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第二章 黒猫の恋人
第81話 具体的な話
しおりを挟む弦からプロポーズされて夢のような一日を過ごしてから、なんだかんだとバタバタと忙しくしていて、結婚の具体的な話をする時間も取れないままあっという間に2週間が経っていた。
その間に、長かった新卒社員向けの研修が終了し、研修が一通り終わった新人達は無事に当初の予定の通りに各課に配属となって、気が付くと7月、いよいよ夏本番を迎え、営業には地獄のようにキツい季節がやってきた。
研修日程が終わった事で漸く私も御役御免となり、また元の通常の営業業務に戻り、またいつもの日常がやってきた。
研修も終わってみるとあっという間だった。とはいえ、やはり1ヶ月丸々一日中缶詰になっての研修講義は本当に大変だったし、非常に気疲れしてヘトヘトになった。
そして、今回の研修だが、初めての講義にしては評判は上々だったらしく早くも営業研修の依頼が来はじめているが、慣れない仕事を続けるのって本当に精神をガッツリ削るので、もう暫くは受けるつもりはない。どこまで断り切れるか不明だが謹んでお断りさせていただきたい。
森川くんからの接触は、あれから一度だけ。もちろん、対話時は瀬田さんと弦も同席で…今までの非礼を謝られたのと、以前にお願いされた事を撤回したい、と言われた時だけだ。
それ以降、森川くんは特に上司と部下のラインを越えての接触はして来ていない。
弦曰く、
「瀬田がガッツリ釘さしてくれたからもう大丈夫だよ。」
との事だけど……
あの日ちゃんと誤解を解こうと思って、森川くんとの関係を明かし、抱いている物は肉親への情と同じだと説明したのだが……
「そんなのわかってる。けど…ごめん、やっぱり無理。名月が他の男の事を思うだけでヤキモチを妬いてしまうよ。狭量で悪いけど、こればっかりは諦めて?」
弦は難しい顔をして考え込んだ後、困った顔でそう言った。
ヤキモチは嬉しい……
だけど……
あんな事があった後なのだが、肉親のいない私にとって森川くんはかつては弟のような存在だった。こんな形での没交渉はそれはそれでちょっぴり淋しいなと感じてしまっている。
別れの時に、子供だからと聞き流すのではなくてちゃんと対応していれば、今頃はいい関係を築けていたかもしれない。
そこに恋愛感情は一切ない、昔馴染みへのちょっぴりの郷愁の思いとわずかな後悔があるだけ……
だけど、この思いは、私の胸のうちだけにそっと秘めておいた方が良さそうだ。
だって、私にとって何よりも大事なのは、弦ひとりだけだから。
思いを打ち明ければ、優しい弦の事だから、きっとヤキモチを焼きながらも私の思いを受け止めて一緒に背負ってくれると思う。
でも、そんな大事な弦に要らぬ心配と誤解をかけたくないし、かける必要もない。
きっと時間が解決してくれるだろう。
だから私は、この小さな胸の痛みと思いに蓋をする事に決めた。それが、私が目を背けて来た事への責任だから。
「…月……ねぇ、名月?」
いつも通り手を繋いで出勤する道すがら、そんなことを考えながらぼうっと歩いていると、繋いだ手をぎゅっと握られて弦に名前を呼ばれる。
ハッとして見上げると、弦が怪訝な顔をして見下ろしていた。
「どうしたの?ぼうっとしちゃって。心ここに在らずだったよ?」
「あ、あぁ、うん、ごめんね?ちょっと考え事してたの。」
「ふぅん……考え事ね、どんな事?」
「あー…うん…い、色々と……かな。」
主に仕事の事だったが、ちょっとでも森川くんの事を考えていたとは、口が裂けても言えないので、そこは濁して答える事しか出来ず……
何となく弦に対して後ろめたい思いから目が明後日の方向へ向いた。
私の様子に目敏い弦は何かを感じたのか…
先程まで上機嫌だった弦の顔からすっと表情が消えた。
「え…?教えてくれないの?なんで?ねぇ、教えてよ。」
いつもならふぅん、で放免される所だが、何故か今日はグイグイと突っ込んでくる。
……ていうか… じっと見つめる目が…
こ、怖い……
「た、大した事じゃないよ。仕事の事とか…だよ?」
にっこり笑顔を作り、ぎゅっと握られた手を握り返すと、弦はやや不服そうな顔でチラリと私を見て短く溜息を吐くと、拗ねたような口調で詰め寄ってきた。
「……本当に?仕事のことならこれ以上は追求しないけど…隠し事はなしだよ?俺たち夫婦になるんだから。愛する妻に隠し事されるとか……そんなのもう立ち直れないからね?」
「つ、つ、つつつつ妻って……」
いきなり妻とか………
不意打ちの妻呼びにかぁっと頭から湯気が出そうになる程顔が熱くなり、絶句する。そして、遅れてゆるゆると擽ったさがやってくる。
今は恋人だけど結婚したら夫婦になるのだ。
そして、その日は……たぶん近い。
でも、いきなりの妻呼びは……うぅ…恥ずかし過ぎる…
弦は妻呼びにアワアワしている私を眺めながら楽しそうにくつくつと笑い、更なる追い討ちをかけてきた。
「妻でしょ?嫁?それとも奥さんがいいかな?ねぇ、名月はなんて呼んで欲しい?」
「妻……嫁……お、お、奥さん……」
弦は全開ににこにこしながら、羞恥で真っ赤になってぷるぷる震える私の頭をぽんぽんと撫でる。
「あ、そんな事より……名月、今日の夜だからね?大丈夫?」
弦は私の頭を撫でながら、今日の予定の最終確認をする。
そう、今日は大事な日なのだ。
「あ、うん。本部長への報告だよね?19時からで良かったよね?」
いつの間にアポを取っていたのか…朝起きてヘアメイクしてもらっている最中に予定を聞かされて吃驚した。
事前に相談もなく、何でこのタイミングかと訊ねたところ、余計な雑念にとらわれないで研修講師の任務をちゃんと全うさせてやりたかったから、という如何にも優しい弦らしい理由で、朝から胸が熱くなった。
そして、今日本部長に報告に行くという事は、今月もしくは来月には全体MTGで発表になるという事で、いよいよ結婚に向けて本格的に動き始めるという事だ。
「それでさ、本部長に報告ついでに婚姻届の証人欄への署名と来るべき結婚式の仲人をお願いしようと思うんだけど…いいかな?」
「証人…仲人……あ、そ、そうだよね。」
具体的な話が出て来きて現実味を帯びてくると、どうしたって胸が高鳴ってしまう。
「名月は、仕事続けたい…よね?」
「うん…出来れば……ダメ?」
「ううん、名月が続けたければいいよ。だけど、無理して名月が働かなくても俺の稼ぎだけで十分暮らしていけるからね。」
そういえば……一緒に暮らし始めてから生活費は全部弦が払っていた。
家賃等もあるから、一度お金を入れるという話をした時にはぐらかされたんだった。
それどころか、家具家電や私の衣服まで、私にお金を払わせた事は一度もない。
私も貯金はそこそこある。結婚式費用だって折半しても問題ない。
それに、結婚するからこそ、お金関係はきちんと話し合っておかなければならない。
そう思い、意を決して弦に訊ねた。
「そうなんだね……そういえば、一度も生活費受け取ってくれないけど、家賃とかそういうのってどうしてるの?」
「あれ?言ってなかったっけ?あの部屋は俺の自己所有だよ。ローンもないから家賃はかかってないよ。」
な、な、な、なんですと!?
ていうか最上階…億ションよね?!?
相当高い家賃払っているんだろうなぁとは思っていたが、まさか自己所有とは…初めて聞いて目玉が飛び出した。
「え……?あそこ最上階だよね……お、お、億…ローンじゃない……」
引き攣り笑いをして固まる私をちらりとみると、弦は可笑しそうに喉を鳴らしてくつくつと笑った。
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