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第二章 黒猫の恋人
第64話 節度ある対応
しおりを挟むいつやって来たのか、広い会場の中でどうしてこの場所が分かったのか全く見当もつかないけれど、とにかく絶妙なタイミングで弦の登場である。
「げ……弦………」
目の前の弦をちらりと見上げると、作られたような綺麗なアルカイックスマイルを浮かべている。
直視出来ず、気まずさから視線が泳いでしまう。
「瀬田から電話貰って慌ててきてみれば……何?どういうこと?体調不良の幼馴染を介抱したいって?ホテルの部屋で?ふたりっきりで?」
弦は笑顔を崩す事なく優しい口調で…だけど、確実に怒気を含んだ声で私に問いかける。
パニックで混乱した頭の中はパニパニ大騒動状態だ。
若干混乱している頭をたたき起こして、記憶を辿ってみると、確かに瀬田さんがさっきスマホで電話をかけていた事を思い出した。
え?瀬田さんから電話?
あ、あぁ……さっきの電話…弦にかけてたんだ……
慌てて来るってどんな話したんだ?
「そういう時はさ、まず俺に言わない?俺もマネージャーなんだけど。」
思わず遠い目をしてトリップしている私の顔を、弦はにっこりと笑みながら覗き込み、表情と言葉で、反論は許さないよ、と訴える。
あ、はい、仰る通りです……
正論過ぎて返す言葉もなく、私はただただ俯くしかなかった。
たまたま近くに山田さんがいたから声かけたって言うのもあるが、急病なら、別に部署のマネージャーじゃなくても弦に連絡すればよかったじゃないか、と今更ながら思う。
しまったな、と自分のとった行動に後悔するが、既に後の祭りである。
「それで。さっきの返事聞いてないけど。ホテルの部屋で体調不良の幼馴染を介抱したいの?」
冷えた声音にパッと顔を上げると、綺麗な作られた笑顔が目に入る。弦は先程からずっと能面を貼り付けたような笑顔を崩すことなく、そして、私から目線を逸らすこともない。
表情は柔らかいのに眼光は鋭く、その瞳の奥に静かな怒りのようなものが見えて、私の背筋に冷たいものが流れた。
今の弦には嘘偽りや取り繕う言葉は一切通用しないだろうし、そんな事したらどうなるかわからない……
そんな言い知れぬ恐怖を覚え、喉が詰まり言葉が出てこなかった。
結果、自分でも何を言っているかわからないようなとりとめのない言葉がポロポロと零れ落ちた。
「だって…顔色が悪くて……お、お願いされたし……」
崩れることのなかった弦の笑顔が一瞬だけ崩れ歪んだように見えたが、次に見た時はまた綺麗な笑顔だった。
気の所為……?
そう思ったのも束の間、弦の顔からはすっと笑顔が消え、口の端を歪ませ嘲笑しながら言い放つ。
「ハッ!お願い、ね。そんなの、だめに決まってるよね?許可出来るわけがないよ。」
弦の見た事のない口調と表情に、私は酷く動揺し思わず思ってもいない言葉が口をついて出た。
「で、でも、ただの幼馴染だよ?年だって下だし……」
「いくら幼馴染でも森川は『男』だよ。男とふたりでホテルの部屋に入るってどういうことか、賢い名月ならわかると思うんだけど……ねぇ?名月。」
私の言葉を最後まで聞かずに、弦はまたにっこりと綺麗な笑みを浮かべて掻き消す。
弦の目は少しも笑っていなかった。
こ、これは……相当怒っていらっしゃる……
蛇に睨まれた蛙の如く、身が竦んで何も言えずに立ち尽くす私に、弦はオレンジと濃い紫のグラデーションが綺麗なグラスを手渡してきた。
私がグラスを恐る恐る受け取ると、弦は空いた手をするりと腰に回して強引に引き寄せ、顔だけ山田さんの方に向けて言った。
「と、言うことで、彼は山田さんが部屋まで連れて行ってあげて貰えますか?」
「んだな。森川は一営の所属だからそれが妥当だと思うわ。じゃ、ちょっくらいってくる。瀬田っち、その夫婦の事、あとはよろしくね~。」
それまで静観を決め込んでいた山田さんは、いつもなら揶揄いの言葉の一つや二つかけて行くはずなのに、弦の言葉を受けるや否や手をヒラヒラと振りながらあっさりと去っていった。
そんな山田さんの調子に拍子抜けして呆然としていると、目の前の瀬田さんは先程とは打って変わって真剣な表情をして、声をかけてきた。
「……あー、ちょっといい?仲原さん、俺さっきチラッと見てたんだけど、森川とただならぬ雰囲気だったよね?…自覚あるよね?俺は危ないと思うなぁ。会社的にも事件になるのは勘弁して欲しいから、そこは役職者として、きちんと節度ある対応して欲しいな。」
指摘されてはっとした。混乱していたので、思いもしなかったが、瀬田さんの言う通り、何かあってからでは遅かったのだ。ごもっともな意見に反論の余地はなかった。
「……はい。すみませんでした。」
「……キツいこと言ってごめんね。一応、俺管理本部マネージャーだからさ。会社の不利益になりそうな事は未然に防がないと、ね。」
「不利益…そうですよね……。」
「そ。レイプ事件もそうだけど、うちとしては猫ちゃんと仲原さんの破局とか、猫ちゃんのモチベーションがもうだだ下がって大損害に直結しちゃうからさ。」
具体的な事を言われて、今更ながら竦み上がった。
森川くんには私に対して明らかに特別な感情があった。そんな彼とふたりっきりになるということはそういう事だ、という事になぜ気が付かなかったのか……
そして、そんな事になったら、私は弦の元から去ることになるという事になるという事にも……
今更ながら自分の考えが甘かった事に気が付き、俯く事しか出来なかった。
すると、瀬田さんの言葉に弦が反応する。
「破局とか冗談でも辞めろ。俺は何があっても絶対に名月と別れないよ。それこそ、浮気されたとしても。……まぁ、そんな事になったら部屋に閉じ込めて一生外には出さないけどね。」
何があっても別れない、弦の言葉に胸を打たれた。それ程までに想ってくれている弦を、私は無自覚にも裏切るかもしれなかったと思うと、ゾッとしたし、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。……その後の一言がなければ。
いや、大いに反省はした。反省はしたが……
え?私は何かあったら監禁されるのか?
……うん、弦ならやりかねないな。
弦の言葉に若干引いたのは私だけではなかったようで、目の前の瀬田さんも引き攣り笑いを浮かべていた。
横の弦は至極真面目な顔をしているので、どうやら本気のようだ。思わず遠い目になる。
ちらりと私の方をみた瀬田さんに、可哀想な人を見るように同情の眼差しを向けられた。
「うわぁ…重いなぁ………だからね?そうなっちゃったら会社的に色々とまずいでしょ?優しいのは仲原さんのいい所なんだろうけど、その気がないなら期待させるようなことしちゃダメなんじゃないかな…と人生の先輩は思う訳で……」
「そう…ですね。」
その気がないなら……瀬田さんの言葉がダイレクトに胸に刺さった。
大切な幼馴染だからこそ傷つけたくなくて、見ないふりをしてきたけれど、それが逆に森川くんに期待を持たせて更に傷を深めていたということに気付かされた。
また、そういう曖昧な態度をとることで、大切で、大好きで、愛していて、ずっと一緒にいたい弦の事も間接的に傷つけていたんだという事も思い知らされた。
本当に……私は何をやっているんだろう。
深い自己嫌悪に陥り、涙が滲んでくる。
その様子に瀬田さんは徐に私の頭をぽんぽんと撫でると、先程までの固い表情と口調を軟化させた。
「うん、まぁ、後はふたりでちゃんと話し合ってよ。本部長挨拶と役職紹介が終わったら、後は自由にしていいはずだから。ね?……あ、あと、猫ちゃんちょっとだけ借りるから、仲原さんは何か食べてて。猫実、ちょっといいか?」
瀬田さんは弦の方に視線を遣ると、弦は短く嘆息し頷いた。
「あ、あぁ…わかったよ。…名月、いい子で待ってて?お願いだから……」
弦は私の頬はするりと撫で、困ったように眉を下げて懇願するように言うと瀬田さんと一緒にロビーの方へ向かった。
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