上 下
106 / 118
第四章

第95話 初恋やり直しませんか?-前編-

しおりを挟む
 
「……ねぇ、香乃果。聞いて?」


 頭の上から渉の掠れた声が聞こえた。


「……やだ。」

「香乃果。大丈夫だから。ね、聞いて?」


 渉は優しく甘い声で私に懇願する。
 だけど私は聞きたくなかった。

 聖から聞いた話やこれまでの渉の言動から、私が考えている事が杞憂だという事はわかっていた。
 だけど、万が一、少しでも穂乃果の事が好きだった気持ちがあったと渉が認めたら……

 そんなの耐えられる訳がなかった。


「やだやだやだやだ!聞かないもん。」

「この、落ち着こう。ね、大丈夫だから。」


 耳を塞いで聞き入れない私に、渉は優しい口調でそう語りかけるとリネンの上から優しく抱きしめる。


「やぁ……」


 暗がりで密着しているからか、さっきよりもトクントクンと渉の胸の音が大きくハッキリと聞こえる。
 リネンの中には渉が私の背中をトントンと摩っている音と渉の心音と息遣いしか聞こえてこない。

 最初は身を捩って抵抗していたが、その音に耳を傾けていると次第に昂った感情が落ち着いていき、最後には渉の抱きしめる腕に身を委ねていた。


「こーの、お願い。顔、見せて。」


 私が完全に落ち着いた頃を見計らって、渉は再度甘い声でそう懇願する。


「香乃果。この。ねぇ、このちゃんってば?」

「うぅっ……やだ。私、今凄い不細工だから……」


 まだ腹の虫の治まらない私がつっけんどんにそう返すと、渉はバサリと被っていたリネンを取り払うという強硬手段に出た。

 慌てて抱きしめる渉の腕にしがみついて顔を隠そうとしたが一歩遅く……
 渉は涙と鼻水でぐちゃぐちゃで、加えて泣き腫らして若干目が腫れぼったい私の顔をガシッと掴んだ。


「ちょっ!渉?!」


 恥ずかしさに目を逸らす私の顔を優しい顔で覗き込むようにじっと見つめると、困ったように笑いながら掌で私の涙と鼻水をゴシゴシと拭った。


「んーと、そんな事ないんじゃないかなぁー…って、あはは。ほんとに、ちょっとだけ不細工だわ。」


 可笑しそうに笑ってそう言う渉に絶句している私を、渉は「ウソ、めちゃくちゃ可愛いよ」と言ってふわりと抱きしめた。


「ねぇ、この。誤解しないで欲しいんだけど……ちょっとしたすれ違いから拗れてここまで来ちゃったけど……これだけはハッキリと思い出してるんだよ?」

「何を?」


 涙を拭った後両手でクイッと顔を持ち上げて私と視線を合わせると、渉は諭すような口調で告げる。


「俺の初恋相手は香乃果、お前なの。穂乃果じゃない。だって、子供ガキん時から、嫁にするのは香乃果、お前だけって決めてたんだから。」


 そう言って、渉は顔をくしゃくしゃにした。
 ハッキリと告げる渉の瞳には嘘はなかった。


「でも……」


 私は真っ直ぐに私を見つめる渉から視線を逸らした。

 だったら、それならなんで穂乃果になびいてしまったの?

 目を逸らした私の言わんとしている事がわかったのか、渉は一瞬傷付いたような顔をした後、目を伏せて淋しそうに微笑んだ。


「穂乃果の事だよな……それはほんとごめん。弱かった俺が全部悪いから言い訳はできない。だけど……本当だったら…あんな事がなければ……
 香乃果と許嫁になれた事、すっげぇ嬉しかったと思う。それに……香乃果の事だって、すっげぇ大事にしたと思うんだ。」


 渉はふるふると頭を緩く振った後、目を伏せて深く息を吐いた。


「当時の事はもうどうにもなんないし、考えてもしょうがない事かもしんないけど、それが今の俺の本心。信じられないかもしれないけど……」


 言い終わると、渉は辛そうに眉根を寄せた。
 後悔している、そんな表情で渉は私を見つめた。


「本当にごめん……マジでごめん。できる事なら、時間を巻き戻して全部なかった事にしたいけど、そんな事は不可能だし、今までの事だって許して欲しいとか虫のいい話はないと思う。
 だけど…だけど、これからは香乃果の事をめいっぱい愛していくし、大事にさせて欲しい。」


 渉は泣きそうな顔をして震えるような息を吐きながら、お願い、と私をぎゅっと抱きしめた。


「渉……」


 渉の心臓はバクバクと脈打つような早い鼓動を打っていた。
 心做しか私を抱き締める腕も震えていて、その腕から緊張が伝わってくる。

 やがて、渉は私から身体を離すと私ときちんと向かい合って座り直し、目を閉じてふぅとひと息吐いた後、ゆっくりと目を開け私をじっと見つめて言った。


「だから……

 だから、俺と初恋やり直しませんか?」


 唐突に渉に言われた言葉の意味が即座に理解出来ずに目をぱちくりさせると、困ったように眉を下げて笑いながら私の手を握った。


「初恋、を…やり直す?」

「そう。俺の初恋の記憶は色々と混じり物が混在しているから……出来ることなら最初からやり直させて欲しい。」


 渉は私の手を取り指を絡めておでこをくっつけて柔らかく笑むと、そう言って私を抱き寄せた。


「許嫁になってから今日までの俺との思い出って、香乃果にとっては辛くて悲しい思い出ばっかりじゃない?」

「うん……そう、だね……」


 許嫁になってから今まで本当に色々な事があったけれど、渉の言う通り、正直、悲しい事や辛いことの方が多かった気がするな、と思った。
 多少の気まずさはあったものの、取り繕うつもりもなかったので、何となく渉の言葉に私が伏し目がちに返事をすると、渉は眉根を寄せて辛そうな顔で私の瞳を覗き込むと、自嘲気味に言った。


「そうだよなぁ……あの時の俺は馬鹿でガキで……自分の気持ちに関係なく話が進むことに納得できてなくて、ほのの事だってちゃんと考えればわかったはずなのに思考停止してて。そのせいで本当に大切なものが見えなくなってたなんて、マジで笑えねぇよな。ごめんな……」


 落ち込む渉に、私はゆるゆると頭を振って言う。


「ううん、わたしこそ。渉の心が離れていた事に気がついてたのに、渉に嫌われるのが怖くて見て見ぬふりしてたから……だからお互い様だよ。」

「えっと…香乃果…こんな馬鹿でクソ野郎な俺のこと、許してくれるの?」


 渉がパッと顔を上げると、涙が滲んだ渉の瞳とかち合う。
 不安そうに今にも泣き出しそうな程、震えた声でそう告げる渉は震える腕で私を抱きしめる。

 そんな渉を心から愛おしいと思った。

 胸がきゅうっと締め付けられ、無性に抱きしめたくなった私は渉の胸に頬を擦り寄せると、渉の広い背に腕をまわした。


「許すも何も……お互い様だって。でも、凄く辛かったし、穂乃果との事だってすっごく嫌だった。だけど、私だって航くん…深澤くんとの事があるから、強く言えないから。だから、本当にお互い様なんだよ。」


 そう言って顔を上げて渉の瞳をじっと見つめると、渉はバツが悪そうに頭をガシガシと掻いて苦笑いを浮かべた。


「あー…そうか。うん、そう…だよな。」


 そう言うと渉はふぅと深く長い息を吐き、そして、急にグイッと私の手を引くと、ぽすんっと勢いよく渉の胸の中に倒れ込む。


「きゃっ…?!」


 突然引き寄せられて心臓がドキリと跳ねると、頬に当たる渉の心臓もバクバクと早い鼓動を打っている。
 そのまま渉は私を腕の中に閉じ込めると、不意に耳元で熱い吐息を漏らした。


「わ、わ、渉?!」

「俺も……」


 目をぱちくりさせながら名前を呼ぶと、頭上から苦しげな声が聞こえた。
 顔を上げて渉を見ると、渉は私を抱きしめたまま困ったように笑った。


「俺も嫌だった。アイツに見せてた可愛い笑顔とか、アイツを見つめる優しい眼差しとか……香乃果の視線が俺以外を追っている事が。」

「渉……見て、たの……?」


 まさか航くんといる所を見られているとは思ってもいなくて、吃驚した私は、パッと身を離す。
 瞠目した私を見て、渉は緩く笑みを作った。


「あぁ。何度か、学校で……ぶっちゃけ、羨ましかった。本当は俺も、すっげぇ嫌だったんだ。」


 思いがけない渉の告白に、申し訳なさと居た堪れなさに胸が押し潰されそうになり涙が込み上げてくる。


「……ごめん。」


 言葉と共に涙が零れた。
 渉は私の涙を拭い、愛おしむように私の頭を撫でながらぎゅうっと抱きしめると、安心させるような優しい声で言った。


「大丈夫。謝んないで?俺が悪かったんだから。ね?だけど……」


 渉はふぅと息を吐く。
 そして、私を抱きしめ、眉尻を下げて私を見つめると、震える声で囁いた。


「頼むよ…もう、あんな顔は俺以外には見せないで?約束してくれる?」


 懇願するように言った、渉のちょっとした独占欲を見せる言葉にきゅうっと締め付けられて、目の奥がじんとした。
 そんな渉の気持ちが嬉しくて胸がいっぱいになり、それまでの悲しい気持ちが解れていくのを感じた。


「うん……うん、わかった。もう、渉にしかみせないよ。」


 渉の背中を撫でてそう答えると、漸くホッと安心したように表情を緩めた。
 肩口に顔を埋める渉の髪を撫でながら、私は今までの事を思った。


「ねぇ、渉。」


 渉のサラサラの髪を梳くように頭を撫でながら名前を呼ぶと、渉は縋るように頬を擦り寄せてくる。


「私、本当に辛かったんだから。」

「うん。」


 ポツリと言うと、渉は私の肩に顎を乗せて短く返事をする。


「悲しい思い、いっぱいしたんだよ?」

「うん。」

「……淋しかった。」

「うん。俺も。」


 そう言うと、渉は私を抱きしめる。
 涙がじわじわとせり上がってきて、鼻の奥がツンとした。


「本当に、淋しかった、んだから。」

「ごめん。もう、淋しい思いはさせない。」


 ポロポロと零れる涙を唇で掬うと、渉真剣な眼差しで私を見つめた。


「本当に?」

「うん、本当。」

「絶対?」

「絶対。」


 後から後から涙が零れた。
 しゃくりあげながら上目遣いで言う私をじっと見つめたあと、ふっと表情を緩め、そして、ふわっと抱きしめた。

 私は渉の胸の中で、今まで溜めてきた心の澱を吐き出すように、大声で泣きじゃくった。
しおりを挟む

処理中です...