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第一章 黒猫の恋
第30話 あの日のあの人※
しおりを挟む「…名月……愛してるよ。ずっと、ずっと好きだった。」
目を開けると、猫実さんは今にも泣き出しそうな顔をして、苦しそうに私に愛を囁いた。
切ない顔をした猫実さんが私を見上げている。その瞳は情欲と不安の入り交じった色に濡れて揺れていた。
ドクンと心臓が跳ね上がり、そして同時に胸がぎゅうっと締め付けられるように苦しくて、涙がポロポロ零れる。
「…っ、名月……好きだ…好き、だっ……俺の想いをっ…受け入れて……」
目の前にいる、不安そうに愛を乞いながら、私を貫き腰を打ち付けている猫実さん…弦を心から愛おしいと思った。
弦は力強い突き上げと、時折織り交ぜる優しい揺さぶりで、緩急をつけて私の奥深くを攻めてくる。
気持ちよすぎて、頭がクラクラした。
「はっ……あっあっ…わたっ……しも…」
幾度となく押し寄せる快感の波に溺れ、私は弦にしがみついて嬌声をあげながらも、ぼぅっと弦の顔を見つめていた。
私は弦のこの顔を、何処かで見たことがある……
情事の最中に見せる切ない艶顔など、普通に生活していたら見ることはない。
明らかに私は以前、弦とこういう行為をした事があるのだろう……
思い当たるのは…
目が覚めたら裸でこのベッドで寝ていたあの日……?
あの日は公園で飲んでいて…途中で黒猫がやって来て…
黒猫……
違う。黒猫じゃない。あれは……誰?
公園で出会った黒猫だと思っていたのは、いつかのあの人で、私が凄く会いたかった人。
あの日、目を見開いて私を見ていた弦とあの人の顔が重なる。
あぁ、そうだったんだ。
いつかのあの人は……
今私の目の前で私を抱いている愛おしい人。
弦、あなただったんだね。
全てがすとんと腹落ちした途端に、お腹の奥がぎゅうっと収縮し視界に白が散る。
「…っ!出そう……イクっ……名月…受け止めて……っ!!!」
「げ、弦っ……あぁぁぁんっ!」
本当はあの夜、目が合って本能的に直ぐにあの人だってわかったんだと思う。
抱きしめられた時も不思議と心地良くて、なんだかほっと安心感を感じて、ここが私の居場所だって思えた。
私が欲しいって言われて、私をあげるって言ったのは紛れも無く本心だった。
あの時、本能で感じたの。あなたは5年間ずっと心の中にいた大切な人だったって。
今日、居酒屋で感じた心地良さは既視感だったんだと得心する。そして、全ての点と点が線になり、気が付く。
私も、ずっと、弦、あなたのことが好きだった。
薄れていく意識とは裏腹に、突如忘れていたあの日の記憶が頭の中を駆け巡った。
◇◇◇
誠治との最後のデートの時に言われた言葉を思い出す。
「名月の心にいるのは俺じゃないだろ。5年間…ずっと苦しかったんだ。」
誠治の言う通りだった。
私の心の中には5年間ずっとひとりの人が居続けた。
名前も知らないし顔もうろ覚えだったけど、いつだって私の心はその人でいっぱいだったのだ。
本当はわかっていた。
明るくていつも笑顔で、引っ込み思案な私を引っ張ってくれる誠治に、あの人を重ねていただけだったってことを……
誠治もきっとそれに気が付いていたんだと思う。
我ながら薄情だと思うが、仕事が忙しくて何ヶ月も会えなくても、一緒にいられなくても全然大丈夫だった。
そりゃ、会えなければ淋しいと感じる事もあったし、会いたいと思う事もあったけど、なりふり構わず全てを投げ捨ててでも会いたいと思う事はなかった。仕事でデートがキャンセルになっても、文句を言ったこともない。
それに、誠治から求められて嬉しいと感じる事はあったけれど、私から誠治に何かを求める事もなかった。
会いたいと言われれば会うし、欲しいと言われれば与えるけれど、私からは会いたい、欲しいと言ったことはなかった。
思い返してみれば、5年間喧嘩らしい喧嘩もしたこともなかったし、わがままも言わずいつも物分りのいい恋人だったと思う。
そんな私だったから、誠治は淋しかったと。
一緒にいるのにいつも孤独だったと。
自分を求めてくれて、求めたらその分返してくれる、そんな彼女に拠り所を求めたと。
それを聞いて、泣いて縋って追いかけたい、そんな事を思うことはなくて、振られても腹が立ったり辛くて淋しいだけで、怒りに近い感情が湧きこそすれ同情の余地はなく、正直心は全く動かなかったし、誠治に対しての未練は一切なかった。
だけど5年間一緒にいたのだから少なからず情はあったし、楽しかったことも沢山あった。
心の中に別の人がいようとも、私なりに彼を大切にしてきたつもりだった。
それも彼には伝わっていなかったようだけと……
誠治は全て話終えると「俺が全部悪い,」と言っていたが、全くもってその通りだと思った。
淋しかったから……
だからなんだ?
淋しければ浮気をした挙句、そちらに本気になってしまってもいいのか。そんな事言われても、到底納得出来るわけがないし、許す事もできない。
できないのだけれど……
浮気をされて捨てられたのは私だけど、果たして本当に彼だけが悪いのだろうか。優しい誠治にそんな風に思わせてしまった私にも、もしかしたら非があるのかもしれない。
だから、私は彼の浮気と心変わりを責める気にはなれず、ただそれを受け入れる事しか出来なかった。
そして、誠治に振られた後、ふらふらとひとりになった私が無意識に向かったのは、思い出のあの公園だった。
私がこの会社に入社するきっかけをくれたあの人との大切な思い出の場所。
たった一度しか会ったことがなくて、しかもその時泣いてコンタクトが外れて、ぼんやりとしか顔も覚えていなかったあの人に会いたくて、入社してからももしかしたらあの人と再会できるかも、と淡い期待を持って何度もあの場所に足を運んだ。
無性にあの人に会いたかった。
会いたくて堪らなかった。
あの時みたいに、優しい笑顔でぽんぽんって頭を撫でて欲しかった。
思い出に浸りながらあのベンチにいたら、もしかしたら会えるかもしれない。
振り返ったら目の前にあの人がいるかもしれない。
いるはずないのに、何度も何度も振り返って、当たり前だけどいなくて。
その度に落胆しては新しくチューハイを開けて飲み干した。
振り返っては落胆して、落胆の数だけ空き缶は増えていく。
もう諦めようと思って、最後の一度だけ、と祈る気持ちでチューハイを飲み干して振り向いたら、目の前に会いたかったあの人がいた。
吃驚すると同時に至大な歓喜が訪れ、私は喜びのあまり破顔した。
でも、ふと、そんな事ある訳ない酔いが見せた幻覚だって……そう思ってもう一度あの人がいた場所を見たら、あの人はいなくて、替りに綺麗な黒猫がいた。
当たり前だよね。そんな都合のいい事なんて無い。
さっきのは私の願望が見せている幻だったのだ、とそう思ったら堪らなく淋しくなった。
でも、今だけは黒猫を、あの人だと思いたかった。
黒猫なのか、あの人なのか……
どちらかわからないけれど、私は彼を手招きして、抱きしめて温かさを感じた。
途中から記憶が混濁していたが、抱きしめられた感覚もキスして求めあった感覚も思い出せばちゃんと残っていた。
あの時、あの人だから私は欲しいと思ったし求めた。
あの人の温もりを思い出すと涙が零れた。
ポロポロと零れる涙を誰かが優しく拭う。
何だか温かくてふわふわして気持ちがいい。
この気持ち良さに浸かって、このまま微睡んでいたい。
……名月。
あぁ、でも、遠くで私を呼ぶ声が聞こえる。
目を開けなきゃ。
私は呼びかけに応じて、ゆっくりと目を開けた。
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