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最終章 ごきげんよう
第107話 崩壊の序曲
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「……あっ! あいつ、なぜこんな所に」
昨日から王都を騒がす噂の出所を一人調査していたオーディックは大通りを行き交う人々の中、偶然目線の端に捉えた人物に反応してサッと身を隠した。
人通りが多かった事が幸いしたようで、その人物はこちらに気付いた様子も無いようだ。
噂そのものではないのだが、十中八九関与していると思われる。
無視出来るものではない。
オーディックは調査対象をその人物に切り替える事にした。
人通りの影に身を潜める様に尾行しながら様子を窺っていたのだが、完全に油断しているのだろう。
目標は別段変わった様子も無く、ただ通りに面している店のショーウィンドウに目を向けてウィンドウショッピングを楽しんでいるようだ。
まるで先日の件が嘘の様なその振る舞いにオーディックは少しだけ違和感を覚えたが、過去に何度か今日の様に大通りで見掛けた際も同じ様子であったので、これがこの人物にとっての素の顔と言うものなのだろう。
オーディックは半ば呆れる気持ちでそう解釈した。
「……え? くっ! 何処に行った?」
暫くそんな状態が続いていたのだが、突然目標の人物が視界から消えた事にオーディックは声を上げる。
いや、実際に消えた訳ではなく大通りから逸れて下町へと続く道の角を曲がっただけなのだが、その寸前まで曲がる素振りも見せなかった為、意表を突かれたと言うのが正しいだろう。
すぐその事実に気付いたオーディックは軽く頭を振って思考を切り替えた。
「ちっ、油断したぜ」
やっと見つけた手掛かりを見失ってなるものかと人混みを掻き分けながら走り出す。
曲がり角の手前で一度立ち止まったオーディックは、少しだけ顔を覗かせ小道の先を焦りながら確かめる。
大通りと違いそれに面して下町へと続く道の多くは人口増加に伴う増改築によって半ば迷宮の様な複雑さを醸し出している為、そこを生活圏としている一般市民ならば兎も角、そんな土地勘も無い貴族であるオーディックならば一度見失うと探すのにも一苦労する事は容易に予想出来たからだ。
既に更なる曲がり角に姿を消しているのならば、実質追跡は不可能だろう。
オーディックは祈る思いで目標の影を探した。
「はぁ良かった。まだのこのこ歩いていやがったか」
探していた後姿を見付けたオーディックは安堵の溜息を吐く。
さて尾行を再開しようとしたのだが、通りに入り掛けた所で再度大通りへと出戻った。
何故かと言うと大通りから逸れた分、人通りはかなり少なくなっている。
それは尾行の難しさを意味していた。
一応調査任務と言う事から貴族然とした普段着とは違い、一般市民が着る様な地味目の服に身を包みハッチング帽を目深に被って変装しているものの、人通りが少なければ効果は半減だ。
しかもトレードマークである赤髪は二代前にベルクヴァイン家に嫁いで来た隣国の貴族家令嬢の隔世遺伝によるものであり、この国では珍しい髪色である事も大きな理由となっている。
尾行相手が自身の事を知らない人物なら早々気付かれないだろうが、目標は互いに知る相手でもあった。
遠目でも視界に入っただけで気付かれるかもしれない。
これならばウイッグでも被っていれば良かったかと後悔したが今更遅い話だ。
見失う危険性も有るが、尾行に気付かれては元も子もない。
オーディックは相手が曲がり角を曲がるまで手前の角から遠巻きに追う作戦を取る事にした。
◇◆◇
「……あの建物に何の用が有るんだ?」
何度かの曲がり角の先、集合住宅の様な建物が何棟か建ち並ぶ場所に到着した。
その建物は五階建てなのだが、建てられてから相当の年月が経っているのだろう。
親の年齢どころか下手したら祖父の幼少より更に過去に遡るのでは? そう思わせる。
それらは軒並み外壁の漆喰が所々ひびが入っており、まるで打ち捨てられた廃墟かと錯覚したほどだ。
その考えを押し止めたのは窓ガラスのどれも割れていなかったからである。
もしかすると今でも誰かが住んでいるのだろうか? だが、こんな所に人が住めるのか?
庶民の生活を詳しく知らないオーディックはそう思いながら眉をひそめた。
しかも、周囲を見渡すとその建物だけと言う訳ではなく周辺全体が同じ様相を呈している。
それもその筈、ここはおよそ目標の人物の身分とは縁遠い下町の更に奥、下手したらスラムと言う言葉が似合いそうな雰囲気を醸し出している王都の中でもある意味見捨てられた旧市街地と呼ばれる地区であった。
度重なる王都の拡張工事でもこの場所は永らく手が付けられていない。
何故ならこの区域の先に見える城壁の外のすぐ側に大きな川が流れており、これ以上城壁を外部に拡張して開発する事が出来ないので王都開発計画から外された為だった。
その所為で今では住む者も減り空き家が目立つ。
それどころか先程から誰ともすれ違わない。
尾行している現在ある意味ありがたい事ではあるのだが、これではまるでゴーストタウンと錯覚する。
この場所の存在は資料の上では知っていたオーディックだったが、実際目にした感想としては本当にここは王都なのか? と、ショックを受けた程だ。
目標の人物はその建物の一つへと入って行った。
運良く途中で気付かれた様子もない。
この様な場所に用が有るなど自らの推理を補強する材料になるとオーディックはほくそ笑んだ。
「やっと尻尾を掴んだぜ。今までも怪しいの塊だったが、いくら調べても証拠を掴ませなかったからな」
オーディックはその建物からは見えない角度で回り込みながら一階の窓の側に張り付いた。
そして気付かれないように窓の中をこっそりと伺う。
どうやらそこはエントランスのようだ。
丁度目標の人物が上層階に続く結構な急勾配の階段を上っているのが見えた。
階段の横には一階の部屋に繋がる廊下が見えたが、明かりも無くその奥は薄暗く伺い知れない。
蜘蛛の巣が張り埃積もるその様子からすると、およそ人が住んでいるとは思えなかった。
「やっぱり廃墟じゃねぇか。と言う事は誰かと待ち合わせでもしてるってぇのか?」
やがて階段を上り切り目標の人物が二階へと姿を消したのを見計らってオーディックは玄関の扉までやって来た。
そしてノブに手を掛けゆっくりと回す。
「お? 鍵は掛かってねぇようだな」
鍵を掛ける音が聞こえなかったので開いているのは分かっていた事なのだが、今まで尻尾も掴ませなかったくらい用心深い相手だっただけに少しばかり拍子抜けをしたのだった。
まぁ油断するとはこう言う事なのだろうとオーディックは鍵の開いている場所を探す手間が省けた事に喜ぶ。
そして開く音が鳴らない様に慎重に扉を開けた。
目標の人物は上の階に姿を消したとは言え、ここは誰も住んでいない静まり返った建物の中である。
普通に扉を開ける音さえ響き渡る可能性が高い。
ゆっくり……ゆっくりと……。
「……よし」
自分が通れる隙間だけ扉を開いたオーディックはスルッと身体を建物の中に忍び込ませた。
自身の耳には自ら発した音は入って来ない。
幾ら静まり返った建物の中とは言え、これなら奴に聞かれてはいない筈だ。
オーディックは小さくガッツポーズを取った。
だがしかしこれで終わりではない。
奴を追うには床と階段と言う難敵が待ち構えている。
これだけ古い建物なのだ。
音を出さずに移動するには相当気を付けなければ難しい。
オーディックは傍から見たら奇妙な格好の忍び足で少しづつ進んでいく。
「しかし、近くで見たら壁みてぇだな。庶民の家って皆こうなのか?」
なんとか音を出さずに階段まで辿り着いたオーディックは目の前にそそり立つ急勾配な階段を仰ぎ見た。
王国でも有数の権力を持つ公爵家に生まれ、幼い頃から宮殿と見紛うばかりの豪邸に住んでいたオーディックは、派閥入りの為に子爵を叙爵し公爵家から出たとは言え今でもそれなりの屋敷に住んでいる。
大きな敷地に大きな屋敷を見て育ったオーディックにとって、この様な狭い敷地に無理矢理作ったような庶民向け集合住宅は馴染みのない物だった。
階段の角度が急なのも狭い敷地を如何に有効活用するかの知恵の結果だろうと感心しする。
天井を見上げると真上に似た様な角度の傾斜が三階と思われる場所まで続いている見えた。
どうやら同じ向きの階段が一階毎に造られており、廊下をぐるっと回って次の階に上る構造の様だ。
最上階の人間は大変だなと、かつての住人に対して同情した。
『こんなんだから住人が居なくなったんじゃねぇの?』
そんな冗談が脳裏に浮かんだ。
ギシリッ……ギシリ……
上の階で誰かが階段を上る音が聞こえて来た。
目標はいまだ追っ手である自分の存在に気付いていないようだ。
オーディックは息を殺して様子を窺う。
階段を登っては廊下を歩くと言う音が暫く続いたかと思うとバタンと言う扉が閉まる音が聞こえて来た。
どうやら目的地はその部屋か。
部屋に入ったのなら多少の音がしても気付かれにくいだろう、目標の人物を追い詰めたと確信したオーディックは階段を上り始める事にした。
と言ってもスタスタと言う感じではなく、念には念を入れて出来るだけ気付かれなくする為にまるで崖登りの要領で四つん這いのような体勢を取り一歩一歩確実に登っていく。
端から見ると間抜けだが、これだけの急勾配だと手で軋み具合を確認出来るこの方法が確実である。
実際に手で触ってみるとかなり傷んでいるらしく下手すると板を踏み抜く可能性すらあったのでこれが正解であった。
「あいつよくこんな階段を普通に登るよな」
窓の外から確認した際には特に気遣う風もなく手摺も持たずに登って行っていた。
それだけこの建物の傷み具合を熟知しているのか、それとも優れた身の熟しを持つ者なのか……。
「いや、ねぇな。あいつは腕の方はからっきしだしよ」
オーディックは目標の人物を思い浮かべながら這い上って行った。
初めて出会った時から何処か自分の事を敵視していたように思う。
普段は飄々として他の人物に対する応対と然程変わらないのだが、ふと気付いた時にジッと睨む様な眼差しを向けている時が幾度もあった。
その眼には憎悪にも似た色を感じる。
大体の原因は分かっていた。
それは勿論自身の想い人に関係する事であろう。
幼馴染の立場に嫉妬しているのか、それとも悪女になるのを止めなかった事に対して怒っているのか。
いずれにせよそんな色恋感情によるものだと思っていた。
要するに想い人を巡る恋のライバルとして認識していたのだ。
いつかは決着を付けないといけないだろうと、ある意味その日を心待ちにしていた。
だが最近になってその背後には王国に対する陰謀の影が見え隠れする事を知る。
ただ証拠の裏付けが取れない為、表立って糾弾するとそれこそ藪蛇、果ては国際問題にも発展し得る事態を招きかねず、秘密裏に事を進める必要が有った。
しかし事態は急転直下の展開を迎える事となる。
それは死んだと思われていた旧友を山賊討伐で遠征した際に偶然助けた事に始まった。
それが合図かの様にそれまでは緩やかにしかし確実に渦巻いていた陰謀の影が突如動き出したのだ。
そのカウンターとしてバルモア卿がある秘密の任務を帯びて隣国へと旅立つタイミングで想い人は突然人格が変った……いや、元の優しい自分を取り戻した。
全てが繋がっているように思える。
思い返せばこれまでの王国に対する数々のきな臭い工作も全ては想い人に対してのものだったのかとさえ感じた。
「ふっ、まさかな。さすがにそれは無いだろ。いくらローズの為だと言っても国を巻き込んで……」
やっと階段の終わりが見えて来たオーディックは、二階の廊下に手を掛けて自嘲気味にそう呟いた。
そして二階の様子を確かめようと顔を上げた所で言葉を止める。
何故ならば上げた視線の先に信じられないものを見たからだった。
足……。
ハイヒールを履いている女性の足だ。
それに赤いドレスの裾が見えた。
既視感が有るそのドレス。
オーディックは恐る恐る顔を上げる。
そして頭が真っ白になって息を呑んだ。
ここに居る筈のない人物。
目線の先、その赤いドレスの女性が微笑みながら茫然とした顔で固まっているオーディックに声を掛けて来た。
「あら、オーディック様。私がどうかしましたか?」
その声を聞いたオーディックは反射的に立ち上がる。
しかし急勾配である為にバランスを崩して足元がおぼつかない。
「な、なんでここに居るんだ!?」
体勢を戻そうとしながらも目の前の人物にそう尋ねた。
ここに居る筈がない。
何故ならば王都から離れているからだ。
しかし、この顔この声このドレスどこを見ても自分の想い人の姿である。
緩くカーブを描きながら伸びる薄暗い廃墟の中でさえ輝きを放つかのような金髪。
そして大空と海の色を混ぜ合わせた様な碧眼。
白き肌にぷるりと弾む様な瑞々しい赤い唇。
これは確かに想い人……? けど……どこか……?
オーディックは目の前の人物に少し違和感を覚えた。
想い人にしか見えないのに想い人でない……心がそう声を上げる。
いや、ちょっと待て、そもそも当初の調査目的は……?
その事を思い出そうとした瞬間――。
「ねぇ、こんな所で何してるのーーー?」
突然背後から大声で呼び止められた。
この声も良く知る人物だがここに居る筈もない者の声。
オーディックはいまだ体勢が整わぬ状態のまま慌てて振り返った。
やはり振り返った先には想像していた声の主が笑顔でこちらを見ている。
それはここ数日ほど奴と同じくサロンに姿を見せなかった人物だ。
次から次と信じられない事が立て続けに起こったオーディックは、冷静さを失い先程思い至った違和感の事など脳裏から消えた。
状況が分からぬまま思わず口から言葉が漏れる。
「お前の方こそ、ここで何を……」
ドンッ! 「え?」
階下で見上げている人物に投げ掛けた言葉が紡ぎ終わる前に、突然上から誰かに身体を強く押された。
危ないと思った時にはもう遅い。
只でさえ混乱覚めやらぬ中、足元がおぼつかない状態では如何に身体能力に優れるオーディックでさえ踏ん張りが利かず、空中に投げ出される形で足を滑らせた。
しかしさすがはオーディック、その身体能力の高さは伊達ではない。
身の危険を感じた本能が無意識に反応して空中で受身を取ろうと身体を捻る。
だが、オーディックはその受身の体勢を完了する事はなかった。
正しくは出来なかったと言うべきか。
不格好なまま空中を落下するオーディックの視線は一つの場所を凝視している。
それは階段の先、二階から見下ろす想い人の姿だった。
その想い人は怪しく微笑み手を突き出している。
それが意味する事は一つだ。
自分を突き落としたのは想い人……。
それだけじゃない、上の階の部屋に入った筈のあいつが、いつのまにか想い人の横に立っていた。
その顔には想い人と同じ表情で自分を嘲笑っていた。
まるでスローモーションのように時間の流れがゆっくりと過ぎて行く。
満足そうに頷くあいつは、自分に対してあてつける様に優しく想い人の肩を抱き……。
「そ、そんな……」
オーディックの思考は既に形を留めていない。
様々な『何故?』が纏まる事なく脳裏を駆け巡る。
想い人が笑いながら自分を突き落とした。
そしてあいつに肩を抱かれている。
二人は俺を殺そうと……。
ドーーンッ! グワッシャーン。バキバキ。
動きを止めたオーディックはなす術も無くエントランスまで落下した。
只でさえ廃墟と見紛うこの建物はその衝撃に耐えられる筈も無く、エントランスの板材は凄まじい音を立てながら大穴を開け、オーディックは床下へと姿を消す。
「ケホッケホッ。凄い埃だよ。おーい、生きてるぅ~?」
全身を強く打ちその激痛で薄れゆく意識の中、目をうっすら開けると闇にぽっかりと開いた穴が見えた。
息も絶え絶えなオーディックはそれが自身が床を突き破った跡だと気付く筈もない。
ただ幸いな事にそれがクッションとなって落下の衝撃を吸収したお陰で一命は取り留めたようだ。
「うぅっ……」
何か言葉を紡ごうとしたが呻き声しか出ない。
痛みに耐え抜く中、脳裏に浮かぶは想い人の事ばかり。
「ロ……ロー……ズ」
呻き声に交じり想い人の名が零れる。
「あっ! 生きてるみたい。プププ『ローズ』だって」
「いや~さすがに焦ったね。まさか無様に落下するなんて。まぁ死んでもそれはそれで良かったんだが、出来るなら手駒になって欲しかったんだ。新しい薬の実験台になって貰うよ」
「しかし、簡単に引っ掛かってくれたねぇ」
「彼は単純だからね。自分が優位なのだと思わせるだけで簡単なものさ」
頭上の穴から誰かが覗き込みながら喋っている声が聞こえる。
逆光の所為で顔は分からない。
既にその声も誰の物なのか、そして何を言っているのかさえ今のオーディックには分からなくなっていた。
「ロ……ローズ……」
もう一度振り絞る声で想い人の名を呼んだ。
奴に肩を抱かれている想い人の姿が脳裏に焼き付いている。
それが幻想だと思いたかった。
「ほらお呼びだよ。何か声を掛けてあげたら? 我が愛しきローズ」
「あははははは、オーディック様。無様ですわね。私この方とお付き合いする事にしましたの。あなたとはここでさよならですわ」
絶望を突きつける想い人の声が聞こえて来た。
それが本人によるものかは既に意味を成さない。
名を呼んでそれに答えた者がそう言ったのだ。
オーディックの中ではその言葉は想い人の言葉と同等の意味を持っていた。
「あっ……あ……」
オーディックの自我はそこで停止した。
全身を苛む痛みは意識の覚醒を促すが、既に覚醒する意識は霧散している。
絶望の水底にただ沈んでゆくのみだった。
人知れず廃墟の中、王国の崩壊を告げる序曲は静かに始まる。
昨日から王都を騒がす噂の出所を一人調査していたオーディックは大通りを行き交う人々の中、偶然目線の端に捉えた人物に反応してサッと身を隠した。
人通りが多かった事が幸いしたようで、その人物はこちらに気付いた様子も無いようだ。
噂そのものではないのだが、十中八九関与していると思われる。
無視出来るものではない。
オーディックは調査対象をその人物に切り替える事にした。
人通りの影に身を潜める様に尾行しながら様子を窺っていたのだが、完全に油断しているのだろう。
目標は別段変わった様子も無く、ただ通りに面している店のショーウィンドウに目を向けてウィンドウショッピングを楽しんでいるようだ。
まるで先日の件が嘘の様なその振る舞いにオーディックは少しだけ違和感を覚えたが、過去に何度か今日の様に大通りで見掛けた際も同じ様子であったので、これがこの人物にとっての素の顔と言うものなのだろう。
オーディックは半ば呆れる気持ちでそう解釈した。
「……え? くっ! 何処に行った?」
暫くそんな状態が続いていたのだが、突然目標の人物が視界から消えた事にオーディックは声を上げる。
いや、実際に消えた訳ではなく大通りから逸れて下町へと続く道の角を曲がっただけなのだが、その寸前まで曲がる素振りも見せなかった為、意表を突かれたと言うのが正しいだろう。
すぐその事実に気付いたオーディックは軽く頭を振って思考を切り替えた。
「ちっ、油断したぜ」
やっと見つけた手掛かりを見失ってなるものかと人混みを掻き分けながら走り出す。
曲がり角の手前で一度立ち止まったオーディックは、少しだけ顔を覗かせ小道の先を焦りながら確かめる。
大通りと違いそれに面して下町へと続く道の多くは人口増加に伴う増改築によって半ば迷宮の様な複雑さを醸し出している為、そこを生活圏としている一般市民ならば兎も角、そんな土地勘も無い貴族であるオーディックならば一度見失うと探すのにも一苦労する事は容易に予想出来たからだ。
既に更なる曲がり角に姿を消しているのならば、実質追跡は不可能だろう。
オーディックは祈る思いで目標の影を探した。
「はぁ良かった。まだのこのこ歩いていやがったか」
探していた後姿を見付けたオーディックは安堵の溜息を吐く。
さて尾行を再開しようとしたのだが、通りに入り掛けた所で再度大通りへと出戻った。
何故かと言うと大通りから逸れた分、人通りはかなり少なくなっている。
それは尾行の難しさを意味していた。
一応調査任務と言う事から貴族然とした普段着とは違い、一般市民が着る様な地味目の服に身を包みハッチング帽を目深に被って変装しているものの、人通りが少なければ効果は半減だ。
しかもトレードマークである赤髪は二代前にベルクヴァイン家に嫁いで来た隣国の貴族家令嬢の隔世遺伝によるものであり、この国では珍しい髪色である事も大きな理由となっている。
尾行相手が自身の事を知らない人物なら早々気付かれないだろうが、目標は互いに知る相手でもあった。
遠目でも視界に入っただけで気付かれるかもしれない。
これならばウイッグでも被っていれば良かったかと後悔したが今更遅い話だ。
見失う危険性も有るが、尾行に気付かれては元も子もない。
オーディックは相手が曲がり角を曲がるまで手前の角から遠巻きに追う作戦を取る事にした。
◇◆◇
「……あの建物に何の用が有るんだ?」
何度かの曲がり角の先、集合住宅の様な建物が何棟か建ち並ぶ場所に到着した。
その建物は五階建てなのだが、建てられてから相当の年月が経っているのだろう。
親の年齢どころか下手したら祖父の幼少より更に過去に遡るのでは? そう思わせる。
それらは軒並み外壁の漆喰が所々ひびが入っており、まるで打ち捨てられた廃墟かと錯覚したほどだ。
その考えを押し止めたのは窓ガラスのどれも割れていなかったからである。
もしかすると今でも誰かが住んでいるのだろうか? だが、こんな所に人が住めるのか?
庶民の生活を詳しく知らないオーディックはそう思いながら眉をひそめた。
しかも、周囲を見渡すとその建物だけと言う訳ではなく周辺全体が同じ様相を呈している。
それもその筈、ここはおよそ目標の人物の身分とは縁遠い下町の更に奥、下手したらスラムと言う言葉が似合いそうな雰囲気を醸し出している王都の中でもある意味見捨てられた旧市街地と呼ばれる地区であった。
度重なる王都の拡張工事でもこの場所は永らく手が付けられていない。
何故ならこの区域の先に見える城壁の外のすぐ側に大きな川が流れており、これ以上城壁を外部に拡張して開発する事が出来ないので王都開発計画から外された為だった。
その所為で今では住む者も減り空き家が目立つ。
それどころか先程から誰ともすれ違わない。
尾行している現在ある意味ありがたい事ではあるのだが、これではまるでゴーストタウンと錯覚する。
この場所の存在は資料の上では知っていたオーディックだったが、実際目にした感想としては本当にここは王都なのか? と、ショックを受けた程だ。
目標の人物はその建物の一つへと入って行った。
運良く途中で気付かれた様子もない。
この様な場所に用が有るなど自らの推理を補強する材料になるとオーディックはほくそ笑んだ。
「やっと尻尾を掴んだぜ。今までも怪しいの塊だったが、いくら調べても証拠を掴ませなかったからな」
オーディックはその建物からは見えない角度で回り込みながら一階の窓の側に張り付いた。
そして気付かれないように窓の中をこっそりと伺う。
どうやらそこはエントランスのようだ。
丁度目標の人物が上層階に続く結構な急勾配の階段を上っているのが見えた。
階段の横には一階の部屋に繋がる廊下が見えたが、明かりも無くその奥は薄暗く伺い知れない。
蜘蛛の巣が張り埃積もるその様子からすると、およそ人が住んでいるとは思えなかった。
「やっぱり廃墟じゃねぇか。と言う事は誰かと待ち合わせでもしてるってぇのか?」
やがて階段を上り切り目標の人物が二階へと姿を消したのを見計らってオーディックは玄関の扉までやって来た。
そしてノブに手を掛けゆっくりと回す。
「お? 鍵は掛かってねぇようだな」
鍵を掛ける音が聞こえなかったので開いているのは分かっていた事なのだが、今まで尻尾も掴ませなかったくらい用心深い相手だっただけに少しばかり拍子抜けをしたのだった。
まぁ油断するとはこう言う事なのだろうとオーディックは鍵の開いている場所を探す手間が省けた事に喜ぶ。
そして開く音が鳴らない様に慎重に扉を開けた。
目標の人物は上の階に姿を消したとは言え、ここは誰も住んでいない静まり返った建物の中である。
普通に扉を開ける音さえ響き渡る可能性が高い。
ゆっくり……ゆっくりと……。
「……よし」
自分が通れる隙間だけ扉を開いたオーディックはスルッと身体を建物の中に忍び込ませた。
自身の耳には自ら発した音は入って来ない。
幾ら静まり返った建物の中とは言え、これなら奴に聞かれてはいない筈だ。
オーディックは小さくガッツポーズを取った。
だがしかしこれで終わりではない。
奴を追うには床と階段と言う難敵が待ち構えている。
これだけ古い建物なのだ。
音を出さずに移動するには相当気を付けなければ難しい。
オーディックは傍から見たら奇妙な格好の忍び足で少しづつ進んでいく。
「しかし、近くで見たら壁みてぇだな。庶民の家って皆こうなのか?」
なんとか音を出さずに階段まで辿り着いたオーディックは目の前にそそり立つ急勾配な階段を仰ぎ見た。
王国でも有数の権力を持つ公爵家に生まれ、幼い頃から宮殿と見紛うばかりの豪邸に住んでいたオーディックは、派閥入りの為に子爵を叙爵し公爵家から出たとは言え今でもそれなりの屋敷に住んでいる。
大きな敷地に大きな屋敷を見て育ったオーディックにとって、この様な狭い敷地に無理矢理作ったような庶民向け集合住宅は馴染みのない物だった。
階段の角度が急なのも狭い敷地を如何に有効活用するかの知恵の結果だろうと感心しする。
天井を見上げると真上に似た様な角度の傾斜が三階と思われる場所まで続いている見えた。
どうやら同じ向きの階段が一階毎に造られており、廊下をぐるっと回って次の階に上る構造の様だ。
最上階の人間は大変だなと、かつての住人に対して同情した。
『こんなんだから住人が居なくなったんじゃねぇの?』
そんな冗談が脳裏に浮かんだ。
ギシリッ……ギシリ……
上の階で誰かが階段を上る音が聞こえて来た。
目標はいまだ追っ手である自分の存在に気付いていないようだ。
オーディックは息を殺して様子を窺う。
階段を登っては廊下を歩くと言う音が暫く続いたかと思うとバタンと言う扉が閉まる音が聞こえて来た。
どうやら目的地はその部屋か。
部屋に入ったのなら多少の音がしても気付かれにくいだろう、目標の人物を追い詰めたと確信したオーディックは階段を上り始める事にした。
と言ってもスタスタと言う感じではなく、念には念を入れて出来るだけ気付かれなくする為にまるで崖登りの要領で四つん這いのような体勢を取り一歩一歩確実に登っていく。
端から見ると間抜けだが、これだけの急勾配だと手で軋み具合を確認出来るこの方法が確実である。
実際に手で触ってみるとかなり傷んでいるらしく下手すると板を踏み抜く可能性すらあったのでこれが正解であった。
「あいつよくこんな階段を普通に登るよな」
窓の外から確認した際には特に気遣う風もなく手摺も持たずに登って行っていた。
それだけこの建物の傷み具合を熟知しているのか、それとも優れた身の熟しを持つ者なのか……。
「いや、ねぇな。あいつは腕の方はからっきしだしよ」
オーディックは目標の人物を思い浮かべながら這い上って行った。
初めて出会った時から何処か自分の事を敵視していたように思う。
普段は飄々として他の人物に対する応対と然程変わらないのだが、ふと気付いた時にジッと睨む様な眼差しを向けている時が幾度もあった。
その眼には憎悪にも似た色を感じる。
大体の原因は分かっていた。
それは勿論自身の想い人に関係する事であろう。
幼馴染の立場に嫉妬しているのか、それとも悪女になるのを止めなかった事に対して怒っているのか。
いずれにせよそんな色恋感情によるものだと思っていた。
要するに想い人を巡る恋のライバルとして認識していたのだ。
いつかは決着を付けないといけないだろうと、ある意味その日を心待ちにしていた。
だが最近になってその背後には王国に対する陰謀の影が見え隠れする事を知る。
ただ証拠の裏付けが取れない為、表立って糾弾するとそれこそ藪蛇、果ては国際問題にも発展し得る事態を招きかねず、秘密裏に事を進める必要が有った。
しかし事態は急転直下の展開を迎える事となる。
それは死んだと思われていた旧友を山賊討伐で遠征した際に偶然助けた事に始まった。
それが合図かの様にそれまでは緩やかにしかし確実に渦巻いていた陰謀の影が突如動き出したのだ。
そのカウンターとしてバルモア卿がある秘密の任務を帯びて隣国へと旅立つタイミングで想い人は突然人格が変った……いや、元の優しい自分を取り戻した。
全てが繋がっているように思える。
思い返せばこれまでの王国に対する数々のきな臭い工作も全ては想い人に対してのものだったのかとさえ感じた。
「ふっ、まさかな。さすがにそれは無いだろ。いくらローズの為だと言っても国を巻き込んで……」
やっと階段の終わりが見えて来たオーディックは、二階の廊下に手を掛けて自嘲気味にそう呟いた。
そして二階の様子を確かめようと顔を上げた所で言葉を止める。
何故ならば上げた視線の先に信じられないものを見たからだった。
足……。
ハイヒールを履いている女性の足だ。
それに赤いドレスの裾が見えた。
既視感が有るそのドレス。
オーディックは恐る恐る顔を上げる。
そして頭が真っ白になって息を呑んだ。
ここに居る筈のない人物。
目線の先、その赤いドレスの女性が微笑みながら茫然とした顔で固まっているオーディックに声を掛けて来た。
「あら、オーディック様。私がどうかしましたか?」
その声を聞いたオーディックは反射的に立ち上がる。
しかし急勾配である為にバランスを崩して足元がおぼつかない。
「な、なんでここに居るんだ!?」
体勢を戻そうとしながらも目の前の人物にそう尋ねた。
ここに居る筈がない。
何故ならば王都から離れているからだ。
しかし、この顔この声このドレスどこを見ても自分の想い人の姿である。
緩くカーブを描きながら伸びる薄暗い廃墟の中でさえ輝きを放つかのような金髪。
そして大空と海の色を混ぜ合わせた様な碧眼。
白き肌にぷるりと弾む様な瑞々しい赤い唇。
これは確かに想い人……? けど……どこか……?
オーディックは目の前の人物に少し違和感を覚えた。
想い人にしか見えないのに想い人でない……心がそう声を上げる。
いや、ちょっと待て、そもそも当初の調査目的は……?
その事を思い出そうとした瞬間――。
「ねぇ、こんな所で何してるのーーー?」
突然背後から大声で呼び止められた。
この声も良く知る人物だがここに居る筈もない者の声。
オーディックはいまだ体勢が整わぬ状態のまま慌てて振り返った。
やはり振り返った先には想像していた声の主が笑顔でこちらを見ている。
それはここ数日ほど奴と同じくサロンに姿を見せなかった人物だ。
次から次と信じられない事が立て続けに起こったオーディックは、冷静さを失い先程思い至った違和感の事など脳裏から消えた。
状況が分からぬまま思わず口から言葉が漏れる。
「お前の方こそ、ここで何を……」
ドンッ! 「え?」
階下で見上げている人物に投げ掛けた言葉が紡ぎ終わる前に、突然上から誰かに身体を強く押された。
危ないと思った時にはもう遅い。
只でさえ混乱覚めやらぬ中、足元がおぼつかない状態では如何に身体能力に優れるオーディックでさえ踏ん張りが利かず、空中に投げ出される形で足を滑らせた。
しかしさすがはオーディック、その身体能力の高さは伊達ではない。
身の危険を感じた本能が無意識に反応して空中で受身を取ろうと身体を捻る。
だが、オーディックはその受身の体勢を完了する事はなかった。
正しくは出来なかったと言うべきか。
不格好なまま空中を落下するオーディックの視線は一つの場所を凝視している。
それは階段の先、二階から見下ろす想い人の姿だった。
その想い人は怪しく微笑み手を突き出している。
それが意味する事は一つだ。
自分を突き落としたのは想い人……。
それだけじゃない、上の階の部屋に入った筈のあいつが、いつのまにか想い人の横に立っていた。
その顔には想い人と同じ表情で自分を嘲笑っていた。
まるでスローモーションのように時間の流れがゆっくりと過ぎて行く。
満足そうに頷くあいつは、自分に対してあてつける様に優しく想い人の肩を抱き……。
「そ、そんな……」
オーディックの思考は既に形を留めていない。
様々な『何故?』が纏まる事なく脳裏を駆け巡る。
想い人が笑いながら自分を突き落とした。
そしてあいつに肩を抱かれている。
二人は俺を殺そうと……。
ドーーンッ! グワッシャーン。バキバキ。
動きを止めたオーディックはなす術も無くエントランスまで落下した。
只でさえ廃墟と見紛うこの建物はその衝撃に耐えられる筈も無く、エントランスの板材は凄まじい音を立てながら大穴を開け、オーディックは床下へと姿を消す。
「ケホッケホッ。凄い埃だよ。おーい、生きてるぅ~?」
全身を強く打ちその激痛で薄れゆく意識の中、目をうっすら開けると闇にぽっかりと開いた穴が見えた。
息も絶え絶えなオーディックはそれが自身が床を突き破った跡だと気付く筈もない。
ただ幸いな事にそれがクッションとなって落下の衝撃を吸収したお陰で一命は取り留めたようだ。
「うぅっ……」
何か言葉を紡ごうとしたが呻き声しか出ない。
痛みに耐え抜く中、脳裏に浮かぶは想い人の事ばかり。
「ロ……ロー……ズ」
呻き声に交じり想い人の名が零れる。
「あっ! 生きてるみたい。プププ『ローズ』だって」
「いや~さすがに焦ったね。まさか無様に落下するなんて。まぁ死んでもそれはそれで良かったんだが、出来るなら手駒になって欲しかったんだ。新しい薬の実験台になって貰うよ」
「しかし、簡単に引っ掛かってくれたねぇ」
「彼は単純だからね。自分が優位なのだと思わせるだけで簡単なものさ」
頭上の穴から誰かが覗き込みながら喋っている声が聞こえる。
逆光の所為で顔は分からない。
既にその声も誰の物なのか、そして何を言っているのかさえ今のオーディックには分からなくなっていた。
「ロ……ローズ……」
もう一度振り絞る声で想い人の名を呼んだ。
奴に肩を抱かれている想い人の姿が脳裏に焼き付いている。
それが幻想だと思いたかった。
「ほらお呼びだよ。何か声を掛けてあげたら? 我が愛しきローズ」
「あははははは、オーディック様。無様ですわね。私この方とお付き合いする事にしましたの。あなたとはここでさよならですわ」
絶望を突きつける想い人の声が聞こえて来た。
それが本人によるものかは既に意味を成さない。
名を呼んでそれに答えた者がそう言ったのだ。
オーディックの中ではその言葉は想い人の言葉と同等の意味を持っていた。
「あっ……あ……」
オーディックの自我はそこで停止した。
全身を苛む痛みは意識の覚醒を促すが、既に覚醒する意識は霧散している。
絶望の水底にただ沈んでゆくのみだった。
人知れず廃墟の中、王国の崩壊を告げる序曲は静かに始まる。
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