと懐中時計を差し出した。
か細い指先で蓋を開けば、桜の花びらが裏蓋からひらひらと剥がれ落ちていく。
「……そっか、もう春なんだね」
「うん、外はもう桜が満開だよ」
花びらをそっと摘んで、胸に押し当てた。
憂ているような、微笑んでいるような、よく分からない表情を浮かべて、窓の外を眺める。
「今日は物語を話したくってさ」
その姿から目を背けたかったのかは定かじゃないけれど、俺は慌ただしく話をすり替えていた。
そして、琴音は純粋無垢な子供のように、目を煌びやかに輝かせ、胸を躍らせていた。
「今日はどんなの?」
君と過ごせる僅かな時間を満足に過ごせるように、夢物語には現実味を持たせていた。
「少年と懐中時計の物語かな」
こんな地獄のような日々を送っているのに、昔から揺蕩う雲を好いて、次なる季節を嬉々として待つ様は不思議でならなかった。
それは、ちょっとした不幸や災難を織り交ぜなければ、興味を示してくれないほどで……。
時の止まった針を動かさんと、徐にリューズを摘んで、ゆっくりと回そうとしたが……。
視線が注がれているのを感じ取った。
琴音が興味津々に見つめている。
「一緒に回す?」
「良いの?」
俺はこの瞬間が、儚く消え入りそうでも、綺麗で泡沫なその笑みをずっと見ていたい。
冷や汗さえも引くような清涼なる指を上から当てがうとともに、優しく巻いていく。
カチッと鳴らして、何度も行ったり来たりと往来を繰り返していき、やがては……。
時計の針は静かに歩み出した。
「へぇー!詳しいんだね、時計の事」
「え?」
「私は回し方なんて全然知らなかったよ、お父さんとかに教えてもらったの?」
「ぉ……そう、だったかな。多分?」
俺も回し方なんて知らない、知る筈もなかった。それなのに、不思議と体が覚えていて、その動作に何の躊躇いもなく行えてしまった。
祖父にでも習ったのだろうか。
「そ、そんなことより、話……始めようか」
「あぁ、ごめんね。逸らしちゃって」
取るに足らない会話。
記憶のアルバムに飾り付けるにしては、あまりにも素朴で興ざめの一枚だろう。
自らでも疑問を抱くほどの話の内容を前にして、琴音は一言一句を聞き逃すことなく、満面の笑みを浮かべていた。
まるで自分自身が主人公かのような眼をして。
物語の本筋真っ只中なのに、俺は頻りに眼を泳がせてしまう。一分一秒足りとも退屈しない空間に入り浸りながらも、琴音の背に映る窓の外が、段々と夜の始まりを迎えようとしていた。
そして、そんな至福であり至高のほんのひと時でさえも、無情に時が進んでゆく。
平等に不平等に理不尽に。
「山本さーん。そろそろお時間でーす」
看護師の死の宣告にも等しい言葉が、沈んでいく陽に琴音が身を翻しながら浮かべる、哀愁漂わせる物憂げな表情が、終わりをより一層掻き立てていた。
こんな事を、もう何年も続けていた。
「じゃあ、また」
「うん、じゃあね」
渋々、帰路への一歩を踏み出した。
「颯飛」
そっと肩先に触れるように語りかける。
「ん?」
「今日も面白かったよ、また明日ね」
その掛け替えの無い琴音の微笑みが、どうしようもなく俺の胸を締め付けた。
そして、指先辺りに刺すような視線が襲った。
そっと一瞥すれば、自然と握りしめていた懐中時計を、物欲しそうな目でじっと見つめていた。
「もしかして、欲しいの?」
「ううん。ごめんね、別に何でもないの」
彼女へと無意識に差し伸べんとする腕を、カチカチと無機質に歩み続ける時計の針が、俺をハッと我に返し、緩慢に下ろさせた。
「あ、明日は何の話がいい?」
「颯飛の話なら何でも」
「そっか、分かった。じゃあ楽しみにしててね」
廊下の窓の外、中庭の木々が蕾を付けて、開花の時を静かに待っていた。
「もう時期、春か」
あれから疾うに三日が過ぎた頃、雑に机に置いた時計が小さな音を立てて、地に臥した。
「……邪魔だし、仕舞うか」
徐に掴み上げんと屈んだ瞬間。
纏わりつくような違和感を覚えた。
何だ……?
身体の不調、否。
天候の行く末、違う。
家の変化、それ以外ありえない。
カチカチカチ。
数多な雑音が行き交う居間の支柱で、閉ざした蓋の上から微かに無機質な音がした。
恐る恐る、その蓋を開けば、俺の目に映ったのは独りでに動く懐中時計の姿であった。
まるで他の何かを糧に、自らの意志で動いているかのように、淡々と時の針を進めていく。
「……は?」
息をするのさえ忘れてしまうほどの至福のひと時である筈なのに、その舞い散る姿は、俺の胸をギュッと締め付けていく。
「……まだ寒いな」
暖かなマフラーを手離しても、突き刺すような寒さが襲うことは無くなったものの、やはりまだ、冬の影はしぶとく残っていた。
今日は何の話をしようか。
そんな想いが、無意識に俺の素早い足取りを、ゆったりとしたものへと変えていく。
並木道の桜に触れんと肩車をした仲睦まじい親子と、それに一切の興味を示さぬ仔犬を、降り積もっていく花びらを平然と踏みしめる少年たちを、視界から切っていく。
そうだ、どうせだからあの話をするか。
そう思い立ったのは、懐に仕舞い込んだ懐中時計の針が心臓の鼓動とともに、身体中に響き渡らせたのに他ならないだろう。
テーマはどうしようか。
時計、時間、春、道。
余命わずかな少年が、不思議な懐中時計を手にして、永遠の春を手にするとかかな。
……。
他には…。
物語が未完成でありながらも、辿り着く。
もはや、彼女の居住地にさえ見えてしまう、広々とした病院へと。
「……ハァ。ん?」
傍らにひらひらと舞い降りていく花びらを、そっと掴み取った。
それは、淡く澄んだピンクの花びらの中でも、一際強かに色を付けた一枚の花びら。
「……」
その花びらを懐中時計の中にそっと入れて、ほんの少しだけ弾んだ足取りで、彼女の元へと向かった。
灰色に染まった廊下を淡々と進んでいく。
ガラガラと点滴棒を引き摺らせ、骨と皮ばかりの病衣を纏った中年男性や、看護師に追われながら無邪気に走る子供たちから、目を逸らして横切っていき、ようやっと永遠に続くかと思われた道行きに終わりを告げる。
もはや、最初の頃の歩調は、跡形もなく消え去って、俺は扉の前で立ち往生し、ため息を零すかのように僅かに乱れた呼吸を整えた。
「ハァァァ……」
そして、ゆっくりと扉を開く。
そこにいたのは、いつものように色褪せた空をぼーっと眺めて、誰かの来訪を静かに待ち侘びる彼女の姿だった。
緩慢にこちらに振り返り、その生気の抜けたような黒き瞳に人影が映った瞬間。
「琴音、遅れてごめん」
琴音は静かに微笑んだ。
「いいよ、許してあげる」
少しでも長く、笑っていてほしい。
そんな細やかな願いを込めた懐中時計とともに、琴音ただ一人の病室へと踏み込んだ。
憂鬱に気分を沈めていたけれど、歩みを進めていく内に、曇った表情を切り払っていく。
白皙の頬を緩ませながら、細々とした掌を重ねて、緩やかに腰を下ろしていく俺の姿をじっと見つめていた。
「大丈夫?顔色悪くない?やっぱり、お家の方のお仕事が忙しいんじゃ……」
「別に無理なんてしてないよ!ただちょっと、寝不足なだけでさ」
琴音に物憂げな表情に浮かべさせんと、食い気味に言い放った。
「そう?なら良いんだけど」
「今日はギリギリまで大丈夫だからさ」
「そっか、ありがとう。ん?これは?」
「開けてみて」
琴音の前にそっと懐中時計を差し出した。
か細い指先で蓋を開けば、桜の花びらが裏蓋からひらひらと剥がれ落ちていく。
「……そっか、もう春なんだね」
「うん、外はもう桜が満開だよ」
花びらをそっと摘んで、胸に押し当てた。
憂ているような、微笑んでいるような、よく分からない表情を浮かべて、窓の外を眺める。
「今日は物語を話したくってさ」
その姿から目を背けたかったのかは定かじゃないけれど、俺は慌ただしく話をすり替えていた。
そして、琴音は純粋無垢な子供のように、目を煌びやかに輝かせ、胸を躍らせていた。
「今日はどんなの?」
君と過ごせる僅かな時間を満足に過ごせるように、夢物語には現実味を持たせていた。
「少年と懐中時計の物語かな」
こんな地獄のような日々を送っているのに、昔から揺蕩う雲を好いて、次なる季節を嬉々として待つ様は不思議でならなかった。
それは、ちょっとした不幸や災難を織り交ぜなければ、興味を示してくれないほどで……。
時の止まった針を動かさんと、徐にリューズを摘んで、ゆっくりと回そうとしたが……。
視線が注がれているのを感じ取った。
琴音が興味津々に見つめている。
「一緒に回す?」
「良いの?」
俺はこの瞬間が、儚く消え入りそうでも、綺麗で泡沫なその笑みをずっと見ていたい。
冷や汗さえも引くような清涼なる指を上から当てがうとともに、優しく巻いていく。
カチッと鳴らして、何度も行ったり来たりと往来を繰り返していき、やがては……。
時計の針は静かに歩み出した。
「へぇー!詳しいんだね、時計の事」
「え?」
「私は回し方なんて全然知らなかったよ、お父さんとかに教えてもらったの?」
「ぉ……そう、だったかな。多分?」
俺も回し方なんて知らない、知る筈もなかった。それなのに、不思議と体が覚えていて、その動作に何の躊躇いもなく行えてしまった。
祖父にでも習ったのだろうか。
「そ、そんなことより、話……始めようか」
「あぁ、ごめんね。逸らしちゃって」
取るに足らない会話。
記憶のアルバムに飾り付けるにしては、あまりにも素朴で興ざめの一枚だろう。
自らでも疑問を抱くほどの話の内容を前にして、琴音は一言一句を聞き逃すことなく、満面の笑みを浮かべていた。
まるで自分自身が主人公かのような眼をして。
物語の本筋真っ只中なのに、俺は頻りに眼を泳がせてしまう。一分一秒足りとも退屈しない空間に入り浸りながらも、琴音の背に映る窓の外が、段々と夜の始まりを迎えようとしていた。
そして、そんな至福であり至高のほんのひと時でさえも、無情に時が進んでゆく。
平等に不平等に理不尽に。
「山本さーん。そろそろお時間でーす」
看護師の死の宣告にも等しい言葉が、沈んでいく陽に琴音が身を翻しながら浮かべる、哀愁漂わせる物憂げな表情が、終わりをより一層掻き立てていた。
こんな事を、もう何年も続けていた。
「じゃあ、また」
「うん、じゃあね」
渋々、帰路への一歩を踏み出した。
「颯飛」
そっと肩先に触れるように語りかける。
「ん?」
「今日も面白かったよ、また明日ね」
その掛け替えの無い琴音の微笑みが、どうしようもなく俺の胸を締め付けた。
そして、指先辺りに刺すような視線が襲った。
そっと一瞥すれば、自然と握りしめていた懐中時計を、物欲しそうな目でじっと見つめていた。
「もしかして、欲しいの?」
「ううん。ごめんね、別に何でもないの」
彼女へと無意識に差し伸べんとする腕を、カチカチと無機質に歩み続ける時計の針が、俺をハッと我に返し、緩慢に下ろさせた。
「あ、明日は何の話がいい?」
「颯飛の話なら何でも」
「そっか、分かった。じゃあ楽しみにしててね」
廊下の窓の外、中庭の木々が蕾を付けて、開花の時を静かに待っていた。
「もう時期、春か」
あれから疾うに三日が過ぎた頃、雑に机に置いた時計が小さな音を立てて、地に臥した。
「……邪魔だし、仕舞うか」
徐に掴み上げんと屈んだ瞬間。
纏わりつくような違和感を覚えた。
何だ……?
身体の不調、否。
天候の行く末、違う。
家の変化、それ以外ありえない。
カチカチカチ。
数多な雑音が行き交う居間の支柱で、閉ざした蓋の上から微かに無機質な音がした。
恐る恐る、その蓋を開けば、俺の目に映ったのは独りでに動く懐中時計の姿であった。
まるで他の何かを糧に、自らの意志で動いているかのように、淡々と時の針を進めていく。
「……は?」
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