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第二章 黒猫の恋人

第65話 研修初日

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 今日は新人研修初日。

 俺は課のトップなので、研修もOJTも担当なく、特別変わった事はないが、役職者達がOJTで忙しいので、その間は外回り等もお鉢が回ってきたりして、この1ヶ月間はいつもよりも忙しくなりそうだ。

 第三営業部は第一営業部のような1ヶ月に及ぶ全体研修はなく、最初の3日程テレアポと飛び込みのロールプレイングをした後、4日目以降は午前中にテレアポ、午後からOJTで飛び込みローラー作戦の実践を行いながら研修をする。
 新規開拓の部署なので、当然ちゃ当然なのだが……
 ひたすらテレアポと飛び込みを1ヶ月間繰り返し行う、言わば耐久訓練の様相だ。

 テレアポはコツを掴むまではガチャ切りの嵐だし、飛び込みだって担当者に繋いで貰う前に受付アウトだったり…
 第一営業部にいた頃は、電話すれば必ず丁寧に「お世話になっております」といわれ、担当者にも繋がり、訪問すれば応接に通してもらえてお茶やお菓子が出てくるのが当たり前だったので、このギャップに最初は面食らったものだ。

 毎年そうだが、このキツさに耐えきれず、大体2週間前後で半分近くが音を上げて退職か移動を申し出ていく。
 俺も第一営業部から移ってきた時に1ヶ月間みっちりやったが、確かにこれは結構キツい。当時営業6年目の俺でも精神的にやられた。
 俺ですらキツいと思ったのだから、つい最近まで学生だった新卒社員達には余計に辛いのだろう。

 ただ、退職の意向を伝えられた時に、辛いからと言ってすぐに諦めて辞めてしまうのは些かも勿体無いと、いつも思う。

 辛い就活を勝ち抜いて入社してきたのだから、苦労をして入社した会社を、簡単に辞めようと決めたわけではないはずだし、きっと悩んで悩んで苦悩して葛藤も沢山したと思う。

 完全に第一営業部の色が着いてしまっていた俺とは違い、新卒社員はまだまっさらなキャンバスだ。
 これから如何様にも染めていけるし、経験を積んだり頑張る事で将来の可能性も広がってくるはずなのだ。

 出来れば踏みとどまって、もう一度頑張って欲しい所だが……
 それでも脱落していく奴がいるのは、この競争社会の中ではある程度仕方のないことなのだろう。
 だから、俺はそういう奴らを責めるのではなく、エールと共に送り出してやると決めている。


 絶対に今の経験は無駄ではない、きっとこれからの君の財産になるよ、と。


 他人に興味のない俺が、そう思えるようになったのは偏に就活生の名月と出会ったおかげだった。

 俺は就活で苦労した事がなかったので、当然、他の新卒達が苦労している等と考えたこともなかった。
 だから、毎年入ってはすぐに辞める新卒共を『社会を舐め腐った学生の延長のなんちゃって社員』というレッテルを貼って見ていた節があったが、彼女と出会い、その苦労と挫折を目の当たりにしたおかげで、彼らにも彼らなりの苦労があるということを理解することが出来るようになった。

 以前の俺では到底有り得ない事だが。

 そして、今では新卒達を以前のレッテルを外して見る事が出来ている。
 未来に夢や希望を抱き、目をキラキラさせた新卒社員達を見ながら、心の中で思う。


 君たちの未来に多幸あれ、と。


 俺は、名月と出会った事によって、人間らしさを少しずつ取り戻しているのかもしれない。
 そう考えると、名月の存在は偉大だなと改めて感じた。


 そんな名月だが、そろそろ研修初日の講義が始まる頃だ。
 ここの所はりきって一生懸命資料を作っていたから、上手く事が進めばいいのだが…あの小心者の名月の事だ。きっと今頃、極度の緊張にぷるぷる震えているのではないだろうかと容易に想像が出来て、思わず忍び笑いをしてしまう。

 とりあえず景気づけにメッセージでも、とメッセージアプリを開いたものの、気の利いた言葉が出てこない。

 さてどうしたものか……と頭を悩ませていると、横から新卒社員達の話が耳に入ってきた。


「そろそろ始まりそうだな。うわー、緊張する……」

「俺、大学生の時バイトでテレアポやってたから、何となくは感じわかるけど、やっぱり初めては緊張するな。」

「え?!マジ?ねーねーメッセージアプリのID交換しようぜ。同期だし、なんかあったら相談したいし!」

「いいよ。はい、コレ俺のID。」

「サンキュ!じゃー俺からスタンプ送っておくわ。」

「きたきた。ぶっ、何だこのスタンプ?はははは」

「るせー。可愛いだろ?ポップアップするんだよ、このスタンプ。」

「いやいや、ポップアップのことじゃないよ。このスタンプのチョイスが……お前の見た目と……ぶははは!!!もーだめ、腹痛てぇし!」


 なるほど、そうか!スタンプ………その手があったな。

 若者の感性に流石だなとひとしきり関心した後、俺はすぐにメッセージアプリのスタンプショップでめぼしいスタンプを検索する。
 やっぱり俺といえば黒猫だから、黒猫がプラカードを持っているポップアップスタンプを購入した。

 うん、可愛いな。

 これなら気負わず気軽に送れるし、受け取る相手も恐縮しないで済むだろう。

 早速、『頑張れ!』のプラカードを振っているスタンプをポチっと送信すると、秒で既読になったので、続けて『I Love you!』 と黒猫が叫んでいるスタンプを送った。
 これも秒で既読になり、すぐに名月からも『頑張る!』と『大好き』のスタンプが送られてきて、思わず頬が緩んだ。

 ケータイなんてただの連絡手段だと思っていたが、何気ないやり取りもなかなか心地よくていいものだなと初めておもった。

 さて、俺も頑張りますか。

  気合いを入れると、溜まりに溜まったメールの読み込みから業務を始めた。



 ◇◇◇



 時間は午前11時少し前。

 先程までオフィス中に響いていたテレアポのトークスクリプトを読む声が止んだので、にらめっこしていたデスクトップから視線を上げると、研修担当の楠木と松本が新人たちにテレアポのロールプレイングを披露していた。

 架電者役が松本、受電者役が楠木だ。

 まずはオーソドックスに穏やかに挨拶からと始まったはずなのだが、楠木の鬼畜仕様が炸裂して、初っ端からガチャ切りパターンの披露となった。


「楠木サブマネぇ……それじゃお手本にならないですよぉ!」

「そうか?実際の架電の大半はこんな感じだろ?」

「それでも!そんなマイナスイメージを鮮烈に印象付けたらみんな嫌になって辞めちゃいますよぉ~!それは困るのでちゃんとやってくださーい!」

「辞めねぇよ。大体、お前みたいなのが残ってるくらいだから、大丈夫だろ。なぁ?お前らもそう思わないか?」


 八の字に眉尻を下げて楠木を非難する松本を飄々と躱す楠木…まるで漫才のようなやり取りに新卒社員達は爆笑の嵐だ。

 うん、出だしも掴みも好調だな。
 今年はあのふたりに任せてよかったと手応えを感じた。

 次も同じ役どころで、今度は担当者まで繋いで貰えたパターンを演じた。

 担当者まではスムーズに繋がったのだが、これまた楠木が、アポイントに取り付けようとする松本を、あの手この手で潰してどうしてもアポイントまで辿り着かせないように妨害しまくり、かれこれ10分は「結構です。」のやり取りをしている。

 現役の営業だけあってなかなか上手いなぁとふたりのやり取りを見ていたが、流石にそろそろ潮時だなと感じて、勝手ながら俺が割って入りロールプレイングを中断させた。


「はい、ふたりともそこまで。松本よく頑張った。でも楠木は流石にやりすぎかな?実際はここまで話が長くなる前に結果がでるから安心して。みんなも今日の松本みたいに頑張って食らいついて行って。じゃあ、次の指示は楠木に仰いでね。」


 そういうと俺は席に戻りスマホのメッセージアプリを開く。
 流石に研修中にメッセージなど来ているはずもなく、名月からさっき送られてきたスタンプが最後だ。
 時刻を確認すると、11時を少し過ぎた所。あと1時間で程で昼休みなので、初日の話も聞きたいし、労ってあげたい気持ちもあり、屋上で一緒に弁当を食べない?、とメッセージを送った。昼休みに入ったら返信をくれるだろう。


 名月と暮らし始めてから、外出がある時以外はほぼ毎日名月の愛情弁当だ。
 今日の弁当は、ご飯にポークケチャップを乗せ、おかずは甘い卵焼き、常備菜のピーマンのナムルと自家製ピクルスで、このポークケチャップだが、なんのことはなく、豚肉と玉ねぎをケチャップと少々の調味料で炒めただけのものなのだが、初めて食べた時に衝撃が走った程美味しかった。

 美味しさの秘訣は耳掻きいっぱいのカレー粉だそうだ。

 子供の頃に出されたら、間違いなく好物になっただろう。是非子供の頃に出会いたかったなぁ。


 正直、名月はかなり料理が上手い。幼い頃から家庭料理を食べた事がなかった俺にとっては、この名月の手料理こそが家庭料理で俺の家の味になった。
 そして、俺は名月の作るご飯が高級フレンチのコース料理なんかよりも、よっぽど美味しいと思っていて、そんな俺の為に、名月は自分の分が要らない時も俺の分は必ず作ってくれる。
 もう、俺は名月のご飯しか食べたくない、と本気で思い始めているのだが、それはそれで名月の負担になるだろうから言わないで置こうと思っている。

 それくらい、名月のご飯は美味いのだ。

 そんな訳で、今日のお弁当もとても楽しみなのだが、まだ12時少し前で時間もあるので、近くのカフェでアイスコーヒーでも買ってこようと思い、弁当の入った鞄を持ってオフィスを後にした。

 昼休みが待ち遠しいな。

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