大江戸の朝、君と駆ける

藤本 サクヤ

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第三章 当世合戦絵巻

4.生きる

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誠一せいいちは、またずいぶん大きくなった。よく笑う…愛らしい子だな」

 差し出す自分の指をぎゅっと握りしめた赤子の小さな手。先刻の翠の家での出来事を思い出し、冬儀はふわりと頬を緩めた。
 住み慣れた己の長屋でくつろぎながら、秋司はどこか誇らしげに笑う。

「だろ? やっぱり目元が…誠之助様に似てるよな。あの目で泣かれると、ついおたおたして…いつも俺、翠に笑われるんだ」

「翠もひとりで奮闘しているようだが…どうだ、何か困りごとは無いか?」

「おみつの家の者と、近くの長屋のおかみさん衆が手分けして協力してくれている。だから昼間は安心なんだが、やはり夜が…な。赤子というのは不思議なもので、何が悲しいのか、何をしたって泣き止まない夜がある。それはいつも俺が帰ったあとの深い時間で…翠にはずいぶん辛い思いをさせた」

 冬儀は腕を組み、神妙な顔でうなずく。

「確かに、翠ひとりでは…限界があるだろうな」

 秋司はその時のことを思い出し、かすかに眉根を寄せる。

「ああ。激しく泣き続ける誠一の隣で、翠がわんわん泣いていた朝があったとおみつに聞いて…矢も楯もたまらず、それ以来できるだけ泊まり込むようにしている。高梨殿も事情を分かってくれているから、俺の見回りの受け持ちは昼間だけにしてもらってるよ。ありがたいことだ」

「秋司は正しい選択をしたと思う」

 大きくうなずいた冬儀。秋司はふと真剣な顔を見せた。

「冬儀。町方の者は色々と噂をしているが…これだけは言っておきたい。俺は誓って翠に対して…」

 冬儀はふっ、と笑うと、顔の前で手を振った。

「…言うな。そんなことは分かっている」

 秋司は真剣な眼差しで幾度もうなずいた。

「翠と誠一は…俺が誠之助様からお預かりした大切な二人だ。今はとにかく二人の側にいてやりたい。何の不自由もさせたくない。今考えられるのはそれだけだ。とは言え翠と誠一の身分は町人だから…形ばかりの家族になることすらできないんだが…」

「支え合い、助け合うことが家族の定義だとして、それを満たしているのなら…。血の繋がらぬ親子でも、夫婦として繋がらぬ両親でも、公儀に認められぬ家族でも…なんら問題は無い。むしろお仕着せの繋がりは、時に苦しみを生む。秋司と翠と誠一は…純化された家族の形だと私は思うよ。無論この先、誠一に生じる不利益があるならば…誠一の身分の件だけは、今後も検討材料ではあるが」

 流れるように語る冬儀の腕を、ぽん、と叩いた秋司。

「冬儀、さすがだな。お前にそうやって筋道立てて語ってもらうと…俺の中にはふつふつと自信が湧いてくるよ。はは、昔よりもなお一層、お前の言葉が難しくなってるがな」

「ふふ。まあ簡単に言えば…。三人が幸せに暮らせる形を、これからも一緒に探そう。そういうことだ」

「はは。分かりやすいな。それはそれでまた嬉しい言葉だ」

 秋司は感慨深げに、長屋の部屋をぐるりと見回した。

「…だからな、冬儀。今回の戦いから生きて帰れたなら…俺はこの長屋を引き払い、正式にあの家に移ろうと思う」

 雨の日も晴れの日も通った、深川佐賀町の裏長屋。

 ――秋司がここを、明日に向かい、出て行く日が来るとは…。
 冬儀はしみじみと朋友の顔を見つめる。
 激動のうちに過ぎた慶応三年も、残すところあと十日を切っていた。

「秋司。ついに行くのだな。新徴組に同行し、薩摩藩邸の討ち入りに」

 日々の激しい鍛錬で、以前よりもずっと精悍さを増した秋司は強い目でうなずいた。

「ああ。三田の薩摩藩邸には猪ノ吉の証言どおり、江戸を荒らしまわる賊や浪人どもが、そして利根屋惣右衛門が…出入りしていた。なのに討伐のお許しがなかなか御公儀から出なくて、正直苛ついたよ。その間に事態は最悪の方向に進んでしまった。薩摩藩の差し向けた賊に、赤羽橋の屯所が襲撃を受けて、仲間が死んで…やっとだぞ? 他藩と共闘して、薩摩藩邸を包囲するお許しが出たんだ。ここだけの話、俺の脳裏には猪ノ吉の言葉がちらついた。公儀は腰が引けてるって、あの言葉がな」

 秋司の言葉に、冬儀は思い出す。
 ――屯所が襲撃されたあと、凛太朗殿が突然私を訪ねて来たな。屯所では泣けぬから…ここで泣かせてくれと。悔し涙にくれる凛太朗殿と柳原土手に座り…沢山の話をした。

「上様は、決戦には非常に慎重と伺っている。犠牲が出てもなお、まずは包囲だけとは。新徴組の無念、いかばかりか。確かに秋司の言う通り、猪ノ吉の言葉を引用したくもなってしまう」

「ああ。上様の御指示に従い、賊や浪人どもの引き渡しを要求することから始めるが…当然薩摩藩は応じないだろう。そうなれば決戦だ。それは新徴組の決戦でもあり、同時に俺にとっての決戦でもある。俺は誠之助様を陥れた利根屋惣右衛門と…決着をつける」

 冬儀はふっと目線を落とす。

「本音を言えば私も同行したい。だが…」

 秋司は冬儀の肩を叩き、首を横に振った。

「冬儀。俺はすでに遠邊家を離れた、一介いっかいの浪人者だ。だけどお前は遠邊家の中枢。奴は曲がりなりにも奥方様の父君に当たる。義を通そうとする思いは同じでも、俺たちの義はそれぞれに違っている。それでいい。これは俺なりの…やり方なんだ」

 冬儀はそっと目を閉じる。

「秋司。このことが終わったら、私は全てを高瀬様にご報告しようと思う。その上で殿や奥方様にも…全容をお話しするつもりだ。私は遠邊家に、用人として贖罪しょくざいを要求する」

「冬儀…お前…」

「私も己の場所で戦う。当然のことだ。これは私たち二人の…戦いなのだから」

 冬儀は、改めて居住まいを正す。

「…秋司。今日は私からお前に渡したい物があるんだ」

 そう言って冬儀は、抱えてきた大きな風呂敷包みの結び目をはらりと解いた。
 大小の刀が二振り。忘れえぬその意匠に秋司は息を呑む。

「こ、これは…!」

「ああ。誠之助様の刀だ。刀身は質屋から取り戻した。秋司。こたびの仇討ちには、この刀を使ってくれないか。誠之助様と私の思いが…お前と共にあるように」

「と、冬儀…お前…」

「利根屋惣右衛門を成敗し、必ずや誠之助様の御無念を晴らしてくれ。そして絶対に、生きて帰ってほしい。翠と、誠一が…お前を待っている。そして私もまた…お前を待っている。この刀に宿った誠之助様の思いが、きっとお前を守るだろうと…そう信じて、これを」

 冬儀は感極まったように、秋司を見つめる。

「だから秋司、どうか約束してくれ。これからもずっと共に生きていくと。お前がいれば、私はどんな困難も必ず乗り越えてみせる。だってそうだろう秋司、私たちは…」

「…ああ、そうだとも冬儀」

 秋司は誠之助の刀を手に取り、きつく胸に抱きしめた。

「俺は必ず…必ずや誠之助様の仇を取り、お前の元に生きて帰る。お前の思いと共に俺は行くよ。だって俺たちは…。今までも、これからも、ずっと…二人で、ひとりだ」

 傍らに置いた行灯の小さな灯りが、互いの真っ直ぐな目に映りこむ。
 その瞳はまるで不確かな未来を照らし出すかのように、明るく煌々こうこうと輝いていた。
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