【R18】黒猫は月を愛でる

夢乃 空大

文字の大きさ
上 下
82 / 106
第二章 黒猫の恋人

第76話 溢れる想い

しおりを挟む
 
 先程まで、ザワザワと騒がしかった会場が急に静かになった。

 入口の方から名月、と私を呼ぶ弦の声が聞こえた気がして、そちらに視線を遣ると、眉を顰めて切羽詰まった様な余裕のない表情をした弦の姿があった。


「……げ…ん……」


 眉間に皺を寄せて切なそうな表情をする弦の姿を見て、胸の奥がぎゅっと締め付けられる様に傷み、私は無意識に弦の名前を呟いた。

 緊張と不安で心臓がドキドキと脈打つ。

 なんでそんな表情してるの?
 どうしてこっちに来てくれないの?

 不安だけがどんどん募り、その場に立ち尽くす私に、弦がゆっくりと硬い表情を崩し、やがて優しい眼差しで微笑んだ。
 そして、私の大好きなバリトンボイスでもう一度私の名前を呼ぶ。


「名月。」


 弦の甘さを含んだ私を呼ぶ声を聞いた途端、お腹の奥底から感情がぶわっと溢れ出て、同時に涙がとめどなく零れ落ちた。

 もっと弦に名前を呼んで欲しい。
 弦に触れたい。こっちにきて抱き締めて欲しい。

 心も身体も、私の全てが弦を求めていた。

 私も弦を呼びたい、そう思い口を開くが、極度の緊張で喉が詰まって、声が出なかった。
 それでも、私はありったけの想いを込めて絞り出す様に弦を呼んだ。


「げ……弦……弦……げんぅっ……」

「うん、名月……おいで?」


 私が呼ぶと弦はとても嬉しそうに破顔し、両手を広げて愛おしそうにもう一度私を呼んだ。

 まるで映画のワンシーンのようなシチュエーションに周囲は注目しどよめくが、私はもはやそんな事気にならなかった。

 弦の声に弾かれたように、私は自然と駆け出していた。
 勢いよく弦の腕の中に飛び込むと、弦は私を力強く抱締め、耳元で切なく呟く。


「あぁ、名月……俺の名月。淋しかったよね……ひとりにしてごめんね。」


 広い背中に腕をまわして弦の身体をぎゅうっと抱き締めると、コロンと弦の匂いがふわりと香り、ここは紛れもなく弦の腕の中なのだと確信する。
 無意識に安堵したのか、張り詰めていた緊張の糸が切れたように、目から涙が零れ落ちた。
 一度涙か落ちると、後から後から溢れてきて止められない。
 弦の胸に抱かれて安心した私は、広い胸に顔を埋めて子供のようにわんわんと泣きじゃくった。
 弦はそんな私を優しく抱き締めなおすと、あやす様に何度も背中をさすってくれた。


「大丈夫だよ。俺はここにいるよ。どこにも行かないから。」


 弦の優しくも切ない口調と甘い声に、抑え込んでいた感情が濁流のように押し寄せ、一気に堰を切ったように溢れ出す。


「げ……げんっ…弦、弦……ごめんなさい……わた、し…軽率で……本当にごめんなさい……嫌いにならな…いでぇ……お願い……」


 弦は泣きじゃくる私を、力いっぱいぎゅうっと抱き締めると、一度身体を離し、両手で私の顔を大切そうに包み込んだ。


「うんうん……嫌いになんてならないよ。大丈夫だから。ね?名月愛してるよ。ちゃんと戻ってきてくれてありがとう。」


 私を見つめる弦の瞳には、私への深い愛情の色しか浮かんでいなかった。
 こんなに愛してくれている弦を私は……そう思うと自己嫌悪し、また涙が溢れた。


「もう泣かないで?ほら、折角綺麗にしてたのに、涙でメイクが落ちちゃうよ。」


 弦は眉を寄せて少し困った様な顔をすると、私の心を落ち着かせるように、ゆっくり優しく言いながら唇に触れるだけのキスを落として、頬に触れる手で私の涙を拭った。

 私の心の移ろいや優柔不断さを全部受け入れて、そして許してくれるとそう言った弦の言葉とその切ない表情に、胸がぎゅっと押し潰されそうになる。


 好き、大好き
 嫌いにならないで欲しい
 離れたくない
 一緒にいたい


 内側から溢れ出る想いはとどまるところを知らず、嗚咽のように口からも溢れて零れた。


「うぅぅぅ……弦……わたっしも……愛してる……大好き…離れちゃ嫌……もっとぎゅっとして……」



 まるで子供のようだと笑われるかもしれないが、弦の逞しい胸に縋って抱き締めてもらって安心したかった。ぐりぐりと弦の胸に額を擦り付けて抱擁を強請ると、弦は私をふわりと横抱きに抱き上げた。


「うん、名月、わかったよ。不安にさせてごめんね。不安がなくなるまで抱き合おう?愛してるよ。何があっても離さないから。」


 そう言って弦は私の額にキスを落とすと、愛おしむような眼差しを向け、涙で濡れた私の瞳を見つめて、囁いた。


「実は、上に部屋とってあるんだ。このまま連れて行ってもいい?」


 私が小さくコクンと頷くと、弦は優しく微笑み、私を抱き上げたまま壮行会会場を後にし、ロビーを抜けエレベーターホールをスタスタと素通りする。


「弦?どこに行くの?」


 上に部屋をとっていると言っていたのに、どんどん人気のない方へ歩を進めて行く弦に不安になって訊ねるも、弦はにっこりと笑むだけで答えてはくれなかった。

 やがて、明らかにVIP専用と分かる外観の自動ドアの前に着くと、弦はカードキーを翳して解錠し入室する。
 部屋の中をぐるりと見回すと豪華な作りの広々としたエレベーターホールで、奥にあるエレベーターもカードキーで解錠する仕様になっていた。


「こ…ここは?」

「今日泊まる部屋への専用エレベーターだよ。」


 そういうと弦は艶っぽく笑み、手慣れた様子でカードキーを翳して解錠すると、私を抱いたままエレベーターに乗り込んだ。

しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

秘事

詩織
恋愛
妻が何か隠し事をしている感じがし、調べるようになった。 そしてその結果は...

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

淫らな蜜に狂わされ

歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。 全体的に性的表現・性行為あり。 他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。 全3話完結済みです。

鬼上官と、深夜のオフィス

99
恋愛
「このままでは女としての潤いがないまま、生涯を終えてしまうのではないか。」 間もなく30歳となる私は、そんな焦燥感に駆られて婚活アプリを使ってデートの約束を取り付けた。 けれどある日の残業中、アプリを操作しているところを会社の同僚の「鬼上官」こと佐久間君に見られてしまい……? 「婚活アプリで相手を探すくらいだったら、俺を相手にすりゃいい話じゃないですか。」 鬼上官な同僚に翻弄される、深夜のオフィスでの出来事。 ※性的な事柄をモチーフとしていますが その描写は薄いです。

ドSな彼からの溺愛は蜜の味

鳴宮鶉子
恋愛
ドSな彼からの溺愛は蜜の味

婚約者が巨乳好きだと知ったので、お義兄様に胸を大きくしてもらいます。

恋愛
可憐な見た目とは裏腹に、突っ走りがちな令嬢のパトリシア。婚約者のフィリップが、巨乳じゃないと女として見れない、と話しているのを聞いてしまう。 パトリシアは、小さい頃に両親を亡くし、母の弟である伯爵家で、本当の娘の様に育てられた。お世話になった家族の為にも、幸せな結婚生活を送らねばならないと、兄の様に慕っているアレックスに、あるお願いをしに行く。

身体の繋がりしかない関係

詩織
恋愛
会社の飲み会の帰り、たまたま同じ帰りが方向だった3つ年下の後輩。 その後勢いで身体の関係になった。

一夜の過ちで懐妊したら、溺愛が始まりました。

青花美来
恋愛
あの日、バーで出会ったのは勤務先の会社の副社長だった。 その肩書きに恐れをなして逃げた朝。 もう関わらない。そう決めたのに。 それから一ヶ月後。 「鮎原さん、ですよね?」 「……鮎原さん。お腹の赤ちゃん、産んでくれませんか」 「僕と、結婚してくれませんか」 あの一夜から、溺愛が始まりました。

処理中です...