大江戸の朝、君と駆ける

藤本 サクヤ

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第三章 当世合戦絵巻

2.激突(三)

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 猪ノ吉が右手に構えた銃。その銃口は真っ直ぐ凛太朗の眉間に向けられている。

「おい、高梨凛太朗さんよぉ。へへ、ったく散々あちこちで、お仲間の邪魔しやがって。まぁ…俺んとこに来たのが、運の尽きだな」

 ただ一丁の銃があるだけで、文字通り太刀打ちできない。いつの間にか刀の時代は終わっていたのだろうか。秋司と冬儀は新たな世界の姿に慄然りつぜんとする。

「…銃を下ろせ。お前を斬るつもりはない。だがもし凛太朗殿を撃てば、私たち二人がお前を斬り捨てる。どちらにしてもお前に勝ち目は無い。大人しく投降するんだ」

 説得を試みた冬儀に、鼻を鳴らす猪ノ吉。

「ふん。投降したって…どうせ俺なんざ死罪じゃねぇか。そんならせめて、高梨凛太朗を道連れに…華々しく散るほうがましだ」

 ただならぬ緊張を感じながらも、凛太朗は冷静さを保ったまま猪ノ吉に問いかけた。

「お仲間、か。お前たち賊を束ね、操る者とは…一体誰なんだ」

 流れる沈黙。秋司はたまらず口を挟んだ。

「その黒幕は…利根屋惣右衛門なのか?」

 秋司の言葉に、猪ノ吉がにやりと嗤う。

「利根屋、ねぇ。ふん、面白れぇ名前出すじゃねぇか。ならここに賭場を開かせたのも、俺らがここを乗っ取ったのも、あいつのお膳立てだったってこたぁ…知ってんだな?」

 ――やはりそうなのか。利根屋の息がかかった賭場で、誠之助様は…。
 蜘蛛の巣のような罠のおぞましさに冬儀は唇を噛んだ。

「とは言えあいつだって、所詮は俺とおんなじ手駒のひとつに過ぎねぇぜ? まあ、あいつぁ俺よかずいぶんと上手く…やりやがったけどな」

 己の言葉が猪ノ吉の心に波紋を広げる。
 ――結局俺は働き損か…。この先新しい世が来たところで…一滴だって甘い汁、吸わせちゃもらえねぇまま終わるのかよ…。

 高揚していた気分が急に冷え込んだ。
 ――そんな馬鹿な話、あるかってんだ、畜生! くそっ。鼻持ちならねぇ利根屋だの、偉そうな侍だのが、一体ぇ何したっつうんだよ。
 一番危ねぇとこで、一番汚ねぇとこで命張って来たのは…俺ら夜盗だってのによぉ!

 猪ノ吉は苛ついた様子で、立ったまま貧乏ゆすりを始めた。
 ――何かねぇか、こう…最高に最悪な嫌がらせがさぁ。気持ちいい、やつがさぁ。

「あぁ…そうだ」

 思わず声が出る。猪ノ吉の目に暗い光が宿った。
 ――そんなら、いっそ…。ひひ、最後に下剋上と行こうか。この俺様が、世の中滅茶苦茶に引っ掻き回して…侍どもを全員戦ん中にぶち込んで…国中を血の色に染めあげてやろうじゃねえか、ああん?

「なあ。高梨凛太朗様よ。お前ぇさっきから、ろくに命乞いもしねぇで…そんなに知りてぇのかよ、俺らを動かす黒幕ってのが」      

 ――来た…。
 凛太朗はまるで懇願するかのような声色を作り、猪ノ吉に言葉を返した。

「…ああ。教えてほしい。せめてこの世を去る前に…己が一体何と戦ってきたのかを、知りたいんだ。頼む猪ノ吉、教えてくれ。お前たちの背後にいるのは…一体何者なんだ」

 すがるように自分を見つめる、凛太朗の目。
 猪ノ吉は満足げに張り出た腹を揺らした。

「ふへへ…。こりゃあ…気分がいいな。高梨凛太朗がこの俺に、頭ぁ下げてくるとはな」

 ――あの方たちには、いつだって汚ねぇもん見るような目、されて来たのになあ。はんっ。今更ながら頭にくるぜ。散々俺らに汚れ仕事、押し付けやがったくせによぉ。

 腹を決める猪之吉。
 ――やっぱり、そうしてやろう。
 最後に全部ばらして…くくく…あいつらに、ひと泡吹かせてやるのよ。 もちろん聞かされたこいつらも…絶望の淵ってやつに、叩き込んでなぁ!

 猪ノ吉はねっとりと、猫なで声を出す。

「なあ…そんなに知りたきゃ、俺が全部教えてやろうか。ただし、いひひひ…お前ぇがちゃんと、この俺に礼を尽くしたらの話だぜ?」

 猪ノ吉は、悦びに声をうわずらせた。

「ん? ほら…な? おら、とっととさ…俺にひざまずけよぉ、高梨凛太朗!」

「な…っ!」

 思わず一歩踏み出した秋司と冬儀。その二人を凛太朗は静かに制した。
 うつむきながら、がくりと膝をつく。凛太朗はそのまま深々と頭を下げた。

「頼む…っ、どうか…教えて…くれ…」

「…くくく…くっくっく…あはははは!」

 猪ノ吉は小さく、次第に大声で笑いだす。

「いいぞ…いいぞ! こりゃあたまんねぇや」

 秋司と冬儀は目を見かわすとゆっくり刀を下ろし、従順を示すように逆手に持ち替えながら大きく後ろに下がった。

「あはは、お前ぇらも分かってるじゃねえか。いいぞ、いいぞ! そんならご主人様からお前らに褒美をくれてやる。けどよぉ…いひひ、これを褒美って言うにはさ…お前らにとって、あまりに救いのねぇ話なんだよなあ、これがまた…!」

 嗜虐しぎゃく的な快感に打ち震えながら、猪ノ吉はおもむろに語り始める。

「いいか。俺たちは、な…? ただの賊じゃねぇんだ。くくく…俺たちはさ、さる御方の御命令で…江戸の町に毎晩毎晩、資金稼ぎと大江戸攪乱かくらんの戦を仕掛けてるのよ」 

「御命令…?」

 いぶかしがる凛太朗。猪ノ吉は満足げに続きの言葉を放った。 

「将軍様が京で油売ってるあいだに、江戸の町じゃもうとっくに戦が始まってるってことだよ! はは。俺たちはな、倒幕派の皆様方の立派なお仲間なんだぜ? なんてったって俺たちは…薩摩のお殿様に雇われた神出鬼没の民兵、『御用盗ごようとう』なんだからよぉ!」

「御用盗、だ…と?」

三田みたの薩摩藩邸を見張ってみろよ。俺らみてぇなごろつき共やら…へへ、利根屋惣右衛門やらが散々出入りしてっから。ふん、あいつぁさとい男だぜ。この戦、徳川にゃ勝ち目がねぇと踏んで、早ぇうちから倒幕側にすり寄ってさ。ただの商人じゃ金づるにされて終わりだからって、武家の外戚にまで納まってよ。はは。今じゃすっかりお武家様気取り。偉そうに仲間顔してやがる。ありゃあさぞかし新しい世が楽しみだろうよ!」

 秋司と冬儀は驚愕した。
 ――遠邊家を、倒幕派に…裏切り者に、仕立て上げていたのか…!

 猪ノ吉はなおも言葉を続ける。

「けどよぉ。お前ぇらがこれを公儀に報告したって…相手は薩摩の殿様よ。家康公の時代から一番恐れられてきた大名様だ。徳川の腰抜けどもが動くはずぁねぇ。どだい動いたところで、勝てるはずもねぇんだよ!」

 猪ノ吉は、あおるように声を張った。

「ひでぇよなあ。江戸にゃ縁もゆかりもねぇ新徴組に、前線の守りを押し付けて。はは。あんなお頭とは、俺ならとっとと縁切って…来たる大きな戦に備えて、お国の守りをしっかり固めますけどねぇ? ま、御主君酒井様とご相談くださいな、新徴組の皆さんよぉ!」

 あはははは! 
 熱に浮かされたように猪ノ吉は嗤った。

「こうやって江戸は壊れてくのさ。お前ぇらが後生大事にしてる世の中なんざ、もうとっくに終わってんだよぉ! へへ、のし上がる好機がすぐそこにあるってのに…俺らが勝負賭けて何が悪いってんだ!」

 猪ノ吉は飛び出しそうにぎらぎらした目で凛太朗に狙いを定めなおした。

「さあ、そろそろ行こうぜ、高梨凛太朗。一緒に仲良くあの世で…この先の血みどろの戦いを、とくと見物しようじゃねぇか!」

 ぐっと目を閉じ、拳を握る凛太朗。
 次の瞬間、秋司が動いた。
 逆手に持った刀を頭上で槍のように構え、猪ノ吉に向かい鋭く放つ。

「やあああああっ!」

「な…?」

 猪ノ吉の視線が凛太朗から逸れる。
 一直線に向かう刀の切っ先は、咄嗟に避けた猪ノ吉の左肩を深く刺し抜いた。

「ぐああああっ!」

 パァン!

 瞬時に引き金を引くも、既に転がり逃れていた凛太朗。猪ノ吉はむなしく中空に向かい弾を放った。

「今だ!」

 冬儀は走り出しながら刀を持ち替え、踏み込む勢いで猪ノ吉の銃を指ごとはたき落とす。

「があああああっ!」

 猪ノ吉の叫び声が辺りに響き渡った。素早く駆け寄った秋司は後ろから猪ノ吉を羽交い絞めにする。
 ゆっくりと歩み寄り、真っ直ぐ猪ノ吉の首元へ刀をつきつけた凛太朗。美しく壮絶な笑みを浮かべると、低い声でつぶやいた。

「さあ…猪ノ吉。今度は私が楽しませてもらう番だ。お前の気に入りそうな拷問が…山ほどあるんだよ」

「あ…ああっ…手が…手が痛ぇ…痛ぇよお…」

「ふふ、そうか。もうそんなに、痛むか。けれどそれはまだ…序の口だ…!」

 背を正した凛太朗は正義を断じる神のごとく、はっしと猪ノ吉を睨みつけた。

「いかに時代が動こうと、人としての正義は変わらない。お前が無辜むこの民に味わわせた恥辱と絶望と苦痛を…これから腐りきったその身に刻み込んでやるからそう思え…!」

 凛太朗の言葉に、猪ノ吉は天を仰いでわめき散らした。

「くそう…くそうっ、くそおおっ! 畜生、こうなりゃ全部、全部ばらしてやる…っ! 俺が…とんでもねぇ戦、煽ってやる…っ! 滅べっ、滅べっ、滅んじまえぇっ…! こんな糞ったれの世の中なんざ…滅茶苦茶に、何も残らず焼け野原になっちまえぇぇっ!」


 ***
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