大江戸の朝、君と駆ける

藤本 サクヤ

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第二章 寺小姓立志譚

5.連鎖の糸(三)

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 あの日を思い出すような強い日差しが照り付ける。今日も暑くなりそうだ。
 あの日と変わらぬ大屋根を見上げ、珠希はひとり早朝の浅草寺境内に佇んでいた。

 昨夜寝床で一晩じゅう雨の音を聞きながら、とうとう心を決めたのだ。
 迷子石に、紙を貼ってみようと。

 ――大人になれたかは分からないし…貸本屋だって、まだ始めたばかりの駆け出しだけど…。

 でもこれは確かに、僕の選んだ僕の暮らしだ。

 ――だからこそ…もう一度諒さんに会いたい。

 とは言え時間が経ちすぎていた。もう、今さらなのかもしれない。

 ――勝手に逃げ出して、一年以上も経って…。

 それでも、やってみよう。そう思った。

 ――怖がっていたら…前には進めないもの。

 住んでいる長屋のことと、自分の名前を書いた紙。そこへ縫い針で、つつじの押し花を留め付けてみた。珠希のことだと、諒に分かってもらえるように。

 迷子石は昨晩の雨で濡れていた。貼られた沢山の紙の墨書きが雨で流れている。
 涙のようなその筆跡を見ながら、「志らする方」へ珠希は紙を貼り付けた。

 ――どうか諒さんが、見てくれますように…。

 反対側の「たづぬる方」に立つ男が珠希に話しかける。

「ああ、雨で字がすっかり流れちまったよ。やっぱり確かめに来て良かった。こりゃあ貼り直さねぇとな。なあ兄ちゃん、お前も人探しなのか?」

「ううん、僕はね、迷子のほうなんだ。大人なのに…おかしいでしょう?」

 何故だか反対側の男がぐっと息を呑む気配がした。

「…そっか。俺が探してるのも…大人なんだぜ。そいつが迷子になったら、必ずここへ迎えに来てって…言われてたんだ、俺」

 つつじに触れた珠希の手がかすかに震える。

 ――この声は、この話は、まさか…。

「僕…目印に、つつじの押し花を留めてみたんだ。これなら…分かるかな、って…」

 迷子石の向こうから、ゆっくりこちら側へ回ってきた男は、珠希の横に並びじっとつつじの押し花を見つめた。

「ああ、これなら絶対ぇ分かるよ」

 頬に感じる真っ直ぐな視線。

「…珠希、お前だってことが」

 どうしてだろう。心が震えて、横に並ぶ顔を見られない。

 珠希は両手で顔を覆うと、体を震わせその名前を、心の中で呼び続けた名前を、絞り出すように口にした。

「…諒さん…」

 しばらく言葉を探していた諒は、やがて優しく珠希の手を開かせる。

「俺…お前の笑った顔、ずっと見たかったんだ。最後に見たのが泣いた顔だったから…なあ、こっち向いて…俺のこと見て…笑ってくれよ、珠希」

 おずおずと諒を見上げる珠希。その目をじっと覗き込み、諒はそっと珠希を抱きしめた。

「珠希、迎えに来たよ。約束通り迎えに来た。お前がちゃんとここで待ってないから、俺…お前に謝りたくって…ずいぶんお前を…探したんだぜ?」

 ――懐かしい、諒さんのにおい…。
 珠希は諒の腕の中でぽろりと涙をこぼす。

「逃げ出したのは、僕なのに…ずっとずっと会いたかった。会いたくて、会いたくてたまらなかったんだよ諒さん…」

 諒は珠希の頭をぽんぽんと撫でた。

「珠希はほんと、逃げ足の速ぇ鼠だからな。けどさ、猫のほうだって負けちゃいねぇんだぜ? こうして捕まえたからには、もう二度と…」

 諒はぐっと珠希を引き寄せる。

「もう二度とお前を…逃がすかよ、珠希」

 こみあげる想いに、珠希はぎゅっと諒を抱き返した。

「逃げないよ、絶対。何があっても逃げたりしない。僕は…僕と諒さんのこれからを、ずっとずっと、ずっと諒さんと手を繋いで…諒さんと二人で生きていきたいんだ」

 夏を彩る蝉の声が辺りを包み込む。
 一斉に飛んだ鳩たちが、大きな羽音を立てた。

 諒はふと身を離し、珠希の姿を改めて見る。

「なあ、お前のその総髪…すごく似合ってる。男物の小袖姿もさまになってるし。あまりに前と違うから、最初はお前だって全然分からなかったけど…」

 変わってしまった自分の姿を、諒は受け入れてくれるのだろうか。
 一瞬珠希の心をよぎった不安は、弾けるような諒の笑顔で吹き飛んだ。

「…けどやっぱり珠希は珠希だな。そうだな、何て言うか…今年の珠希の花が、また綺麗に咲いたみてぇな、そんな気がするよ」

 どんなことがあったのだろう。今日まで何を乗り越えて、珠希はここに来たのだろう。離れた時を埋めようと、諒は息せき切って珠希に訊ねる。

「珠希、全部教えてくれよ。俺の知らないお前の話。どんな風にこの一年、毎日泣いたり笑ったりしてたのか」

 珠希は目を潤ませながら諒を見つめ、にっこりと笑った。

「うん。全部、全部聞いてね諒さん。手に汗握る僕の冒険譚を。まるで…そう、一冊の本みたいな…」

 ――作り物なんかじゃない。
 この物語は全部、僕の本当だから。

「そう、題するなら…『寺小姓立志譚てらこしょうりっしたん』だ」
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