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第二章 黒猫の恋人
第72話 初恋の行方
しおりを挟むシガールームを出た俺と瀬田はロビーを抜けて、エレベーターホールへ向かって歩を進めた。
移動する間に、俺は少しずつだが冷静さを取り戻していく。
そして、冷静になれば心に余裕もでてくるので、頭の中を整理する事が出来るようになった。
瀬田も言っていたが、確かに暴力沙汰は現実的ではないし、ここで父親の権力使うのも違う……
ていうか、父親の権力ってなんだよ。
いい歳して父親に頼るとか……
いよいよ俺は頭がおかしくなったのか?と自問自答する。
でも、こんな時に父親が思い浮かんだのには理由があった。
随分前に父と会食をした時に、政界に入って欲しい、入ってくれるなら変わりにどんなことでもしてやると言われた事を、急に思い出したのだ。
あの感じだと、人殺し以外なら何でもしそうだ。
父親が俺を政界に引きずり込みたいのはわかっているから、見返りに俺が政界に入るといえば、自分の手の者を使ってどこかから会社に圧力掛けて、森川だけでなく、それこそ下手したら蟻の子一匹すら名月に近付けさせないくらいのことは造作ないくやってのけるだろう。
そんな父親の権力など、こんな事になるまで頭に浮かぶ事もなかった。もちろん、今まで使った事もないし、これからも使うつもりもない。
権力なんてクソ喰らえだ。出来れば一生関わらずに生きていきたいと思っていた筈なのに。
そもそもこの程度の事、父親に頼らずとも、名月に気持ちがない限り、森川を名月に近付けさせなければ何も問題は起こりようがない。
そう、どんな手を使っても近付けさせなければいいのだ。
いくら頭に血が上っていたからとはいえ、普段毛嫌いしている父親が頭に浮かぶとは…
森川という存在に、無自覚のうちにそこまで追い詰められていたということに吃驚した。
追い詰められていたとはいえ、思考が正常に働かず、使えるものは例え仇でも使おうとあらぬ方向に傾いてしまっていた自分の浅ましさには、もう呆れるしかない。
だけど……
そうまでしても俺は名月を誰にも渡したくないのだ。
本当は誰の目にも触れさせたくなんてないし、名月の目にも俺以外の男なんて映して欲しくない。
部屋に閉じ込めてドロッドロに甘やかして、俺なしでは何も出来なくしてしまいたい。
改めて自分の独占欲の強さを自覚して嘲笑した。
「猫実……?」
突然声に出して笑った俺を不思議そうに見る瀬田を横目に、俺はさっさとエレベーターに乗り込む。
目的の5階に着いた頃にはすっかり頭も冷えて、いつも通りの作り笑顔を浮かべることも出来るようになっていた。
チンとベルがなり、エレベーターの扉が開き、俺たちは5階フロアに降り立った。
山田さんの指定した【5216】は今回会社で借り上げた休憩室のうちの一室だ。
エレベーターホールを出て右手を進んで行き、【5216】と書かれた扉をノックすると、山田さんが扉を開け、俺たちを迎え入れた。
クローゼットと洗面スペースのある短い廊下を通り、ベッドルームへ入ると、シングルベッドが3台とベッドとしても使える大きなソファが目に入る。窓側にはルームサービス等の食事が取れるテーブルとチェアが2脚ある。
森川は3台あるベッドのうち1番窓に近い方のベッドに、入口に背を向けるように項垂れるように腰掛けていた。
森川は、俺たちが入室した事に気が付いているはずなのに、心ここに在らずで微動だにすることはなかった。
山田さんはドアを閉めると俺の側までやって来て、ポンと肩に手を置いた。
「……お前と仲原のことは、ある程度は話をしておいた。マネージャー3人に囲まれるのも辛いだろうから俺は退室するが……」
山田さんはそう言うと、ちらりと背後の瀬田に視線を遣る。
「瀬田はこのまま猫実と一緒に残れ。流石にふたりっきりはまずいからな。」
瀬田は山田さんの言葉に、黙って頷くと俺と森川の中間位距離の壁に腕を組んで寄りかかり、俺も山田さんの言葉に頷いた。
「わかりました。…山田さん、すみませんが、この後名月を頼みます。」
「あぁ、わかってるよ。あいつは大事な俺の部下だからな。顛末の報告だけはしろよ。言っておくが、森川も俺の部下だ。ちゃんと対応しろよ。」
山田さんは、そう言うと、頑張れよ、というように俺の肩をポンポンと二度叩き、瀬田にも目配せをする
そして、徐にふぅと息を吐いた後、パタンと扉を閉めて山田さんが退室するのを俺は視線で見送った。
客室に暫しの静寂が訪れる。
俺は瀬田に視線を送ると、瀬田は無言で頷いた。
それを合図に、俺がベッドルームに歩を進めると森川はこちらに背を向けたままポツリと呟いた。
「……なんですか。俺の事、嘲笑いにでも来たんですか。」
その声に感情はなく、寧ろ自らを嘲笑している口調だった。
その、まるで恋人を奪われた悲劇のヒーローになったかの様な態度に腹が立ってきた。
どう考えても、相愛の恋人の間に割って入ってきて邪魔したのは森川だ。
俺はイライラした口調で森川の質問に回答した。
「何のために?お前を嘲笑ったところで、俺には何のメリットもないけど?」
森川はこちらの話をスルーして、ポツポツと自分の話をしだした。
「なっちゃんは俺の初恋なんです。幼い頃からなっちゃんだけを見続けて、誰も知り合いのいない異国の地で、なっちゃんとの約束だけが心の支えだったんです。
……だから、返してくださいよ。俺になっちゃんを返してください。あなたくらいのスペックなら引く手数多でしょ?別になっちゃんじゃなくてもいいじゃないか。」
そこまでいうと、森川はいきなり立ち上がりくるりと振り向いた。
ヤバい殴られる、そう思ったが、俺はどこか傍観者のような気分でその様子を眺めていた。
同じく瀬田もヤバいと思ったのだろう。咄嗟に飛び出した時には遅かった。
気が付くと森川は俺につかみ掛かりベッド倒すと、俺に馬乗りになっていた。
瀬田は俺から森川を引き剥がそうと羽交い締めにするが、森川は俺の胸ぐらを掴んで離さない。
その様子をオレは無抵抗で下から見上げていた。
「俺はなっちゃんじゃなきゃダメなんだよ……」
俺の胸ぐらを掴みガクガクと揺さぶりながら、辛そうに顔をくしゃくしゃに歪めて、涙をボロボロと零しながら森川は言った。
俺は、森川の手をひとつ掴むと、森川を見据えた。
「……悪いけど、俺も名月じゃなきゃダメなんだ。名月以外は要らないし、名月は俺の女だから、お前にはやれない。」
その言葉を聞いた森川は絶望的な表情をした。
握る手から力が抜ける。
その隙に瀬田が俺から森川を引き剥がし、ベッドから引き摺り降ろした。
森川は床にへたり込むと、着衣の乱れを直している俺を見上げて懇願した。
「なぁ、返してくれよ……頼むから……」
「それは出来ない……」
「何でだよ……俺の方がなっちゃんの事を想ってる……頼むよ。」
力なく何度も懇願する森川の近くに行き、手を引き立たせると、俺は首を横に振ると森川にきっぱりと伝える。
「無理だ……他人に興味も持てず人生を諦めていた俺が、名月と出会って、初めて他人に興味を持つことが出来るようになって、人間になれたんだ。俺から名月を取り上げないでくれ。
名月と一緒になってからモノクロだった俺の世界に初めて色が着いた。もう名月のいない毎日なんて考えられない。俺はもう名月無しでは夜も明けないんだ。
俺も名月だけなんだ。お前の気持ちは痛い程わかるが、これだけは絶対に譲る事はできないし、譲らない。」
俺の言葉に、森川は泣き崩れた。
「俺だって……」
子供の様に泣きじゃくる森川を瀬田がソファに座らせて、冷蔵庫の備え付けのミネラルウォーターを手渡した。
「森川くん、猫実もね、初恋だったんだ。それに、6年も片想いしてた。それがようやく実って今がある。君と同じなんだよ。君の気持ちもよくわかるよ。長い間抱いてきた想いを諦めるのは辛いだろうが、自分の想いだけをぶつけて相手の事を考えられないのは、どうなのかな?……子供じゃないんだから、理解できるよね?」
「……」
森川は手渡された水を一口飲むと、辛そうな顔をして弱々しく頷いた。
俺はソファの向かい側のベッドに腰掛け、森川に視線を向けると、森川も顔を上げて俺に視線を合わせた。
「俺は……なっちゃんを諦めるしかないんですね……こんなに好きなのに……なっちゃんだけを想い続けて来たのに……」
森川は絞り出すように言うと、両手で顔を覆い、深い深い溜息を吐いた。
「……猫実さん、すみませんでした。すぐには無理だけど、少しずつなっちゃん…仲原さんのことを諦められるように、努力します。仲原さんにも……そう伝えてください。」
「あぁ……わかった。つたえるよ。」
「……ありがとうございます……」
そういうと、森川はグイッとミネラルウォーターを一気に煽った。
話が終わったので俺が徐に立ち上がると、瀬田は俺をちらりと見て頷いた。
「猫実、あとは俺が引き受けるから。お前は会場に戻れ。後で連絡する。」
「あぁ、瀬田頼む。」
俺はそう言い残すと、部屋を後にした。
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