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終章
明治十年、銀座(二)
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「ふうっ、美味しい! 欧州に輸出する紅茶を栽培しようと躍起になってる政府には悪いけど。やっぱり紅茶はインド産に限るね!」
お気に入りのつつじ柄のティーカップを覗きこみ、珠希はにっこり笑う。愛用の湯呑み茶碗を神妙に口にした成瀬は、珠希の真似をしてふうっと息をついた。
「また…お得意の横濱で、買ってきたやつですか?」
「いや、これは横濱の…友人の、お土産。僕が紅茶好きだから、いっつも…その、東京に来る機会があれば、持ってきてくれるんだ」
――諒さんのことを人に話そうとすると、いつもぎこちなくなっちゃうな。
珠希の様子を察した成瀬は、瓦版を手に取りなにげなく話題を変えた。
「これは? ああ、あれですね。いわゆる薩摩藩邸襲撃事件、ってやつ」
「そう。新徴組が薩摩藩邸に…当時の見方で言えば、御成敗を仕掛けた夜。慶応三年の年の瀬だったよ」
「取材したんですか? 中澤さん、当時深川に住んでたんですよね。これ、三田でしょう? 何か事前に情報でも?」
「たまたまその夜品川にいたんだよ。だから…偶然、ね」
珠希は当時のことを思い出す。
――もう、十年も前か。丸ノ内の御成敗のあと、江戸払いになった鉄二郎さんを連れて横濱へ行くことにしたんだって…諒さんが僕に告げたのは。
親方さんの昔馴染みで、居留区の外国人相手に植木屋を営んでいる方の元で働くんだって…諒さんは真っ直ぐな目で僕に言った。
お互いに頑張ろうね、なんて、笑顔で送り出したけど…こっそり泣いた。寂しくて寂しくて…ものすごく、泣いたよ。だから月に一度の約束の日には必死で会いに行ったんだ。僕らのちょうど真ん中の品川宿まで歩いて、歩いて…。
そして新徴組と薩摩藩が激突したあの夜。
それは僕たちの約束の日と、ぴったり合わさっていた。
「…三田の騒ぎが、品川まで飛び火したんですか?」
「あの時は品川に、薩摩藩の運搬船が停泊してたんだ。だからそれに乗り込んで逃げようとした薩摩側の志士たちが、三田から逃れて来た。途中途中で火を放ちながらね。だけど、幕府が軍艦で圧力をかけたから、運搬船は早々に出航してしまって…結局、置き去りになった人も沢山いたんだよ」
「火…って、追手を阻むためですか。ひどいなあ」
顔をしかめる成瀬に、珠希はうなずいてみせる。
「町は大火事だったよ。逃げてくる人たちの話で、新徴組の皆さんが薩摩藩邸に戦いを仕掛けたことが分かった。ここだけの話、僕はこの前見せた丸ノ内の夜盗御成敗の時から、この戦いについては予測できていて…ぜひ書きたいと思っていたんだ。だから一緒にいた…友人、に同行してもらって…火を迂回しながら必死に三田の薩摩藩邸を目指した」
――そして僕と諒さんは、この目に見た。涙に濡れる頬に炎の色を映して、刀を握りしめ…ひとり立ち尽くす、秋司さんの姿を。
着物を紅に染めた、返り血。秋司さんはあの夜、藩邸に居合わせた利根屋惣右衛門に、仇討ちを果たしていたんだ。
「結果この戦闘は、新徴組の大勝利。これでまた徳川の世は安泰だ。僕ら町人は皆あの時、そう思ったよ」
――秋司さんの戦いと同じように、徳川家と薩摩藩の戦いも…何もかもが終わったように見えた。
「でも実際には、そうじゃなかった」
「そう。あの戦いこそが最終決戦の始まりだったんだ。この機に一気に攻め込もうとする家臣団を抑えきれず、大阪城にいらした将軍慶喜公は重い腰を上げて、京都で『鳥羽・伏見の戦い』に挑む。でもそれは…罠だった」
「慶喜公に挙兵させるため、わざと江戸を荒らして薩摩藩邸への襲撃を誘ったってことですね。何層にも張り巡らされた仕掛けが、結果徳川家を絡めとった」
――そう。薩摩藩邸で新徴組に勝たせたこと自体が罠だった。新徴組は勝ったけれど、徳川家としては負けるきっかけになった。それが…あの夜の、真実。
「戦いで大敗を期した幕府軍は一転して『逆賊』になった。朝廷を味方につけた倒幕側は、錦の御旗を掲げた『官軍』に変わる。焦った慶喜公は軍艦で江戸に戻るとすぐ上野寛永寺に自ら蟄居されて、朝廷への恭順の意を示したんだよ」
――そう言えば、高梨凛太朗様…凛さんが、新徴組の皆さんと共に官軍との全面戦争に備えて庄内の御領地へ引き揚げたのは…あのあとだったな。
お別れの前日に、凛さんたら突然、冬儀さんに剣の勝負を挑んでね。結局勝敗がつかなかったけれど…僕には凛さんが、わざと勝負の結果を保留にしたように思えた。
お別れの朝、見送りに立つ僕たちの前に、女性の装いで登場した凛さん。あの時は、本当に驚いたよ! 美しいそのお姿から、いつもの調子が飛び出したのも…素敵だった。
『武崎殿。いつか私を打ち負かしに、庄内へ来い。また会える時を…待っている』
頬を赤く染める冬儀さんを背中に残し、凛さんは颯爽と、江戸の町を去って行った。
「そのあとが…この、上野戦争ですね」
成瀬は、もう一枚の瓦版を手にする。
「彩色の無い白黒か。中澤さんにしては珍しいですね」
「追悼の意味を込めたんだ。あれは…あまりにむごい戦闘だったから…」
――僕は戦闘の終結後、新聞作りの仲間たちと取材を敢行した。あまりの凄惨さに言葉を失って…皆で泣きながら焼け跡を巡った。弔うことも許されずに打ち捨てられた若者たちの死体が、累々と転がる中を。
「政府軍と戦ったのは、彰義隊。慶喜公の蟄居に不満を持った幕臣たちが結成した組織に、一時は三千人もの武士や民衆が参加したんですよね」
「うん。新徴組の皆さんが江戸の町を去ると、官軍の包囲網が急速に迫ったんだ。結局江戸城は開城されて、慶喜公も水戸に引き揚げられて。江戸に取り残されてしまった民衆は徹底抗戦のため、彰義隊に次々と入隊した」
「本拠地は上野寛永寺。あそこは徳川家の菩提寺だから…まさに象徴的な場所だ」
「彰義隊の人気は、そりゃあすごかったよ。遊郭では『情人にするなら彰義隊』なんて流行り言葉も生まれてね。だけど、江戸のそこここで官軍との衝突を繰り返すうちに…だんだんと皆悟ったんだ。官軍の軍事力は並大抵じゃない。とても太刀打ちできない、って」
――丸ノ内の御成敗で僕らは銃に驚いた。でもあの時の銃ですら、すぐに旧式になった。
いかにして外国から最新鋭の武器を入手するか。その争いに彰義隊は負けた。いや、後ろ盾の無い、寄せ集めの組織は…そもそも同じ土俵にすら上がれなかったんだ。
「彰義隊からはどんどん人々が去って、最後に残ったのはたった三百人余り。最終決戦のいわゆる上野戦争では…たった半日で、ほぼ全滅してしまったんですよね」
「上野のお山は一面の焼け野原だったよ。当時最新の、射程距離三キロメートル以上を誇った大砲、アームストロング砲や四斤山砲。こんなのが本郷の高台から寛永寺へ何発も打ち込まれてね。さらにお山を包囲した鉄砲隊が、雨のように銃弾を浴びせたんだ。もはやそれは、刀や武士の精神論でどうこうできる戦いじゃなかった」
「それが江戸の、終焉だったんですね…」
「でもその上野戦争で、松坂屋に置かれた本営から官軍を指揮して、彰義隊を壊滅させた張本人の西郷隆盛殿が…こないだの秋には九州で反乱を起こし、官軍に破れて切腹だもの。僕が貸本屋をしていた頃『日本外史』が大人気だったけれど…本当に権力ってのは栄枯盛衰。目まぐるしく推移するんだね」
「え! 中澤さんって貸本屋もしてたんですか? 俺、初耳だなあ。なんだよ…まだ知らないことがあったのか…」
「ふふっ。僕はね、意外と色々なお仕事をしてるんだよ」
秋司と共に深川の町を巡った懐かしい日々を思い出しながら、珠希は成瀬に向かい微笑んだ。
「あっ…! いけない、僕、もうそろそろ出ないと!」
時計を見た珠希は急に慌てだす。
「お出かけですか?」
「うん。今夜は食事会なんだ。この瓦版を作っていた時代からずっと続いている仲間とのね。でもその前に…」
成瀬はおどけたように、やれやれ、という顔を作った。
「新橋停車場へお迎えに、でしょう?」
驚いた珠希は思わず支度の手を止める。
「えっ! 成瀬君、どうしてそれを…」
「俺、何度も見てますから。中澤さんが嬉しそうにあそこに行くところ。通勤で通るんですよ。だから嫌でも目に入る」
話の流れが読めずに、珠希は黙って成瀬の次の言葉を待った。
「格好いい人ですよね、お友達。俺は正直なところ、中澤さん贔屓だから…そこらの男じゃ全然納得しませんけど…」
さっと頬を赤らめて、目を見開く珠希。成瀬は改めて、そんな珠希の姿に見惚れた。
着物の柄は、濃灰の地に細かな縦縞。襟元には洋装の白い丸首シャツをのぞかせて。柔らかな洋装の黒いコートを、着物の肩にふわりと掛けた洒脱な姿。
「…こんなに素敵な中澤さんにも、全く引けを取ってないんだもんな。あの洋装のお友達。悔しいけど…お似合いですよ、お二人は」
珠希は成瀬の真っ直ぐな言葉を、少しくすぐったそうに受け止めた。
「…ありがとう。そうだったら…嬉しいよ」
ゆっくり歩きだした珠希はふと足を止め、成瀬を振り返る。
「ね、成瀬君。あの記事、やっぱり僕が書くことにする」
「え? だけど…」
「揶揄する記事は書かないよ。でも丁寧に取材をして、どうして異性を装っていたのか、そこをちゃんと読者に伝える。ああいう記事でこそ、僕らは『人間』を書くべきなんだ。そうすればきっとその記事から、幾人かの読者は感じ取ってくれるよ。同じ人間が、同じように悩みながら、懸命に生きてるんだってことを。そしてそれが罰するべきことなのか、そうじゃないのか…そのことを考えてくれるようになる」
「…」
「そういう記事をこつこつ書いていけば、きっといつか…世の中は変わるよ。ほんの少しずつかも、しれないけれど」
黙ったまま目を細め、どこかまぶしげに珠希を見る成瀬。
「成瀬君。僕はまだ…信じてるんだ」
珠希は微笑みながら、じっと成瀬の目を覗き込む。
「僕らが堂々と胸を張って、自分の心のありようを隠すことなく、ありのままに生きられる時代が…いつの日にかきっと…きっとまた、来ることを」
「…」
成瀬は何も言わずにそっとうなずいた。
***
お気に入りのつつじ柄のティーカップを覗きこみ、珠希はにっこり笑う。愛用の湯呑み茶碗を神妙に口にした成瀬は、珠希の真似をしてふうっと息をついた。
「また…お得意の横濱で、買ってきたやつですか?」
「いや、これは横濱の…友人の、お土産。僕が紅茶好きだから、いっつも…その、東京に来る機会があれば、持ってきてくれるんだ」
――諒さんのことを人に話そうとすると、いつもぎこちなくなっちゃうな。
珠希の様子を察した成瀬は、瓦版を手に取りなにげなく話題を変えた。
「これは? ああ、あれですね。いわゆる薩摩藩邸襲撃事件、ってやつ」
「そう。新徴組が薩摩藩邸に…当時の見方で言えば、御成敗を仕掛けた夜。慶応三年の年の瀬だったよ」
「取材したんですか? 中澤さん、当時深川に住んでたんですよね。これ、三田でしょう? 何か事前に情報でも?」
「たまたまその夜品川にいたんだよ。だから…偶然、ね」
珠希は当時のことを思い出す。
――もう、十年も前か。丸ノ内の御成敗のあと、江戸払いになった鉄二郎さんを連れて横濱へ行くことにしたんだって…諒さんが僕に告げたのは。
親方さんの昔馴染みで、居留区の外国人相手に植木屋を営んでいる方の元で働くんだって…諒さんは真っ直ぐな目で僕に言った。
お互いに頑張ろうね、なんて、笑顔で送り出したけど…こっそり泣いた。寂しくて寂しくて…ものすごく、泣いたよ。だから月に一度の約束の日には必死で会いに行ったんだ。僕らのちょうど真ん中の品川宿まで歩いて、歩いて…。
そして新徴組と薩摩藩が激突したあの夜。
それは僕たちの約束の日と、ぴったり合わさっていた。
「…三田の騒ぎが、品川まで飛び火したんですか?」
「あの時は品川に、薩摩藩の運搬船が停泊してたんだ。だからそれに乗り込んで逃げようとした薩摩側の志士たちが、三田から逃れて来た。途中途中で火を放ちながらね。だけど、幕府が軍艦で圧力をかけたから、運搬船は早々に出航してしまって…結局、置き去りになった人も沢山いたんだよ」
「火…って、追手を阻むためですか。ひどいなあ」
顔をしかめる成瀬に、珠希はうなずいてみせる。
「町は大火事だったよ。逃げてくる人たちの話で、新徴組の皆さんが薩摩藩邸に戦いを仕掛けたことが分かった。ここだけの話、僕はこの前見せた丸ノ内の夜盗御成敗の時から、この戦いについては予測できていて…ぜひ書きたいと思っていたんだ。だから一緒にいた…友人、に同行してもらって…火を迂回しながら必死に三田の薩摩藩邸を目指した」
――そして僕と諒さんは、この目に見た。涙に濡れる頬に炎の色を映して、刀を握りしめ…ひとり立ち尽くす、秋司さんの姿を。
着物を紅に染めた、返り血。秋司さんはあの夜、藩邸に居合わせた利根屋惣右衛門に、仇討ちを果たしていたんだ。
「結果この戦闘は、新徴組の大勝利。これでまた徳川の世は安泰だ。僕ら町人は皆あの時、そう思ったよ」
――秋司さんの戦いと同じように、徳川家と薩摩藩の戦いも…何もかもが終わったように見えた。
「でも実際には、そうじゃなかった」
「そう。あの戦いこそが最終決戦の始まりだったんだ。この機に一気に攻め込もうとする家臣団を抑えきれず、大阪城にいらした将軍慶喜公は重い腰を上げて、京都で『鳥羽・伏見の戦い』に挑む。でもそれは…罠だった」
「慶喜公に挙兵させるため、わざと江戸を荒らして薩摩藩邸への襲撃を誘ったってことですね。何層にも張り巡らされた仕掛けが、結果徳川家を絡めとった」
――そう。薩摩藩邸で新徴組に勝たせたこと自体が罠だった。新徴組は勝ったけれど、徳川家としては負けるきっかけになった。それが…あの夜の、真実。
「戦いで大敗を期した幕府軍は一転して『逆賊』になった。朝廷を味方につけた倒幕側は、錦の御旗を掲げた『官軍』に変わる。焦った慶喜公は軍艦で江戸に戻るとすぐ上野寛永寺に自ら蟄居されて、朝廷への恭順の意を示したんだよ」
――そう言えば、高梨凛太朗様…凛さんが、新徴組の皆さんと共に官軍との全面戦争に備えて庄内の御領地へ引き揚げたのは…あのあとだったな。
お別れの前日に、凛さんたら突然、冬儀さんに剣の勝負を挑んでね。結局勝敗がつかなかったけれど…僕には凛さんが、わざと勝負の結果を保留にしたように思えた。
お別れの朝、見送りに立つ僕たちの前に、女性の装いで登場した凛さん。あの時は、本当に驚いたよ! 美しいそのお姿から、いつもの調子が飛び出したのも…素敵だった。
『武崎殿。いつか私を打ち負かしに、庄内へ来い。また会える時を…待っている』
頬を赤く染める冬儀さんを背中に残し、凛さんは颯爽と、江戸の町を去って行った。
「そのあとが…この、上野戦争ですね」
成瀬は、もう一枚の瓦版を手にする。
「彩色の無い白黒か。中澤さんにしては珍しいですね」
「追悼の意味を込めたんだ。あれは…あまりにむごい戦闘だったから…」
――僕は戦闘の終結後、新聞作りの仲間たちと取材を敢行した。あまりの凄惨さに言葉を失って…皆で泣きながら焼け跡を巡った。弔うことも許されずに打ち捨てられた若者たちの死体が、累々と転がる中を。
「政府軍と戦ったのは、彰義隊。慶喜公の蟄居に不満を持った幕臣たちが結成した組織に、一時は三千人もの武士や民衆が参加したんですよね」
「うん。新徴組の皆さんが江戸の町を去ると、官軍の包囲網が急速に迫ったんだ。結局江戸城は開城されて、慶喜公も水戸に引き揚げられて。江戸に取り残されてしまった民衆は徹底抗戦のため、彰義隊に次々と入隊した」
「本拠地は上野寛永寺。あそこは徳川家の菩提寺だから…まさに象徴的な場所だ」
「彰義隊の人気は、そりゃあすごかったよ。遊郭では『情人にするなら彰義隊』なんて流行り言葉も生まれてね。だけど、江戸のそこここで官軍との衝突を繰り返すうちに…だんだんと皆悟ったんだ。官軍の軍事力は並大抵じゃない。とても太刀打ちできない、って」
――丸ノ内の御成敗で僕らは銃に驚いた。でもあの時の銃ですら、すぐに旧式になった。
いかにして外国から最新鋭の武器を入手するか。その争いに彰義隊は負けた。いや、後ろ盾の無い、寄せ集めの組織は…そもそも同じ土俵にすら上がれなかったんだ。
「彰義隊からはどんどん人々が去って、最後に残ったのはたった三百人余り。最終決戦のいわゆる上野戦争では…たった半日で、ほぼ全滅してしまったんですよね」
「上野のお山は一面の焼け野原だったよ。当時最新の、射程距離三キロメートル以上を誇った大砲、アームストロング砲や四斤山砲。こんなのが本郷の高台から寛永寺へ何発も打ち込まれてね。さらにお山を包囲した鉄砲隊が、雨のように銃弾を浴びせたんだ。もはやそれは、刀や武士の精神論でどうこうできる戦いじゃなかった」
「それが江戸の、終焉だったんですね…」
「でもその上野戦争で、松坂屋に置かれた本営から官軍を指揮して、彰義隊を壊滅させた張本人の西郷隆盛殿が…こないだの秋には九州で反乱を起こし、官軍に破れて切腹だもの。僕が貸本屋をしていた頃『日本外史』が大人気だったけれど…本当に権力ってのは栄枯盛衰。目まぐるしく推移するんだね」
「え! 中澤さんって貸本屋もしてたんですか? 俺、初耳だなあ。なんだよ…まだ知らないことがあったのか…」
「ふふっ。僕はね、意外と色々なお仕事をしてるんだよ」
秋司と共に深川の町を巡った懐かしい日々を思い出しながら、珠希は成瀬に向かい微笑んだ。
「あっ…! いけない、僕、もうそろそろ出ないと!」
時計を見た珠希は急に慌てだす。
「お出かけですか?」
「うん。今夜は食事会なんだ。この瓦版を作っていた時代からずっと続いている仲間とのね。でもその前に…」
成瀬はおどけたように、やれやれ、という顔を作った。
「新橋停車場へお迎えに、でしょう?」
驚いた珠希は思わず支度の手を止める。
「えっ! 成瀬君、どうしてそれを…」
「俺、何度も見てますから。中澤さんが嬉しそうにあそこに行くところ。通勤で通るんですよ。だから嫌でも目に入る」
話の流れが読めずに、珠希は黙って成瀬の次の言葉を待った。
「格好いい人ですよね、お友達。俺は正直なところ、中澤さん贔屓だから…そこらの男じゃ全然納得しませんけど…」
さっと頬を赤らめて、目を見開く珠希。成瀬は改めて、そんな珠希の姿に見惚れた。
着物の柄は、濃灰の地に細かな縦縞。襟元には洋装の白い丸首シャツをのぞかせて。柔らかな洋装の黒いコートを、着物の肩にふわりと掛けた洒脱な姿。
「…こんなに素敵な中澤さんにも、全く引けを取ってないんだもんな。あの洋装のお友達。悔しいけど…お似合いですよ、お二人は」
珠希は成瀬の真っ直ぐな言葉を、少しくすぐったそうに受け止めた。
「…ありがとう。そうだったら…嬉しいよ」
ゆっくり歩きだした珠希はふと足を止め、成瀬を振り返る。
「ね、成瀬君。あの記事、やっぱり僕が書くことにする」
「え? だけど…」
「揶揄する記事は書かないよ。でも丁寧に取材をして、どうして異性を装っていたのか、そこをちゃんと読者に伝える。ああいう記事でこそ、僕らは『人間』を書くべきなんだ。そうすればきっとその記事から、幾人かの読者は感じ取ってくれるよ。同じ人間が、同じように悩みながら、懸命に生きてるんだってことを。そしてそれが罰するべきことなのか、そうじゃないのか…そのことを考えてくれるようになる」
「…」
「そういう記事をこつこつ書いていけば、きっといつか…世の中は変わるよ。ほんの少しずつかも、しれないけれど」
黙ったまま目を細め、どこかまぶしげに珠希を見る成瀬。
「成瀬君。僕はまだ…信じてるんだ」
珠希は微笑みながら、じっと成瀬の目を覗き込む。
「僕らが堂々と胸を張って、自分の心のありようを隠すことなく、ありのままに生きられる時代が…いつの日にかきっと…きっとまた、来ることを」
「…」
成瀬は何も言わずにそっとうなずいた。
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