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第二章 黒猫の恋人
第73話 不安
しおりを挟む客室を退室すると、どっと疲れが出て、俺は壁に寄りかかり大きく溜息を吐く。
これで終わった…のか?
こんなにあっさり?
本当に?
正直、森川との話し合いがあまりにも簡単に決着してしまってかなり拍子抜けしている。
とはいえ、森川の横恋慕……まぁ、森川からしたら俺が横恋慕して名月を攫ったと理解しているのかもしれないが……による社内トラブルは回避できたので、個人的な不安はとりあえず横に置いておく事にすれば、会社的には一件落着なのだろう。
しかし、俺の経験上、このまま終わるとはどうしても思えず、もう一波乱あるのではないか、と言う漠然とした不安は拭えない。
何故?何故そんなに不安になる?
そんなの決まっている。
恋人がいるからと、俺は諦めたか?いや、諦めなかった。
虎視眈々とチャンスを狙っていたし、何かあれば恋人から奪うつもりでいた。
その結果、名月は俺の女になった。
今回の森川の様に行動には起こさなかったが、俺自身も恋人のいる名月に6年間も横恋慕していた経験があったし、俺自身がそうだったから不安になるのだ。
もしも……もしもだ。
俺が名月を酷く傷付けて、名月が俺から離れようとした時、森川はその絶好の機会を逃すだろうか。
今は表立っては行動して来なくとも、裏では俺同様にじっと機会を狙い、チャンスがあればこれ幸いと、何かしらのアクションは起こすのではないだろうか、と邪推してしまう。
本人が諦める努力をすると言っているのだから、終わったのだろうが……
行動に起こす勇気も無かったヘタレな俺ですら、そう簡単に諦めなかったのに、行動派な森川が10年以上に及ぶ初恋をこんなにもあっさり手放すとはどうしても思えなかった。
もちろん、それら全てが杞憂で済めばいいのだが……
ぐるぐると考えは纏まらず、結局、今考えても仕方がないと結論付け、不安は頭の片隅に追いやるように頭を振り、俺はエレベーターホールに向かった。
◇◇◇
すぐに戻ってくるつもりだったのに、思ったよりも話し合いに時間がかかってしまっていたようで、壮行会場に戻ると、既に役職紹介は終わっており、最後の新卒社員代表が挨拶をしているところだった。代表挨拶が終われば、実質の壮行会の閉会だ。
かなり長い時間名月をひとりにしてしまった事を、俺は今激しく後悔している。
一緒に連れて行くか、別部屋に待機させることも出来たのに、あんな状態でひとり残してしまったことが心の底から悔やまれる。さぞかし心細かっただろう……
淋しくなかっただろうか。
他の男に絡まれなかっただろうか。
心配と焦りと不安と色々な感情が入り交じって、心がザワついた。
俺は入口付近からぐるりと会場を見渡して名月を探したが、当然、営業部なので男ばかりで、小柄な名月は埋もれてしまって見つからない。
手元のスマホで名月に電話をかけるがコールのみ。
それならばと、一緒にいるはずの山田さんを探して見るも、焦って気が急いているのかなかなか見つからない。
どうしたものか……
あれこれ悩んでいるうちに代表の挨拶が終わり、各自自由解散となると、23時までは会場は解放されているので、他で飲み直すために退室する者や帰路に着く者、会場に残りグループで談笑する者など、各々がパーティを楽しみ始める。
人が随分と捌けたことにより、会場全体が見渡せる様になると、パーティの輪を外れた壁沿いに山田さんの姿を見つけ、漸くその側にいる名月が確認出来た。
新卒社員と笑顔で談笑しているように見えたが、俺には今にも泣きだしそうなのを堪えて、必死に笑顔を作っている様にしか見えなかった。
やがて新卒社員が名月に握手を求め、手を伸ばしたその時、気が付くと俺は大きな声で名月を呼んでいた。
「名月!」
俺の大きな声に、周りのざわめきが止まる。
名月がゆっくりと振り向き、そして、俺の顔を見ると一瞬大きく目を見開いた。
俺は不安そうに立ち尽くす名月に努めて優しく笑いかけた。
すると、名月は張り詰めていたものが切れたかの様に、くしゃくしゃと顔を歪めて、俺の名前を呼びながら大きな瞳から大粒の涙をポロポロと零した。
「げ……弦……弦……げんぅっ……」
「うん、名月……おいで?」
俺は両手を広げてもう一度名月を呼んだ。
名月は弾かれたように駆け出し、勢いよく俺の腕の中に飛び込んでくる。
俺は名月を抱き止めると、その柔らかな身体をぎゅうっと抱き締めた。
「あぁ、名月……俺の名月。淋しかったよね……ひとりにしてごめんね。」
名月は俺の胸に顔を埋めてわんわんと泣きじゃくった。
名月の頭に顔を埋めると、名月の香りと俺のコロンの混じった匂いが鼻腔に充満して、漸く名月が腕の中にいる実感と安心感がで胸がいっぱいになった。
名月は俺の腕の中にすっぽりと収まると、涙を流しながら一生懸命に言葉を紡いだ。
「げ……げんっ…弦、弦……ごめんなさい……わた、し…軽率で……本当にごめんなさい……嫌いにならな…いでぇ……お願い……」
余程、緊張していたのだろう。俺の腕に抱かれ、緊張が解けたのか、我慢していた涙が堰を切ったように溢れて止まらず、密着した名月の心臓がどくどくと脈打つのが聞こえる。
俺の腕の中で、嫌わないで、と泣く名月が愛おしい。
俺は名月をもう一度ぎゅうっと抱き締めると、一度身体を離し、両手で名月の顔を包み上を向かせた。名月の涙で濡れた瞳を愛おしむ様に覗き込むと頬をするりと撫で、安心させるようにゆっくり優しく伝える。
「うんうん……嫌いになんてならないよ。大丈夫だから。ね?名月愛してるよ。ちゃんと戻ってきてくれてありがとう。」
そう言って、唇に触れるだけのキスを落とすと、再び名月の目から大粒の涙がポロポロと零れ落ちた。
「もう泣かないで?ほら、折角綺麗にしてたのに、涙でメイクが落ちちゃうよ。」
「うぅぅぅ……弦……わたっしも……愛してる……大好き…離れちゃ嫌……もっとぎゅっとして……」
余程不安なのだろう。名月は俺の胸にグリグリと額を擦り付けて抱き締めて欲しいとせがんだ。
先程瀬田の前で、何があっても別れないと告げたのだから、俺が名月を嫌う筈などないのに…… いや、不安にしたのは俺だな。
周囲の視線を気にする様子もなく、子供のように泣いて甘える名月に愛おしさと申し訳無さが溢れた。
俺は名月を横抱きに抱き上げると、名月の額にキスをして、濡れた名月の瞳を見つめる。
「うん、名月、わかったよ。不安にさせてごめんね。不安がなくなるまで抱き合おう?愛してるよ。何があっても離さないから。」
不安そうな目をしている名月に、優しく安心させるように言うと、名月は小さくコクンと頷いた。
俺も周囲の視線など、もはや気にならなかった。
それよりも、名月を安心させることが最重要事項だ。
俺は名月を抱き上げたまま、壮行会会場を後にした。
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