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第二章 黒猫の恋人
最終話 黒猫は月を愛でる
しおりを挟む可笑しそうに笑う弦の横で、私はひとりパニックに陥っていた。
えぇと、駅チカ好立地のタワマン最上階…… それって……明らかに億ションだから……賃貸だとしてもお家賃100万はするよね?
それだけでもかなり吃驚なのに、賃貸ではなくてローンなしの自己所有とな?
うぅむ…次元が違いすぎる……
改めて考えると血の気が引いてきた。
吃驚しすぎて白目になっている私を見て弦はちょっと何かを考える素振りをした後、こちらに向き直りにっこりと綺麗な笑顔を向けると、先程以上に衝撃的な発言をした。
「うん、そうだね。結婚するんだしその辺ちゃんと話しておかないといけないよね。まぁ、詳しくはおいおいゆっくり話すとして……
俺ね、学生時代から株とか投資とかやってて、ちょっとした資産もってるの。だから本当は働かなくても配当金で余裕で暮らしていけるんだけど、何もしないのって性にあわなくてね。仕事好きだし。」
それも初耳なんですけど!!!!
代議士のご子息なので普通にお金持ちのボンボンかと思えば、そうではなくて、なんと青年実業家ときたか!
け、結婚前に物凄い爆弾キター!!!
でも、確かによくよく考えてみるととんでもないお金持ちなのは端々に滲み出ていた気がする……
駅チカ億ション住み
車は外車のSUV
有名ブランドのドレスやアクセサリーを惜しげも無く何着もフルオーダー
1泊80万円のスイートルームに気軽に2泊
そして、気が付くとクローゼットに身に覚えの無い私の服やらバッグが勝手に増えている……
そういえば一緒に暮らし始めた時の家具家電、調理器具とかも全部弦が払っている。
一から全部揃えたのと、弦の拘りもあって糸目を付けなかったから、あれもたぶん100万くらいはかかってると思う……
パッと思い浮かぶだけでもこれだけあるのだから、掘り下げたらどれだけ出てくるか……
知らなかったとはいえ、考えれば考える程、会社員の給与では到底出来ない生活をしていたなと、遠い目になる。
弦は往来であるにも関わらず、引き攣り笑いで遠い目をして固まっている私の頬をするりと撫でると、恍と私を見つめた。
「だから名月が無理に働く必要はないし、お金を入れてもらう必要もないよ?欲しいものは何でも買ってあげるし、贅沢だってさせてあげられる。名月の願いは何だって叶えてあげるよ。」
「へ、へぇ……」
そう言って弦は今にも蕩けてしまいそうな程の甘い笑顔を浮かべた。
その、花でも背負っているのではないかという程眩しい弦の甘い笑顔に、周囲の人が釘付けになり足を止める。
その中には会社の人もいて、あーあのバカップルまたやってんな、的な視線を投げかけてくるので、途端に居た堪れない気持ちになった。
そもそも付き合い始めた初っ端のあの同伴出勤及び牽制騒動で、誠に有難くない事に私たちは、会社公認バカップル認定を受けていた。
そして、あの壮行会の出来事……
弦に泣きながらダッシュして飛び込み、そのままお姫様抱っこで退場するという……アレだ。
今思い出すと小っ恥ずかしい……何であんな事をしてしまったのか……あの行動だけは、後悔してもしきれない程の後悔をしている……本当に。
そして、その問題のアレだが……最初から事情を知っている役職者だけでなく、何も知らない新卒社員もバッチリ目撃した事もあり、あっという間に社内全体に周知されてしまった。それ以降、全社で見守り体制に入ったとでも言うか、生暖かい目で見られているというか……
そもそもの話、社内でイチャつこうが路上でイチャつこうが、誰も何も言わない……と言うか我社きってのスーパーエースに文句が言える訳がない。
文句が言える勇者がいたら、是非とも連れてきて欲しい所だ。
何故ならば、瀬田さんも言っていたが、彼のモチベーション維持が会社にとっての最重要事項だからだ。
そして、おかげさまでそのスーパーエースは今日も絶好調である。
遠い目をして彼方に意識を飛ばしていると、不意に横から弦の視線を感じたので、恐る恐るちらりと見上げると、蕩けてしまいそうな程甘い笑みを湛えている。
あ、このパターン……
まずいと思った時には既に遅く、熱を持った視線で恍と私を見つめ、弦は徐々に距離を詰めてくる。
私は身の危険を感じて、逆に距離を置くべく後退ろうとしたところを、弦は空いてる腕をさっと私の腰に回して、あっという間に抱き寄せられてしまった。
し、周囲の視線が痛い……
羞恥で真っ赤になりながら上目遣いで弦を見上げると、幸せそうに私を覗き込み見つめる弦の瞳とぶつかり、不覚にもドキリと心臓が跳ねた。
はぅ、かっこいい……
こんなにかっこいい人が私の旦那さまになるなんて未だに信じられないなぁ。
思わずぽーっと見蕩れてしまうが、暫くしてはっと気が付く。
ここは往来のど真ん中だ。
いくらなんでも、こんなところで朝っぱらからイチャイチャと見苦しい物を見せる訳にはいかないと、ぶんぶんと頭を振ってなんとか煩悩を打ち消した。
「げ、弦…嬉しいけど、贅沢とか必要ないからお金は計画的に使おうね?ね?そ、それから、ここ外……はな、れて……っ。」
弦の胸をぐっと押し返して身を捩りながら言うけれど、体格差は明らかだし、所詮女の力では全然ビクともしない。
それどころか更に強い力では抱き込められてしまう。
「贅沢とか必要ないって、そういう慎ましいところも好きだよ。」
「う、うん、わかったから…離れ……て、恥ずかし……」
弦は羞恥で茹でダコのように真っ赤になって腕の中でじたばた暴れる私を、蕩けそうな顔で見つめながら恐ろしく甘い言葉を零した。
「んーん、だぁめ。離れない。あぁ、俺の奥さんは可愛いなぁ。このまま抱っこしたまま出社したいなぁ。」
弦が言い終わると同時に私の身体が宙に浮く。
「ひゃっ!やだやだ!降ろして!」
「ふふふ、名月可愛い。愛してるよ。」
「恥ずかしいから降ろして!」
「だぁめ。ほら、危ないから暴れないで?しっかり俺に掴まってるんだよ?」
弦は暴れる私を横抱きに抱え楽しそうに笑いながら歩きはじめた。
あまりの恥ずかしさに弦の首に顔を埋めると、不意にコロンと弦の匂いが混じった香りがふわりと香り、思わず条件反射のようにスンスンと嗅いでしまう。
大好きな弦の匂いに羞恥心が吹っ飛び、陶酔する。
さっきまで恥ずかしいとか外だからとか騒いでいたのに、弦の匂いを嗅いだ途端これか、と自分の現金さに呆れて思わず苦笑が零れた。
その様子を見た弦は、とても嬉しそうに顔を綻ばせる。
「本当に名月は俺の匂いが好きだね。」
「うん。いい匂い。この匂い大好き。」
「俺も名月の匂いが大好きだよ。さてと、そろそろ降ろさないと。これ以上は離れ難くなっちゃうからね。」
そう言うと弦は私の頬に触れるだけのキスをすると、名残惜しそうに私を降ろし、また指を絡ませて手を繋いで歩き出した。
私たちの事を知っている社員達はこの光景にはもう慣れたもので、それはそれはとても生暖かい目で眺めながら横を通り過ぎていく。
あぁ、本当に居た堪れない……
ただでさえ甘い甘い弦の態度が、結婚が決まってからは以前にも増して甘くなった。
いや、でもこれは流石に激甘すぎる……
こんな胸焼けしてしまいそうな凄まじい甘さでは、周りからバカップル認定されても何の文句は言えない。
結婚前で既にこんなにも激甘いのだから、結婚したら一体どうなるのか……
その甘さを想像するだけで恐ろしさに身震いしてしまう。
果たしてこのままで良いのだろうか……と真剣に考えてしまっている私を尻目に、弦はとても機嫌よさげだった。
そして、そんな風に幸せそうに機嫌よくしている弦を見ていると、何だかんだ私も幸せな気持ちになってきて、色々と悩んでいる事が全て瑣末な事のように思えてくる。
結局のところ、私は弦の事が好きなので一緒にいられるだけで幸せなのだ。
5年間付き合っていた恋人に振られてどん底に落ちた私を救ってくれたのは、傷付いて孤独な黒猫だった。
その黒猫は、私が就活生の時に進路に悩み苦しんでいた時に助けてくれた恩人で、ずっと心の中にいた初恋の人でもあった。
そして、その黒猫の弦さんは今私の最愛の人で、もうすぐ私の旦那さまになる。
「ねぇ、弦。」
「ん、なぁに?」
「愛してるよ。」
「え?いきなりどうしたの?」
私の唐突な愛の告白に弦は瞠目して目をぱちくりさせた。
私は、繋いだ手をぎゅっと握って言う。
「ううん、なんとなく。言いたくなっただけ。」
私の言葉にふわりと顔を綻ばせて、幸せそうに弦は言う。
「そっか。俺も。名月の事愛してるよ。」
「うん。私も。」
「……早く結婚したいな。」
「うん。そうだね、結婚したいね。」
「じゃあ、明日出しにいく?婚姻届。」
こちらも唐突に言われて、吃驚したあまりピタッと足が止まる。
「え?……急だね。ていうか、記念日とか考えなくていいの?何にもない日だよ?」
「何にもない日だからかえって良くない?明日を俺たちの記念日にしようよ。いや、寧ろ今日にする?夜間窓口とか開いてるし。うん、決めた!今日行こう!」
私の返事を待たずに弦は勝手に暴走して自己完結する。
そして、勝手に納得してひとりで歩き出そうとする弦の手を引き、こちらを向かせて窘めるが、経験上こうなった弦はもう誰にも止められない。
「待って待って、とりあえず落ち着こう?」
「いや、無理。名月が可愛い事言うのが悪いよ?証人欄は本部長と瀬田にお願いして……うん、今日行けるね。あぁ、でも指輪の準備が間に合わないな……」
「ちょっ……指輪って……」
「マリッジリングだよ。週末に仮の物を買いに行こう?結婚式までにはちゃんとしたの作ればいいからね?」
「へ?2つも要らなくない?」
「だぁめ。一生着けるものだからちゃんと納得いくもの着けたいでしょ?でも、そんなの待ってる間に悪い虫が付いたら嫌だから仮の物でも着けとかないとね?」
「そういうもの?」
「うん、そういうもの。あと、見せびらかしたいってのもあるけど。あ、そうそう、言い忘れたけど、会社で旧姓使うのなしね?」
「えぇ…」
「名月は俺の物だって大々的にアピール出来るチャンスなのに、別姓じゃ意味無いでしょ?」
「ど、独占欲半端ない……」
「ん?今更でしょ?」
「ソウデスネ……」
弦の発言に思わず遠い目になる。
そんな私を見て弦は楽しそうに、そして幸せそうに笑った。
「明日から猫実 名月だね。」
「ふふふ、何だかこそばゆいね…えっと、不束者ですが、これからもよろしくお願いします。」
「うん、これからもよろしくね。俺の奥さん。」
ふたりでお互いを見つめ合い、ふっと笑い合う。
「幸せだね。」
「うん、幸せだね。」
人を信じられなかった黒猫の弦さんは、気まぐれでちょっと強引で俺様で、少々、いや、かなり嫉妬深い所もあるけど……とても優しくて愛情深い人。
たまに暴走するし、ちょっと愛情が重い時もあるけど……それはまぁ許容範囲かな。
幸せそうに破顔する弦を見て、私も幸せな気持ちでいっぱいになる。
この先、何があるかわからない。
辛い事や悲しい事もあるかもしれない。
それでもずっとふたりで一緒に幸せで居られたらいいな。
そう願いを込めて……
「弦、今までもこれからも愛してるよ。ずっと…ずっと一緒にいようね。」
「うん、俺も愛してるよ。もちろん。ずっと一緒にいよう。」
見つめあって微笑むと、お互いの繋いだ手をぎゅっと握りしめてふたりで歩き出した。
黒猫は月を愛でる[完]
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