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第一章 黒猫の恋
第26話 いつもの指定席
しおりを挟む彼女に逃げられ悲惨な週末を過ごした翌日の月曜日。
この日は朝からアポイントが立て込んでいて、終日外出予定だった。
午後のアポイントが終わって、グループウェアの予定を確認すると最終アポイントの時間は17時で帰社時間は19時。
これではどんなに急いでアポイントを終わらせても16時から18時の全体MTGには間に合わない。彼女を捕まえるためには、会議の時間内に帰社するのがマストになる。
今日の会議の司会の瀬田には、なるべく開会を遅めて貰うように根回しは済んでいたが念のため、17時の最後のアポイントを後日にリスケをするべく、クライアントに連絡をした。
「よし、これで何とか16時過ぎには帰社できるな。」
会議の開会には間に合わなくとも、始まってすぐ…婚約発表の後位には到着できそうだ。
腕の時計を見遣ると15時50分…
俺は急いでタクシーを拾う。
◇◇◇
タクシーを降りるとそのまま部署に寄らず会議に向かう。
大会議室に着いたのは16時半を少し過ぎた頃だった。
受付にあるアジェンダを手に取り、後方の入口を開けるとちょうど鈴木と宮田の婚約が発表された直後で、紹介された鈴木が前に出て挨拶をしていた。
会場は祝福ムードで盛り上がっていたが、俺は胸糞悪くて何処か冷めた目でそれを見ていた。
良くもまぁ…二股相手とは言え元恋人の前であんな惚気が出来るな…
鈴木の厚顔無恥さに、呆れて溜息が出る。
鈴木の事はどうでもいい。勝手にしてくれ。
そんなことよりも……
俺は入口からマネージャー席に目を遣る。
俺の席が空席なのは当たり前だが、いるはずの彼女の姿がそこにはなく、彼女の席も空席だった。
まさか、欠席しているのか?
グループウェアで事前に彼女の予定は把握していた。
責任感の強い彼女が、何の予定もなく会議を欠席するはずがないので、もしかすると火急のアポイントが入ったのかもしれない。
当てが外れた俺は落胆の溜息を吐き、会議室へ足を一歩踏み入れ、いつもの俺の指定席を見る。
―――っ!!!!
最後尾の窓側の一番角の、俺がいつもその場所から彼女を眺めていた席。
そこに座っていたのは誰でもない、彼女…名月だった。
そこに座って名月は、泣いていた。
その大きくて綺麗な瞳に鈴木を映して、顔をくしゃくしゃにしてポロポロと大粒の涙を零して…
その姿に俺の胸がズキリと痛んだ。
俺は踵を返して会議室の外に出る。
泣いている名月と顔を合わせられなかった。
俺が不甲斐なかったばかりに、名月を辛い目に合わせてしまった…
さっさと行動を起こさなかった過去のヘタレな自分が酷く情けなくて、握った拳を壁に叩きつけ、大きく息を吐いた。
このまま部署に戻ることも一瞬頭を過ったが、名月の泣き顔を思い出し踏みとどまった。
名月に心の中で、ごめん、と何度も、何度も謝罪する。
婚約者の裏切りを目の当たりにして、きっと今名月はひとりぼっちで心細いはずだし、傍にいてやりたい。
いや、なによりも俺が名月の傍にいたい。
名月の幸せのためと思い、鈴木に遠慮してきたが今は違う。
俺は、もう遠慮などしない。
何があろうと名月を手に入れて、俺が幸せにすると決めたのだ。
両手で顔を叩いて気合いを入れ直すと、俺は名月の為に自販機で水を買い、再度会議室に向かった。
◇◇◇
俺が会議室に戻ると、名月は俺のいつもの指定席で俯いて声を殺して泣いていた。
俺は名月の隣の席に行き、先程買ってきた水と鞄に入っていた新品の予備のハンカチを膝の上に置いた。
「よかったらこれ使って。」
そう言って名月をちらりと見ると、赤く染まった頬と涙で濡れたその横顔がとても綺麗で、ドキリと心臓が跳ね上がった。
そして、名月にそんな顔をさせている鈴木に酷く嫉妬する気持ちが湧き上がる。
「あ、あの…」
「……いいから。」
お礼を言うため顔をあげようとする名月を制止し、彼女の頭からジャケットを被せた。
きっと、今の俺は嫉妬心丸出しの酷い顔をしているだろう。
そんな顔を名月に見られたくなかったし、名月の綺麗な泣き顔を誰にも見せたくないとも思った。
「誰にも言わないから。泣くだけ泣いてスッキリしたらいい。」
嘘だ。
あんなやつのために泣かないでくれ。
その涙ごと俺が受け止めるから。
そう言って、本当はその細い身体を抱き締めたかった。
できない変わりに、俺は名月の震える背中をただ撫でていた。
どのくらいの時間が経っただろうか。
会議の議題もそろそろアジェンダの最後のトピックスに移ろうとしていた時、社用携帯に部下の松本から緊急の案件があるとメッセージが飛んできた。
メールの文面から、かなり切羽詰まった状態が伺えた。部署の責任者としての決済が必要とのことなので、急いで部署に戻らなければならなくなった。
なんでこんな時に……と、俺は短く嘆息して、ちらりと隣の名月を見ると、泣き疲れたのだろか、うつらうつらと船を漕いでいた。
まるで子供みたいだな…
一度寝たらなかなか目が覚め無い事は、既に土曜日の朝方経験しているので知っている。
俺はくすりと笑うと、そっと名月の涙を指で拭い、ジャケットで周りの視界から彼女を隠して額にキスをした。
本当は彼女がこのまま起きるまで横についていてやりたかったし、その後食事に誘って連れ出して想いを伝えたかった。
沢山甘やかして、悲しみの涙ではない喜びの涙を流させてあげたかったのに……
この、松本から来た件……トラブル案件の対応が、メールを見ただけでも恐らく深夜までかかりそうなのが予測される為、今日はこのまま離れるしかなかった。
彼女を見つめ深い溜息を落とすと、サラサラっと付箋のメモを残す。
どう頑張っても今日は深夜まで作業になるだろう。
それならば、後でジャケットを回収するつもりで、そのまま置いておいて、と書くと机に貼った。
席を立ち支度をしている時、このままだと何かの拍子に付箋が飛ぶかも?と思い直して、机に貼った付箋を剥がして、椅子の背もたれに貼り、背もたれを彼女の方へ向けておいた。
「名月…またね。今度こそ、俺から逢いに行くから。」
俺は眠っている彼女の髪をするりと撫でると、後ろ髪を引かれながら会議室を後にした。
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