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番外編
婚姻届
しおりを挟む「名月、そろそろ行ける?」
約束の19時になる少し前、弦は第三営業部のある下のフロアから、ここ第一営業部のあるフロアに、帰り支度を整えてから私を迎えに来た。
弦の声掛けを合図に、私も席を立ち帰り支度を始める。
蕩けるような笑みを湛えながらフロア入口を入ってくる弦に、ドキドキが止まらない。
つかつかと側までやって来た弦に、ふわりと後ろから抱きしめられ、左手を取られて指を絡められた。
「名月、指輪ちゃんとしてるよね?」
「うん、もちろん。ほら。」
「ん、よかった。よく似合ってるよ。マリッジリング買うまではずっとつけてて欲しいな。」
そう言って、弦は私の左手の薬指をすりすりとしながら、にこりと笑む。
「えぇ……これ、絶対高いじゃん。怖いんだけど…」
「大した額じゃないけど……そうだな、でも、セオリー通りここの月収の3倍以上は死守したよ?」
ちょっと引き気味に呟いた私に、弦はまたまたとんでもない事をしれっと言った。
ここの月収…マネージャーの弦はそもそも高い上に、毎月のインセンティブもある。当然私の月収よりも高いとなると、月収3桁万円もしくはそれに近いはず。
と、いうことは……
「あは、あはは…やっぱり高いじゃんか……」
「あ、そうそう。そんなことより……」
想像しただけで、卒倒しそうになり、白目で乾いた笑いを漏らした私を意に介した様子もない弦は、一旦隣の席に荷物を置くと、徐に鞄からクリアファイルを取り出して私に手渡した。
弦から受け取ったクリアファイルに目を落とすと、ドキリと心臓が跳ね上がる。
「婚…姻届……?」
「そ。先週外出ついでに役所に取りに行ってきちゃった。」
そう言いながらにっこりと笑う弦の横で、私は初めて見る本物の婚姻届をまじまじと眺めた。
「う、うわぁ、これが婚姻届……本物初めてみた……てか、弦って本当に用意周到だよね。」
「ちょっと、名月。それ、聞き捨てならないんだけど。初めてじゃなかったら困るよ…相手が誰か問い詰めなきゃいけなくなるでしょ。用意周到なのは、それだけ本気で名月の事を囲い込みたいって事だよ。」
真剣な顔で私の顔を覗き込みながらそう宣う弦に、本気を感じてちょっと…いや、かなりドン引きした。
「そ、そんな相手いないって。それに、囲い込むって……ちょっと怖いよ?」
「ふぅん。ならいいけど。俺は何時でも名月を囲って閉じ込めたいと思ってるよ?そうしたら、真綿でくるんで大切に大切に愛してあげるから安心して。」
「ふぇっ…あ、愛してもらえるのは嬉しいけど、で、でも…閉じ込められるのは……」
か、か、勘弁………
サラリと笑顔で恐ろしい事をいう弦に引き攣り笑いを浮かべていると、弦はクリアファイルから記入済みの婚姻届を1枚取り出して机に広げた。
「はい、これ。俺の名前は記入済み。名月も書いてくれるよね?」
にっこりと笑顔を向ける弦をちらりと見上げて、念の為、一応……そんな事はないと思うが、聞いてみる。
「もちろん書く、けど…と、閉じ込めない?」
弦は私ににっこりと笑顔を向けると耳元で甘い声で囁いた。
「閉じ込めないよ。今はね。」
よかった、閉じ込めない……って今は?
今は、って言った?
ホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、吃驚のあまり目を見開いて横の弦を二度見する。
私の視線に気がついた弦は、またまたにっこりと笑って言った。
「名月がこの間みたいに余所見しなければ大丈夫。」
「でも、あれは…」
「ん?あれは…?なぁに?」
あれは幼馴染に対する純粋な心配だったと説明したのだが、やはり根に持っていたようだ。
余所見って言うけど、余所見じゃない、とは口が裂けても言えない。
反論は許さないよ、と言外に示す弦の笑顔が若干怖いので、続く言葉を慌てて飲み込んだ。
「う、なんでもないです。ていうか、もうしないってば…」
「うん。是非そうして?」
うぅ、この様子だとマジで次はないな…
弦のあの感じからすると本当にやりかねない。
言動は慎重に。うん、気をつけよう、私はそう心に決めた。
そんなやり取りをしながら支度を済ませると、約束の時間になったので、本部長に結婚の報告をする為に、弦とふたりでフロア奥の本部長室に向かって歩を進めた。
仕事では何度も本部長室には訪れていたのに、仕事以外のプライベートで訪れるのは初めてで、その初の訪問が結婚の報告となると流石に少し緊張して震えた。
「大丈夫、全部俺に任せて?ね?」
弦はそう言い、私を落ち着かせるように繋いだ手をぎゅっと握り微笑むと、目の前の本部長室の扉をノックした。
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