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第五章 また逢う日まで
第85話 温もり
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「お母様! お母様!」
眩い光の中、優しく微笑む母の姿を見付けた幼いローズが駆け出した。
『大好きなお母様、こんな綺麗で優しい人の娘に生まれて自分はなんて幸せなのでしょう』
ローズは物心ついた時よりいつもそう思っていた。
『あぁ、一生懸命走っているのにお母様に近づけない』
ローズは力の限り足に力を入れて駆けているのだが、微笑んでいる母との距離が永遠であるかのように長く感じられた。
『あとちょっと、あとちょっと』
それでも走るのを止めず、息も上がり横腹が激しく痛むのも堪えて走るローズは母にあと少し手を伸ばせば届く所まで近付いた。
「お母様!」
大好きな母を抱き締めようと飛び付いたローズの手は虚しく空を切る。
今そこに居た筈の母の姿は消えていた。
「お母様? お母様! どこに……何処に行ったのですか?」
突然母の姿が消えた事に取り乱しながらローズは一心不乱に辺りを見回して母を呼んだ。
先程まで光に溢れていた辺りの様子は一変し、光は消え全て闇に閉ざされていた。
幼いローズは不安に駆られその場にしゃがみ込み自らの肩を抱いて震えている。
ただ母を求める声だけは闇に響いていた。
「ごめんなさい、ローズ。仕事が忙しくて今から出掛けないといけないの。暫く留守にするけどローズは強い子だもんね。良い子にしてお留守番をお願いね」
闇に響いた言葉と共に、まるで一筋のスポットライトに照らされたかの様に母の姿が浮かび上がった。
『そう、お母様はとても忙しい。王国の皆の為に頑張ってる。私はお母様に心配掛けちゃダメなの』
闇の中で震えて蹲っていたローズは、いつの間にか料理が並ぶテーブルを前にして椅子に座っている。
辺りの景色も屋敷の食堂の風景に変わっていた。
ローズは食堂の扉の前に立つ母に顔を向けて微笑んだ。
「はい! お母様! ローズは一人でも大丈夫です。だって屋敷には使用人の皆が居てくれるのですもの」
その言葉を聞いた母は優しく微笑みながら食堂の扉を開けて出て行った。
『お母様いかないで! すっとそばに居て!』
母の後姿を見ながらそう心の中で叫んだが口には出さなかった。
いや、出せなかった。
『お母様は皆の為に頑張っているんですもの。寂しいくらいなによ。私も頑張らないといけないわ』
自分の心に渦巻く寂しいと言う想いに蓋をして、自分にそう言い聞かせた。
そして、ローズはテーブルに並べられていた皿の中から母から貰った銀の皿を手に取り、そこから母の温もりを感じようとギュッと胸に抱き締めた。
この皿は、母がこの屋敷に嫁いで来た際に嫁入り道具として持参した中でも最も古い物らしい。
代々母の家系に伝わり遡れば王家伝来の品との事だ。
本来は母の家から門外不出、当主が受け継いで行く筈だった物らしい。
幼いローズはその美麗な彩色に惹かれ母に『この皿が欲しい』とねだった。
母は最初戸惑いながらも少し困った顔をして笑い掛けて来た。
「私も小さい頃、お母様。あぁローズにとったらお婆様に同じ様にねだったのよ」
そう笑いながら母はその皿をローズに渡した。
これが最初で最後の母に対するローズの我がままとなる。
また場面が変った。
周囲の風景は屋敷の中庭。
時刻は早朝の様だ。
昨日も遅く帰宅したと言うのに母は朝から中庭に咲いている薔薇の花を嬉しそうに眺めていた。
この薔薇は王城の中庭に咲く薔薇から刺し木された物らしい。
その広さは王宮に及ぶべくもないが、その見事さは庭師の絶え間無い努力により王宮の薔薇園に匹敵すると言われている。
母はこの庭が大好きであった。
いつか『ここに居ると癒されるの』と言っていたの思い出す。
「お母様、ここに居られたのですか」
母を見付けたローズはそう声を掛けながら速足で近付く。
最近は特に家を空ける事が多く、なかなか話す機会が無い。
それでも母に迷惑が掛からないようにとローズは母の居ない寂しさに堪えていた。
しかし、今なら母と久し振りにゆっくり会話出来るのではないか?
抱き締めてくれるのではないか?
そんな期待が胸を躍る。
「ローズ、ごめんなさいね」
突然母はそう言ってこちらを顔を向けて来た。
その顔を見たローズは思わずその場で立ち止まる。
それは理由無く謝って来た所為じゃない。
ローズの目に映った母はいつもの様に輝きに溢れる眩いばかりの美しい姿ではなく、どこか……。
そう何処かとてもか細く今にも消えてしまいそうなろうそくの炎の様に見えたのだ。
よく見ると顔色も良くない。
目の下には隈の様な物が浮かんでいる。
心配になったローズは慌てて母の元に駆け寄った。
「お母様! 大丈夫ですか?」
そう言って母を抱き締めようと伸ばした手は、またもや虚しく空を切る事となる。
母はローズの手をすり抜け、そのまま薔薇の匂い香る中庭に崩れ落ちて行った。
そして最後の風景が辺りに映る。
ここは母の寝室だ。
今より更に幼い頃、この部屋で目の前にあるこの大きなベッドの上、二人一緒暖かい布団にくるまれながら絵本を読んで貰っていた事を思い出した。
大好きな母ともっと一緒に居たいからと、毎回絵本の最後まで起きていようと頑張っていたのだが、自分を包み込んでくれる優しい母の声とその温もりにいつも気付けば夢の中。
そんな幸せな記憶が詰まっている部屋だった。
しかし、今この部屋には悲しみで溢れている。
二人で一緒に寝ていたベッドの上には母が一人。
ぜぇぜぇと苦しそうな息で横たわっている。
母の手を強く握るが、返してくる力はとても弱い。
「ローズ……本当にごめんなさい。いつも側に居てあげられなく淋しい思いをさせたわね」
こんな短い言葉でも声に出すのが辛いのか、その命を削っているのが幼いローズでも理解出来た。
それ程までに母の姿は変わり果てていたのだ。
紅を差さずとも瑞々しく光を放つ唇はその色を失い、艶やかな肌は痩せこけ、髪もその輝きを失っている。
それでもローズの目には母は美しいままだった。
そう信じたかった。
当初はただの疲労だと医者は言っていた。
暫く安静にしていたらすぐに元気になるだろうと――。
しかし、日に日に衰弱していく母の姿に、幼いながらもあの医者の言葉は自分を慰めようとするものだったのだと分かった。
それは父が、使用人が、見舞いに来てくれるお客様達が、その眼を以って語っていたからだ。
『母の命は長くない』
その事実を悟ったローズは、少しでも母を心配させまいと悲しみを笑顔に変える。
もう大好きな中庭を見る事が出来ない母に、日々移りゆく中庭の情景を語った。
毎日花束を母に送った。
ダメだと分かっていても、少しでも……、その最後の瞬間まで母には安らかなる安寧の日々を送って欲しい。
そう心に決めていたローズは、母が言った謝罪の言葉にも笑顔で応えた。
「そんな事無いわ、お母様。寂しくなんてありません。私はお母様の娘と言うだけで幸せなんです。早く良くなって一緒にお庭を歩きましょう。今咲いている薔薇は今まで以上にとても見事で綺麗なんですよ」
「まぁ……それは楽しみだわ。本当に……楽しみ……」
その言葉が母娘の最後の会話となった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「……お母様。……お母様」
闇に閉ざされた深い悲しみの中、ローズは母を求める声を上げる。
その闇には一片の光も母の気配も感じない。
ローズは闇の中で淋しさに押し潰されそうになりながら、ただ母を探してさ迷い歩く。
『…………』
どこか遠くから声が聞こえた気がした。
母を呼ぶ声を止め、ローズはその声のする方に顔を向けた。
『…………』
『…………』
『…………』
どうやら聞こえてくる声は、一人ではないようだ。
色々な声が混じっていた。
だが、音が小さすぎて何を言ってるのかまでは分からない。
しかし、ふとその声に聞き覚えがある様な気がして、ローズはその声が聞こえてくる方向に歩き出した。
『…………様!』
『…………ズ!』
『…………ませ!』
暫く進むと段々と声が聞き取れる様になってきた。
それぞれ皆が自分の事を呼んでいるようだ。
『この声は知っている!』
声の主が分かったローズは走り出した。
ローズの目に闇の中に浮かぶ光点が映る。
それが段々と大きくそして眩しく辺りを照らし出す。
やがてその光はローズを包み込み―――。
「……はっ!」
ローズは目を開けた。
そしてここは何処かと辺りを見回す。
すると身体を包む感触からベッドに寝ていると言う事は何となく分かった。
「ローズ様!! 良かった……お目覚めに……うぅ……」
「ローズ! 大丈夫なのか?」
「心配したぜローズ。何処か痛い所とかないか?」
先程闇の中で聞こえて来た声の主が、目を覚ましたローズに安堵の言葉を掛けて来た。
ローズはそれぞれの顔を確かめる。
「フレデリカ、それにシュナイザー様にオーディック様。ご心配をお掛けしてしまったようですね」
なぜ自分がここで寝ているのか?
なぜ皆が自分を心配そうな顔で見ていたのか?
まだ状況は把握してはいないが、皆が見せた安堵の表情から自分が心配させる何かをしたのだと理解したローズは、その心配を解くべく皆にそう微笑みかけたのだ。
「良かった……良がっだぁ……お嬢様~」
その笑顔を見たフレデリカは堪えていた感情の堰が切れたかの様に号泣し、ベッドに横たわるローズの身体に抱き付いて来た。
ローズはフレデリカの頭に手を当てて優しく撫でる。
『あらあら、こんなフレデリカは始めて見たわね。最近じゃ何故か達観した感じだったし、ゲームのフレデリカも感情豊かだったけど、喜怒哀楽の哀の感情だけは見せなかったのに』
号泣するフレデリカに戸惑いながらも、その涙が自分が無事だった事に向けている物だと言うのが伝わって来たので、ローズはとても嬉しく思った。
「ごめんなさい……シュナイザー様にオーディック様? 一体何が有ったのでしょうか?」
泣いているフレデリカに聞いてもズビズビと鼻を鳴らすばかりで会話にならないと思ったローズは、その大声で泣いているフレデリカの姿に驚いている二人に事情を尋ねる事にした。
「急に倒れたらしい」
シュナイザーがそう理由を告げた。
「倒れた……って、私がですか? ……あれ? そう言えば私って何をしていたのでしたっけ?」
倒れたからベッドで寝ている。
そして皆が心配していた。
なるほど、それは正しい反応だ。
ローズはシュナイザーの短い情報から自らの状況に納得しながらも、まだまだ全容を解明するには足りない情報を自らの意識に問い掛ける。
『え~と、覚えているのは……? 確か急に陛下からの呼び出しを受けたのよね? そして慌てて城にやって来た。そうそうそれはゲームの『王様からの出頭命令』さながらの……』
ローズは記憶を一つずつ掘り起こしていく。
王からの尋問、そしてその重圧に耐え切れなくなった。
『そうだわ、全てを思い出したのよ。私が本当にローズだった記憶。そしてお母様の愛を……』
あの時感じた心の中に居る二人のローズと母の温もり。
しかし、目覚めた今自分の中にその存在を感じる事は出来なくなっている事に気付いた。
だが、ローズには分かっている。
二人のローズは自分の中に溶け合い一つになったと言う事を。
そして母は天に還り空から見守ってくれている事を。
『……その後、謁見の間から退場したんだけど……。そこからの記憶が無いわ。何かあった筈なのよね……。 誰かと会った気がするんだけど……?』
何故だか謁見の間から立ち去った後の事が思い出せない。
まるで霧がかかった様に真っ白で、その片鱗だけがうっすらと輪郭を浮かべていた。
「ここは城の客間だ。何でも謁見の間を出た途端、倒れちまったんだとよ。医者が言うには心労が祟って倒れたって事だ。ったく、父上も陛下も何考えてんだ。ローズを追い詰める様な真似して……ぶつぶつ」
頭を捻っているローズを見兼ねたのかオーディックがそう説明してくれた。
忘れかけていた霧の向こうの記憶を掴みかけていたローズは、その言葉に記憶の尻尾を掴み損ね逃がしてしまう。
「あっ! なるほど~! だからそこで記憶が無いのね。オーディック様? 心配して下さるのは嬉しいのですが、陛下とお父様の事は悪く言わないであげて下さいまし。私はあの場に居た皆さまから勇気を頂いたのですから」
これは本当の事だ。
確かに陛下の尋問は自らの心労を募らせる事となった。
いまだになぜ自分を謁見の間に呼んだのか、その理由は分からない。
しかし、最後に陛下が言った『おぬしの改心は皆の祝福する所』と言う言葉には、自分の事を大切にしてくれていると言う想いが溢れていたのをローズは分かっていた。
皆からの温もりを感じる。
だから今は理由を語ってくれなくてもいい。
そう思えた。
眩い光の中、優しく微笑む母の姿を見付けた幼いローズが駆け出した。
『大好きなお母様、こんな綺麗で優しい人の娘に生まれて自分はなんて幸せなのでしょう』
ローズは物心ついた時よりいつもそう思っていた。
『あぁ、一生懸命走っているのにお母様に近づけない』
ローズは力の限り足に力を入れて駆けているのだが、微笑んでいる母との距離が永遠であるかのように長く感じられた。
『あとちょっと、あとちょっと』
それでも走るのを止めず、息も上がり横腹が激しく痛むのも堪えて走るローズは母にあと少し手を伸ばせば届く所まで近付いた。
「お母様!」
大好きな母を抱き締めようと飛び付いたローズの手は虚しく空を切る。
今そこに居た筈の母の姿は消えていた。
「お母様? お母様! どこに……何処に行ったのですか?」
突然母の姿が消えた事に取り乱しながらローズは一心不乱に辺りを見回して母を呼んだ。
先程まで光に溢れていた辺りの様子は一変し、光は消え全て闇に閉ざされていた。
幼いローズは不安に駆られその場にしゃがみ込み自らの肩を抱いて震えている。
ただ母を求める声だけは闇に響いていた。
「ごめんなさい、ローズ。仕事が忙しくて今から出掛けないといけないの。暫く留守にするけどローズは強い子だもんね。良い子にしてお留守番をお願いね」
闇に響いた言葉と共に、まるで一筋のスポットライトに照らされたかの様に母の姿が浮かび上がった。
『そう、お母様はとても忙しい。王国の皆の為に頑張ってる。私はお母様に心配掛けちゃダメなの』
闇の中で震えて蹲っていたローズは、いつの間にか料理が並ぶテーブルを前にして椅子に座っている。
辺りの景色も屋敷の食堂の風景に変わっていた。
ローズは食堂の扉の前に立つ母に顔を向けて微笑んだ。
「はい! お母様! ローズは一人でも大丈夫です。だって屋敷には使用人の皆が居てくれるのですもの」
その言葉を聞いた母は優しく微笑みながら食堂の扉を開けて出て行った。
『お母様いかないで! すっとそばに居て!』
母の後姿を見ながらそう心の中で叫んだが口には出さなかった。
いや、出せなかった。
『お母様は皆の為に頑張っているんですもの。寂しいくらいなによ。私も頑張らないといけないわ』
自分の心に渦巻く寂しいと言う想いに蓋をして、自分にそう言い聞かせた。
そして、ローズはテーブルに並べられていた皿の中から母から貰った銀の皿を手に取り、そこから母の温もりを感じようとギュッと胸に抱き締めた。
この皿は、母がこの屋敷に嫁いで来た際に嫁入り道具として持参した中でも最も古い物らしい。
代々母の家系に伝わり遡れば王家伝来の品との事だ。
本来は母の家から門外不出、当主が受け継いで行く筈だった物らしい。
幼いローズはその美麗な彩色に惹かれ母に『この皿が欲しい』とねだった。
母は最初戸惑いながらも少し困った顔をして笑い掛けて来た。
「私も小さい頃、お母様。あぁローズにとったらお婆様に同じ様にねだったのよ」
そう笑いながら母はその皿をローズに渡した。
これが最初で最後の母に対するローズの我がままとなる。
また場面が変った。
周囲の風景は屋敷の中庭。
時刻は早朝の様だ。
昨日も遅く帰宅したと言うのに母は朝から中庭に咲いている薔薇の花を嬉しそうに眺めていた。
この薔薇は王城の中庭に咲く薔薇から刺し木された物らしい。
その広さは王宮に及ぶべくもないが、その見事さは庭師の絶え間無い努力により王宮の薔薇園に匹敵すると言われている。
母はこの庭が大好きであった。
いつか『ここに居ると癒されるの』と言っていたの思い出す。
「お母様、ここに居られたのですか」
母を見付けたローズはそう声を掛けながら速足で近付く。
最近は特に家を空ける事が多く、なかなか話す機会が無い。
それでも母に迷惑が掛からないようにとローズは母の居ない寂しさに堪えていた。
しかし、今なら母と久し振りにゆっくり会話出来るのではないか?
抱き締めてくれるのではないか?
そんな期待が胸を躍る。
「ローズ、ごめんなさいね」
突然母はそう言ってこちらを顔を向けて来た。
その顔を見たローズは思わずその場で立ち止まる。
それは理由無く謝って来た所為じゃない。
ローズの目に映った母はいつもの様に輝きに溢れる眩いばかりの美しい姿ではなく、どこか……。
そう何処かとてもか細く今にも消えてしまいそうなろうそくの炎の様に見えたのだ。
よく見ると顔色も良くない。
目の下には隈の様な物が浮かんでいる。
心配になったローズは慌てて母の元に駆け寄った。
「お母様! 大丈夫ですか?」
そう言って母を抱き締めようと伸ばした手は、またもや虚しく空を切る事となる。
母はローズの手をすり抜け、そのまま薔薇の匂い香る中庭に崩れ落ちて行った。
そして最後の風景が辺りに映る。
ここは母の寝室だ。
今より更に幼い頃、この部屋で目の前にあるこの大きなベッドの上、二人一緒暖かい布団にくるまれながら絵本を読んで貰っていた事を思い出した。
大好きな母ともっと一緒に居たいからと、毎回絵本の最後まで起きていようと頑張っていたのだが、自分を包み込んでくれる優しい母の声とその温もりにいつも気付けば夢の中。
そんな幸せな記憶が詰まっている部屋だった。
しかし、今この部屋には悲しみで溢れている。
二人で一緒に寝ていたベッドの上には母が一人。
ぜぇぜぇと苦しそうな息で横たわっている。
母の手を強く握るが、返してくる力はとても弱い。
「ローズ……本当にごめんなさい。いつも側に居てあげられなく淋しい思いをさせたわね」
こんな短い言葉でも声に出すのが辛いのか、その命を削っているのが幼いローズでも理解出来た。
それ程までに母の姿は変わり果てていたのだ。
紅を差さずとも瑞々しく光を放つ唇はその色を失い、艶やかな肌は痩せこけ、髪もその輝きを失っている。
それでもローズの目には母は美しいままだった。
そう信じたかった。
当初はただの疲労だと医者は言っていた。
暫く安静にしていたらすぐに元気になるだろうと――。
しかし、日に日に衰弱していく母の姿に、幼いながらもあの医者の言葉は自分を慰めようとするものだったのだと分かった。
それは父が、使用人が、見舞いに来てくれるお客様達が、その眼を以って語っていたからだ。
『母の命は長くない』
その事実を悟ったローズは、少しでも母を心配させまいと悲しみを笑顔に変える。
もう大好きな中庭を見る事が出来ない母に、日々移りゆく中庭の情景を語った。
毎日花束を母に送った。
ダメだと分かっていても、少しでも……、その最後の瞬間まで母には安らかなる安寧の日々を送って欲しい。
そう心に決めていたローズは、母が言った謝罪の言葉にも笑顔で応えた。
「そんな事無いわ、お母様。寂しくなんてありません。私はお母様の娘と言うだけで幸せなんです。早く良くなって一緒にお庭を歩きましょう。今咲いている薔薇は今まで以上にとても見事で綺麗なんですよ」
「まぁ……それは楽しみだわ。本当に……楽しみ……」
その言葉が母娘の最後の会話となった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「……お母様。……お母様」
闇に閉ざされた深い悲しみの中、ローズは母を求める声を上げる。
その闇には一片の光も母の気配も感じない。
ローズは闇の中で淋しさに押し潰されそうになりながら、ただ母を探してさ迷い歩く。
『…………』
どこか遠くから声が聞こえた気がした。
母を呼ぶ声を止め、ローズはその声のする方に顔を向けた。
『…………』
『…………』
『…………』
どうやら聞こえてくる声は、一人ではないようだ。
色々な声が混じっていた。
だが、音が小さすぎて何を言ってるのかまでは分からない。
しかし、ふとその声に聞き覚えがある様な気がして、ローズはその声が聞こえてくる方向に歩き出した。
『…………様!』
『…………ズ!』
『…………ませ!』
暫く進むと段々と声が聞き取れる様になってきた。
それぞれ皆が自分の事を呼んでいるようだ。
『この声は知っている!』
声の主が分かったローズは走り出した。
ローズの目に闇の中に浮かぶ光点が映る。
それが段々と大きくそして眩しく辺りを照らし出す。
やがてその光はローズを包み込み―――。
「……はっ!」
ローズは目を開けた。
そしてここは何処かと辺りを見回す。
すると身体を包む感触からベッドに寝ていると言う事は何となく分かった。
「ローズ様!! 良かった……お目覚めに……うぅ……」
「ローズ! 大丈夫なのか?」
「心配したぜローズ。何処か痛い所とかないか?」
先程闇の中で聞こえて来た声の主が、目を覚ましたローズに安堵の言葉を掛けて来た。
ローズはそれぞれの顔を確かめる。
「フレデリカ、それにシュナイザー様にオーディック様。ご心配をお掛けしてしまったようですね」
なぜ自分がここで寝ているのか?
なぜ皆が自分を心配そうな顔で見ていたのか?
まだ状況は把握してはいないが、皆が見せた安堵の表情から自分が心配させる何かをしたのだと理解したローズは、その心配を解くべく皆にそう微笑みかけたのだ。
「良かった……良がっだぁ……お嬢様~」
その笑顔を見たフレデリカは堪えていた感情の堰が切れたかの様に号泣し、ベッドに横たわるローズの身体に抱き付いて来た。
ローズはフレデリカの頭に手を当てて優しく撫でる。
『あらあら、こんなフレデリカは始めて見たわね。最近じゃ何故か達観した感じだったし、ゲームのフレデリカも感情豊かだったけど、喜怒哀楽の哀の感情だけは見せなかったのに』
号泣するフレデリカに戸惑いながらも、その涙が自分が無事だった事に向けている物だと言うのが伝わって来たので、ローズはとても嬉しく思った。
「ごめんなさい……シュナイザー様にオーディック様? 一体何が有ったのでしょうか?」
泣いているフレデリカに聞いてもズビズビと鼻を鳴らすばかりで会話にならないと思ったローズは、その大声で泣いているフレデリカの姿に驚いている二人に事情を尋ねる事にした。
「急に倒れたらしい」
シュナイザーがそう理由を告げた。
「倒れた……って、私がですか? ……あれ? そう言えば私って何をしていたのでしたっけ?」
倒れたからベッドで寝ている。
そして皆が心配していた。
なるほど、それは正しい反応だ。
ローズはシュナイザーの短い情報から自らの状況に納得しながらも、まだまだ全容を解明するには足りない情報を自らの意識に問い掛ける。
『え~と、覚えているのは……? 確か急に陛下からの呼び出しを受けたのよね? そして慌てて城にやって来た。そうそうそれはゲームの『王様からの出頭命令』さながらの……』
ローズは記憶を一つずつ掘り起こしていく。
王からの尋問、そしてその重圧に耐え切れなくなった。
『そうだわ、全てを思い出したのよ。私が本当にローズだった記憶。そしてお母様の愛を……』
あの時感じた心の中に居る二人のローズと母の温もり。
しかし、目覚めた今自分の中にその存在を感じる事は出来なくなっている事に気付いた。
だが、ローズには分かっている。
二人のローズは自分の中に溶け合い一つになったと言う事を。
そして母は天に還り空から見守ってくれている事を。
『……その後、謁見の間から退場したんだけど……。そこからの記憶が無いわ。何かあった筈なのよね……。 誰かと会った気がするんだけど……?』
何故だか謁見の間から立ち去った後の事が思い出せない。
まるで霧がかかった様に真っ白で、その片鱗だけがうっすらと輪郭を浮かべていた。
「ここは城の客間だ。何でも謁見の間を出た途端、倒れちまったんだとよ。医者が言うには心労が祟って倒れたって事だ。ったく、父上も陛下も何考えてんだ。ローズを追い詰める様な真似して……ぶつぶつ」
頭を捻っているローズを見兼ねたのかオーディックがそう説明してくれた。
忘れかけていた霧の向こうの記憶を掴みかけていたローズは、その言葉に記憶の尻尾を掴み損ね逃がしてしまう。
「あっ! なるほど~! だからそこで記憶が無いのね。オーディック様? 心配して下さるのは嬉しいのですが、陛下とお父様の事は悪く言わないであげて下さいまし。私はあの場に居た皆さまから勇気を頂いたのですから」
これは本当の事だ。
確かに陛下の尋問は自らの心労を募らせる事となった。
いまだになぜ自分を謁見の間に呼んだのか、その理由は分からない。
しかし、最後に陛下が言った『おぬしの改心は皆の祝福する所』と言う言葉には、自分の事を大切にしてくれていると言う想いが溢れていたのをローズは分かっていた。
皆からの温もりを感じる。
だから今は理由を語ってくれなくてもいい。
そう思えた。
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