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第二章 黒猫の恋人
第63話 急病人
しおりを挟む声のした方を振り返ると、無表情な森川くんが立っていた。心做しか顔が青白くみえるが、会場の照明が暗いせいなのか、それとも具合が悪くてそう見えるのかは定かではないが、とにかく酷く憔悴しているように見えた。
「森川くん!どうしたの凄く具合が悪そう……」
「………………だよ…」
俯いたまま森川くんは何かを呟いたようだが、会場の騒がしさに掻き消されて私の耳まで届くことはなかった。
私は彼の前まで行き、下から顔を覗き込んで、森川くんの言葉を聞き取ろうとした。
「え?今なんて……」
「……なんでもない……大丈夫だよ。」
森川くんはふぅと息を吐くとそう言った後に、少し何かを考えて頭をふり、ガシッと私の腕を掴んだ。
咄嗟の事に吃驚して身構えると、森川くんは辛そうに笑い思い詰めたように私を見つめる。私はその顔を見上げながら、なんだか泣き出しそうだなと漠然と思った。
「……あぁ、でも少し気分が悪いかも。休憩室に行きたいんだけど、なっちゃん一緒についてきてくれる?」
お願い、と眉を下げて震える声で森川くんは懇願してくる。腕を掴んだ手にぎゅっと力が入り、このまま抱き締められるのでは無いかという勢いで引き寄せられそうになるが、なんとか踏みとどまり、パッと身体を離す。
なんとなく森川くんの視線に熱が籠っているように感じてしまい、ふいと視線を逸らして周囲に視線を巡らせているように装った。
「え、あぁ、うん。そうだね、わかった。休憩室の使用の件とかマネージャーに報告してくるから、ロビーでちょっと待っててくれる?」
「……うん…わかった。なっちゃん、俺ロビーで待ってる…来てくれるまで待ってるから。」
そう言った森川くんは一瞬傷ついたような顔をしたが、すぐに打ち消すように深く嘆息すると、会場の出口の方へ向かった。
来てくれるまで……
その言葉に多少引っかかりを覚え、行くかどうか迷ったが、具合の悪い新人をましてや幼馴染を放って置くことなど出来るはずがない。
だからと言って、知らない役職者に任せるのもなんとなく気が引けてしまう。
それに、森川くんは子供の頃から具合が悪い時は手を繋いがないと眠れない程の寂しがり屋だった。帰国してまだ日が浅いので、きっと心細くなったのだろうと、そんな心細い彼をひとりにしておく訳にはいかないな、と無理やりそう納得する事にする。
私は森川くんがロビーに向かう様子を見届けてから、さてと、と辺りを見回した。ちょうど近くに管理本部の瀬田マネージャーと談笑している山田マネージャーを見つけたので近くまで行き声をかけた。
「お話中すみません。山田さん、ちょっといいですか?」
「おー、仲原。どうした?っていうか……今日もお前ら夫婦はやってくれたよな…なんて言うんだ?ペアルックとは違うな…お揃いか?まぁとにかく、あからさま過ぎて新人みんな吃驚してたぞ?可哀想に。」
楽しそうにくつくつと喉を鳴らして笑う山田さんを、横の瀬田マネージャーは横目で若干呆れたように見て頭をふると、深く重い溜息を吐いた。
「ペアルックとか……山田さん、おっさんじゃないんですから…。ああいうのはリンクコーディネートっていうんですよ。同じ色合いだったり、小物を合わせたりしてたでしょ?」
瀬田さんの言葉を受けた山田さんは、思いっきり眉を顰め面倒くさそうに漏らした。
「うへぇ、リンクコーディネート?なんだそれ?おっさんには小難しい言葉はわからねぇから、全部ペアルックでいいじゃねぇか。」
「あー…はいはい、厳密には違いますけど、もうめんどくさいんでそれでいいです。」
かかかっと豪快に笑う山田さんの発言の訂正をする事を諦めた瀬田さんは、適当に山田さんに相槌を打ってさらりと受け流し私の方に向き直ると、申し訳なさそうに言う。
「…で、ごめんね仲原さん、話の腰を折っちゃって。そういえば、猫ちゃんはどうしたのよ?」
「あ、げ…猫実さんはさっきバーカウンターに飲み物を取りにいったんですけど……多分私と一緒で新人さんに囲まれちゃってるんだと思います。」
私がそういうと、瀬田さんはバーカウンターの方をチラリと見遣り、案の定という表情をした。
「あー……そうかもね。ところで、山田さんに用事があったんだよね?」
瀬田さんに指摘されて、漸く本来の用事を思い出して山田さんの方に向き直って話しかけると、瀬田さんは徐にスマホを取り出してどこかに電話しだした。
「そうだ!山田さん、急病人が出たので、上に用意した休憩室に連れていきたいんですが…」
「おぅわかったけど、急病人って一体どこのどいつだ?飲み過ぎか?」
「一営の森川 仁成です。いや、そんなに飲んでなかったと思うんですけど……顔色がすごく悪かったので……」
ニヤニヤ顔の山田さんに森川くんの事を伝えると、山田さんは先程とは一転して至極真剣な顔になる。
「は?男か!それは色々と……不味いんじゃないか…?その……お前女だし、パートナーいるし……なぁ?」
腕を組んで綺麗に整えられた顎の髭を触りながら、チラチラと私の背後を見ながら難しい顔で言った。
まぁ、そうなんだけど……
誰かに任せたらいいのはわかってるよ、わかっているけど、なんて言うのだろうか……
複雑な感情があって……近い感情は弟に感じる家族の情だと思う。
弟が心細く思っていたら何とかしてあげたいと思ってしまうのは仕方がないとは思うのだが、しかし、最近の森川くんの言動を鑑みると、山田さんの言うように『色々と不味い』と言う意味もわからない事はない。
しかし、さっきからチラチラと私の後ろを見ているのは何なんだろうか……
森川くんの事も気になるし、私の後のことも気になる。
色々な感情がごちゃ混ぜになって、もうどうしたらいいのかさっぱり検討がつかないが、とりあえず、森川くんと私の関係を明らかにしないと事態は進まないなと思い話を続けた。
「はい、そうなんですけど…彼、帰国子女で知り合いいなそうで……それに、実は……森川くんは私の幼馴染なんです。なので、大丈夫……かと……」
しどろもどろ山田さんに森川くんの事を伝えていると、私の話が終わらないうちに、後ろから恐ろしく冷えたバリトンボイスが、それ以上言う事は許さない、とでも言うように私の声を遮った。
「だぁめ。却下だね。名月、さすがにそれは危機感無さすぎ。」
その冷え冷えとしたオーラに、はっとして振り向くと、グラスをふたつ持った弦が冷ややかな笑みを湛えて立っていた。
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