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第二章 黒猫の恋人
第56話 予期せぬ出会い
しおりを挟む「以上で午前の研修を終了します。本社メンバーはここで解散になります。午後からは第一営業部のフロアで集合です。支社メンバーは昼食後も引き続きこの会議室で研修を行いますので、13時になったら戻ってきてください。質疑応答がありましたら受け付けますので、この後前まで来てください。では、お疲れ様でした。」
「「ありがとうございました!」」
午前中の研修の締めの挨拶が終わると、皆バラバラと片付けが終わった人から退出を始め、人も疎らになってきたところで、漸く大きく嘆息をする。
「と、とりあえず……終わった……」
始まる前はどうなるかと不安だったのに思ったよりも講義はするすると進み、終わってみると、緊張しながらも初日の最初の研修としてはまずまずの手応えだったと思う。
しかし……疲れた…非常に疲れた。
大人数相手に講義するのは、プレゼンとはまた違った緊張感とプレッシャーがあり、いつもとはまた違う気の遣い方で、午前中の数時間だけで、まるで深夜まで接待して燃え尽きたぐらいの気疲れだ。
会議室から全員が退室したのを確認すると、一気に脱力しよろよろと講師席に座る。ひと息つくとペットボトルの水の蓋をあけ、スマホを取り出しメッセージアプリを開く。
まだ弦は仕事中だろうか、そんな事を考えながらメッセージを確認しようとした時、入口の方から声がした。
「仲原さん!」
呼びかけられて慌ててスマホを置き、目線を入口の方に遣ると、真新しいスーツに身を包んだ、背の高い初々しい男性社員が立っていた。
彼は…本社配属の新卒社員で確か……
入口の方に歩を進めながら、チラリと胸の名札を確認する。
「えと、森川…仁成くん?」
私が名前を呼ぶと、入り口に立っていた彼…森川くんがとても嬉しそうに破顔して駆け寄り、顔を蒸気させながら詰め寄ってきた。
「なっちゃん!なっちゃんだよね?俺だよ!ヒト!ほら、昔隣に住んでた……会いたかった!!!」
森川くんは私の答えを待たずにひと息に捲し立てると、満面の笑みでがばっと飛びついてきた。突然の事に吃驚して固まった私の顔を覗き込むと、更にぎゅっと腕の中に抱き込められた。最初は何が起こったのか分からず目を白黒させていたが、少し冷静になると私は森川くんの腕に強く抱きしめられていたことに気が付く。
そして、ヒト……聞き覚えのある名前だった。
頭の中の人物ファイルを高速で確認すると、とても古い記憶だが、ひとり該当した人間がいた。
「え?え?ヒトって…………お隣の…ヒトちゃん?えー!ウソ!吃驚した!」
「そう!ヒトだよ、なっちゃん。会えて嬉しい!」
そう言って森川くんは嬉しそうに笑うと、ぎゅっと私を抱きしめた。
森川くん……ヒトちゃんは引き取られた祖母の家の隣の家に住んでいた5歳年下の男の子で、両親を亡くし東京から越してきて、誰も知らない土地で心細かった時にいつも気にかけてくれた、弟のような存在…所謂幼馴染と言うやつだ。
10年振りに会った幼馴染は、グンと背も伸び体格もがっちりとして、背の低い私など腕の中にすっぽりと収まってしまう。
最後に会ったのは確か、小学校を卒業して中学生になる年だったため、今よりも背も低く幼かった印象だ。
それから歳月が立ち、すっかりと大人びた今の森川くんは、名乗られないとあのヒトちゃんだとはわからなかったが、よくよくみると少しばかり面影があった。特にはにかんだ笑顔は昔のままで、何だか少し懐かしい気持ちになった。
しかし、いきなり抱きつかれた事にも吃驚したが、大人の男性に力いっぱい抱きしめられたら流石に痛くて苦しい。
「ひ、ヒトちゃん……森川くん、苦しいよ。」
「あ、ごめん……つい、なっちゃんに会えたのが嬉しくて……」
離して欲しくて身を捩ると、森川くんはぱっと拘束していた腕を緩めたので、その隙に私は森川くんの胸を押し返して腕の中を抜け出すと、森川くんはちょっぴり寂しそうな顔をして、名残惜しそうに身体を離して言った。
「なっちゃん、前みたいにヒトって呼んでよ。」
「そういう訳にはいかないよ。私は講師で、森川くんは新入社員。きちんとケジメはつけなきゃ。」
私がそういうと森川くんは目を丸くして驚き、少し何かを考える素振りをした後、にっこりと笑顔で言った。
「なっちゃんは相変わらず真面目だね。うん、わかった。みんなの前ではケジメつけるね。でも、今はいいよね?だって、久しぶりになっちゃんに会えて凄く嬉しいんだ。」
そう言って抱きしめて来ようとする森川くんから、私は一歩後退りしてそれを制止する。
「う、うん。私も会えて嬉しいけど……でもいきなり抱きつくのは吃驚するし、そういうのはやっちゃダメ。わかった?」
少しキツめに説教するも、森川くんは私の言葉の意味がわからないのか、それともわからないふりをしているのか、一瞬きょとんとした顔をして、次の瞬間にっこりと笑顔で答えた。
「ハグは軽い挨拶だよ。日本には帰ってきたばかりだから慣れてなくて。ごめんね、次からは気をつけるね。」
そう言って、森川くんはまた抱きしめようと、私の方へ腕を伸ばしてきた。
えぇ、この子ちゃんと私の話を理解してる?
帰国子女であれば仕方がない、とはいえ誰彼構わずハグをするのは日本ではあまり…いや、非常によろしくないということをこれから少しずつでも理解してもらわないといけない。
あの表情じゃあ…時間がかかりそうだな……
独り立ちするまでに、身につくかしら?と一抹の不安が過ぎるが、森川くんはそんな私の思いなど特に気に留める様子もない。
全力でにこにこしている森川くんを困った表情で見上げると、私を見つめる瞳と視線が絡んだ。
その瞳には郷愁の他にも何か別の…もっと深い欲のような色が見えた気がして、言い様のない恐怖を感じ、思わず背筋がゾクリと粟立つ。
森川くんの顔から笑みが消え、真剣な表情に変わった。
これ以上は危険だ、と私の心が警鐘を鳴らしているのに、森川くんの真剣な瞳に捕らえられた私は、目を逸らそうにも逸らすことが出来ない。
徐々に身体の距離が縮まり、抱きしめられる…と身を固くして構えたが、すんでのところで私のスマホが鳴り、緊張が解け力が抜けた。
逃げるようにさっと講師席の方向に踵を返すと、森川くんは、縋るように私に言った。
「なっちゃん!明日またお昼に少し話したいな。俺、なっちゃんとの約束を守るために日本に帰ってきたんだから……」
「ご、ごめん。電話だから……」
「うん、わかった……」
森川くんは伸ばした腕を下げ肩を竦めると、短く嘆息をしてあっさりと身を引くと、私の後ろから、またね、と声を掛け会議室を出ていった。
約束……一体なんの事だろう。
私は振り返り、彼の後ろ姿を目で追いながら考えたが、思い当たる事がない。首を傾げながら机の上のスマホを取ると、弦からの着信とメッセージが入っていた。
『お弁当、屋上で一緒に食べない?』
メッセージ受信時間は11時頃で、着信は12時15分。現在の時刻は12時20分を少し過ぎたところだった。
次の講義が13時からなので時間的にはまだ間に合う。すぐに着信に折り返すと1コールで通話になった。
「……もしもし?」
すぐ近くで声がして、くるりと声のした方に振り向くと、スマホを耳にあてながら悪戯っぽい笑顔をした弦がいた。
「えっ?弦?なんで……」
「返事、待ちきれなくてきちゃった。コーヒー買ってきたからここで一緒に食べよう?」
そう言って弦は笑いながらカフェの紙袋を見せた。
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