【R18】黒猫は月を愛でる

夢乃 空大

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第一章 黒猫の恋

第6話 神出鬼没の猫さん現る

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「俺の事知らないとか、逆にびっくりなんだけど。俺は君の事知ってるよ。仲原 名月なかはら なつきさん。」


 名刺を見て固まってしまっている私に、ジャケットの人…猫実さんは悪戯っぽく笑った。

 あの神出鬼没で中々出会えない猫さん、もとい、猫実さんが現実の目の前にいる。しかも、その猫実さんがジャケットの人。
 営業部所属なら誰でも憧れるスーパー営業マンの猫実さんが私の会いたくてたまらなかった人だったという事実に驚愕と歓喜が同時に訪れた。突然の事に頭の情報処理が追いつかないし、吃驚し過ぎて声が出ない。


「ね、猫実……さん?」


 辛うじて絞り出した第一声がこれである。
 そんな私の様子に、会議中にも関わらず猫実さんは心底可笑しそうに笑う。


「はははっ…うん、仲原さん。この後、仕事が終わったら食事にでも行かない?」


 そう言うと、ぽかんとしている私を横目に猫実さんはまたくつくつと楽しそうに笑った。



 ◇◇◇



 先程まで会議室に居たはずだったのだか、今、何故か私は我社きってのスーパー営業マンと一緒に、小洒落た個室居酒屋で食事をするため向かい合わせで席に着いている。

 どうしてこうなった?
 全くもって意味不明である。

 つい数時間前までは顔を合わせて言葉を交わしたこともなかったはずだし、殆ど…現実リアルでは接点もなかったはずだ。

 ……案件引き継ぎを除いては。

 我社のトップ営業マンと顔を合わせたことがないとか、今思えばおかしな話ではあるのだが……
 これが嘘のようなホントの話で何故かこの5年間一度も機会に恵まれなかったのだ。

 いや、正確に言えば機会はあったのだが、その時の私に役職がなかった為上長が代わりに対応したり、役職付いてからは、事ある毎に相手が離席していたり私が外出だったりと何故か予定が合わなかったため、唯一の接点だった案件引き継ぎすらも基本メールと内線のみでの対応だった。
 と、言う事なので、今まで一度も会う事もなかった私と猫実さんは、今日が殆ど初顔合わせみたいなものである。

 そんな殆ど初めましてな人……しかも社内でもかなりの有名人に、誠治の件で泣き顔まで見られている。そして、恐れ多い事に差し入れとフォローまでして頂いた。

 だ。

 そんな方と二人っきりで食事なんて気まず過ぎる。
 しかもここは個室だ。
 今の状況はまさに蛇に睨まれた蛙……いや、猫に睨まれた鼠……
 私はこの状況に耐えられるのか?

 考えれば考える程軽く頭が混乱してきて思わず白目になる。

 しかし、そんな私の様子などどこ吹く風な猫実さんは、涼しい顔をしてドリンクメニューを眺めている。


「仲原さん、何飲む?」


 そう言いながら、店員から受け取った熱いおしぼりを、広げて適温まで冷ましてから手渡してくる。流石、スーパー営業マンはやる事がスマート過ぎる。
 女子なのに気が利かなくて申し訳ないと恐縮しつつ、猫実さんからおしぼりとドリンクメニューを受け取る。
 メニューを一通りみて、ソフトドリンクにするかなぁ、と思ったが、流石にこの状況でソフトドリンクなんて、警戒してると思われて失礼だろうと思い、無難なカシスオレンジを選んだ。


「あ、じゃあカシオレで…お願いします。」

「了解。俺は生中。あと、サラダと枝豆。だし巻き玉子と冷やしトマト…」


 猫実さんは、メニューからテキパキとドリンクとフードを数品注文を済ませると、胸ポケットからタバコを取り出し、テーブルに置いた。


「あ、タバコ大丈夫?」

「はい、どうぞ、お気になさらずです。」

「うん、ありがとう。じゃあ遠慮なく。」


 そう言うと猫実さんはタバコを咥え火をつけた。ただそれだけなのに、その仕種が悔しいことに様になっていてとても格好よくて、不覚にもときめいてしまった。
 かぁっと顔に熱が集まるのを感じて、慌てて下を向いて心を鎮めようと深く深呼吸をする。
 その私の様子を見て、向かい側の猫実さんがふぅとタバコの煙を吐きながら可笑しそうに笑う。


「ん?いきなりどしたの?」

「あ…い、いえ、何でも……ないです…はい。」

「ふっ…そ?ならいいけど。」


 そう言う猫実さんの横顔にまたときめいてしまった。
 いちいちやることがかっこよすぎてツラい。
 深呼吸のおかげで何とか気持ちは落ち着きを取り戻しつつあったのに、再び顔に熱が集まってきた。
 きっと今の私の顔は真っ赤になっているに違いない。
 落ち着いた個室居酒屋なので、照明が暗めなのが有難かった。

 暫くするとトントンと扉を叩く音が聞こえ、ドリンクとフードが目の前に運ばれてきた。
 私が手を出す暇もなく、猫実さんがさっさとサラダを手際よく取り皿にとりわけ、私の前に置いた。


「はい、お疲れー。カンパーイ。」


 カチンとグラスを合わせると、注文したカクテルを一口含む。カシスとオレンジの甘さが口に広がり、美味しい、と自然と言葉が零れた。
 猫実さんはタバコをふかしながら、その様子を見て目を細めると、タバコの煙を吐きながら言う。


「そう、それはよかった。」


 それだけ言うとふっと笑い、またタバコをふかした。

 猫実さんとはほんの僅かな時間を共に過ごしただけなのに、何か空気感がしっくりくるというのか、もう長い間ずっと一緒にいるのでは無いかと錯覚してしまうくらいもの凄く居心地が良い。猫実さんが纏う空気が私には心地良く、このまま身を委ねてしまいそうになる。

 比較する訳ではないが、5年も付き合った誠治とは一緒にいても、これ程までに居心地がいいと感じたことはなかった。
 同じ大学からの同期入社で、何となく意気投合して何となく付き合い始めてズルズルと5年。最初こそ楽しかったが、ココ数年はお互いに気持ちなどなく、惰性だけで関係が続いていたのかもしれない。

 薄情な話だが、今となっては本当に好きだったのかすらわからなくなってきた。

 それ程までに、私と誠治の関係は希薄だったのだな、と思うと、誠治が他の女に走ってしまった気持ちも少しは理解出来るような気がした。


 猫実さんは、決して自分の事をペラペラと話す訳でもなく、私のことを詮索するでもなく、時折優しい視線を向け、空いたグラスを下げると次のお酒を注文してくれる。
 それだけの、ただただ静かな時間が流れた。そんな猫実さんとの時間は、失恋で荒んだ私の心をそっと癒してくれるような、そんな穏やかで優しい時間だった。

 この短時間の間に私の中で次第に猫実さんの存在が大きくなって行く。

 まだほんの数時間一緒に過ごしただけなのに……

 交わす言葉は必要ない。
 一緒にいられたら心地よい、幸せ。

 私はこの感情をなんと呼んでいいのか、わからない。
 わからないから、名前をつけない。
 今はそれでいいと思った。

 どのくらいの時間が経過したのだろうか。
 ゆったりと流れる心地よい空気に、私は時間の感覚すら忘れてしまって身を任せていたが、そろそろいい時間だ。
 それと同時にこの穏やかな時間も終わりに近付いていく。

 猫実さんはふぅと長く息を吐くと、徐に吸っていたタバコを灰皿に押し付けた。
 それが終わりの時間を告げる合図だろう。
 そしてタバコを消した猫実さんがこちらをじっと見つめると、不意に口を開いた。


「仲原さん、もう大丈夫なの?」


 これは、恐らく誠治との事だろうと思った。
 弱音を吐くのは得意じゃないし、もう大丈夫、と言った方が良いのだろう。
 だけど、猫実さんにはそう言うのは必要ないんじゃないか、となんとなく思って、思わず本音を零してしまった。


「あー…どうかなぁ。考えないようにはしてるんですけど、そりゃやっぱり辛いですよね。」

「うん。そうだよね。長かったんでしょ?確か5年だっけ?」

「はい…5年…ですね。入社してからすぐだから……ってなんでそんな事知ってるんですか?!」


 さらりと聞き捨てならない発言をした猫実さんを二度見する。青くなった私を見て、猫実さんはニッコリ笑う。


「ん?聞いたからだよ。」

「だ、誰から?!」

「さあ?誰だろうね。」


 そこまで言うと、猫実さんは席を移動して何故か私の隣に座りなおした。そして、戸惑う私を、ふわっと抱きしめると、あの時借りたスーツのジャケットと同じ香りがした。


 どこかで嗅いだことのある香りとほんのりタバコの匂いが混じっている、安心する香り…


 何が起こったのか理解出来ず固まっていた私の鼻腔をあの香りが満たしていくと、自然と身体の強張りが解けていく。
 そして、深く息を吸い込みその香りに陶然としていると、私の首筋で猫実さんが熱い吐息を漏らした。


「忘れるなんて酷いなぁ。あんなに沢山愛し合ったのに。」


 耳もとで低いバリトンボイスでハッキリそう言うと、はっと顔を上げた私を熱の篭った目で見つめた。

 どこかで見た事があるような既視感を抱きつつも、一体なんの事かわからず目を白黒している私に、猫実さんは続けてとんでもないことを宣った。


「この後、部屋くるでしょ?じっくり思い出させてあげるよ。」


 明日から連休だしね、と意地の悪い笑みを浮かべながら楽しそうに。

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