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第二章 寺小姓立志譚
5.連鎖の糸(一)
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「ちょっと待ってくれ珠希。さすがにこれは…腰に来た」
汗だくの秋司は立ち止まり、辛そうに腰を伸ばした。
「あはは、秋司さんたら。まだまだ回りますよ。お休みするには早すぎます!」
額の汗を首にかけた手ぬぐいで拭きながら、珠希は可笑しそうに笑う。
「お前は欲張りすぎなんだ。あれもこれもと俺に担がせて…」
「だって、お勧めしたい本がありすぎて…! 僕にはとても、これ以上は減らせない」
「なら、担ぐ比率がおかしいだろ! お前の背負子は、あまりに小さすぎる…」
「そりゃあ秋司さん、そのほうが秋司さんの鍛錬になるでしょう? 僕は秋司さんの体力増強のため、心を鬼にして、こうして沢山担いでいただいてるんです!」
「限度があるだろ、限度が…!」
ぷぷぷ、と笑う珠希は、視線の先に客の姿を認め大きく手を振った。
「おおい! おみっちゃん! 今日もおみっちゃんの好きそうな本を仕入れて来たよ!」
賢そうな目を輝かせながら、ひとりの町娘が急いで駆けて来る。それは珠希の上得意、かんざし屋の娘おみつだった。
「珠希さん! 待ってたのよ。じゃあみんなを呼んでくるわね。またうちの店の小上がりで色々広げましょ!」
「いつも助かるよ、おみっちゃん。お店に御迷惑じゃないといいんだけれど…」
「ふふ、かえって助かってるわ。あたし、みんなの目につくとこに新作のかんざしを並べてるの。これが結構、いい宣伝になるのよ?」
「さすがはおみっちゃん、商売上手だね!」
おみつはおどけて鼻を高くする。
「うふふ…って、あらやだ、秋司さんたら大丈夫? 腰が曲がっちゃってるじゃない」
秋司は苦しげな声を上げる。
「…早くみんなで借りまくって、俺の荷物を減らしてくれ…」
「ふふ、だってお返しする分もあるんだもの、結局秋司さんの荷物は減らないわよ!」
「うっ。…ならそれも他の誰かに借りさせよう。こうなりゃ意地でも借りてもらう!」
「あはは、秋司さんたら押し売りの貸本屋だなんて!」
「何だか滑稽本の題材になりそうだわね。居直り秋司、なあんて…!」
「あはは! いいねおみっちゃん!」
「おいっ! お前ら人をさんざん笑い者にして、いい気なもんだ! ほら、とっとと行くぞ!」
楽しそうに盛り上がる珠希とおみつ。そのあいだに割って入った秋司は、二人を左右の腕でぐいっと引き寄せる。
三人は笑いさざめきながら、おみつの住むかんざし屋へと入って行った。
***
寺子屋の普及により高い識字率を誇った江戸の庶民にとって、読書は一大娯楽だ。高価だった本が身近な物に成り得たのは、安価な見料で本を貸し出した貸本屋の功績だった。
仕入れた本を背負子や風呂敷包みで背負い、町じゅうの得意先を回る貸本屋。
――さすがに、ととさまとかかさまのように、お店を構える元手は無いけれど…本を仕入れるだけなら何とか、貯めたお金でこと足りそうだ。
珠希は前々からそう思っていた。
材木問屋の一件で親しくなった秋司と冬儀。珠希は二人に今後を問われ、実は貸本屋をしたいのだと打ち明ける。
貸本屋か。とてもいいじゃないか。自分と同じように書物を愛する冬儀に強く背中を押され、珠希の腹が決まった。
そこからはあっという間だった。差配に版元を紹介してもらい、仕入れ先をいくつか作った。珠希が選びに選び抜いた本が、長屋の部屋にうず高く積まれて行く。
――だけどこんなに沢山、僕に運べるのかな…。
不安を募らせる珠希に冬儀は言った。
「秋司を巻き込んだらどうだろう。ふふ、きっと…荷物運びぐらいの役には立つ」
「本か…俺はさほど詳しくないからなあ…」
当初は乗り気でなかった秋司も、いざ背負子を担いで町に出てみると、様々な客と交流できるのが意外なほど楽しかった。重い荷物を背負って歩き回るうち、心と体が目覚ましく回復していくのもしみじみ嬉しかった。
刀を置き町人に身をやつし、陽気な珠希とくだらない話をしながらのびやかに深川の町を闊歩する。それは秋司にとって非常に新鮮で刺激的な毎日だった。
珠希の営む貸本屋「つつじや」が扱う本には、その目印につつじの花をかたどった印が押されている。顧客の好みを帳面に書きつけ、的確な品揃えで本を届けるつつじやは、深川の町で瞬く間に評判の貸本屋となった。
「ざっと分けてみたよ! こっちが滑稽物で、こっちが恋愛物。それからこっちが旅のお話で…そして、はいっ! こちらが皆様お待ちかね、頼山陽先生の『日本外史』、全二十二巻だ!」
「これが何しろ重いんだ。みんな頼むよ、俺を助けると思ってどんどん借りてくれ…!」
書名を聞いて、そこに集う少年らの目がきらきらと輝く。
『日本外史』は平家から徳川家まで、国を治めた武家がそれぞれ辿った栄枯盛衰を描く大長編の歴史書だ。ペリー来航の時分から今まで約二十年に渡り話題の一線を走り続ける、憂国の志士必携の書である。
武家の歴史は不安定である。対して朝廷の歴史は遥か昔から盤石として揺るぎない。その視点でこの国の構図を説く『日本外史』は尊王思想を世に広め、時代を動かす大きな鍵となった。
開国したばかりのこの国を、虎視眈々と狙う欧米諸国。国を守るには何をすべきなのか。何を頂点に抱けば為政者として人心を掌握できるのか。次に覇権を握るのはどの勢力なのか。それぞれの思惑が蠢き、喧々諤々の議論が国じゅうに渦巻いていた。
――『日本外史』か。
冬儀と俺で熱い議論を戦わせた日も…あったな。
少年らの目の輝きを、複雑な思いで秋司は見つめる。徳川家の権威が大きく揺らいでいた。何かが変わる予感、日常が逆転する予感が人々の心を騒がせている。
しかし今の秋司に国を憂う余裕は無い。秋司にとってはただ誠之助にまつわることだけがこの世の全てだった。
頭では分かっている。きっと実家の松波家では父や兄が、遠邊家では高瀬や冬儀が、激動の世にそれぞれの家を存続させるべく、必死に大局に挑んでいることだろう。
――だが俺がそこに戻ることは決して無い。その道は、俺が永遠に、棄ててしまった道…。
少年らのさざめきから秋司は目をそらす。少しの後ろめたさと一抹の寂しさが、ふっと胸の隙間を吹き抜けた。
一方恋愛物の本を台詞交じりに宣伝する珠希は、うっとりした女たちに囲まれている。芝居さながらの書評を終えた珠希は、重たげに腹を抱えながら小上がりを上がろうとしている馴染み客に気が付いた。
「あ! 待って翠さん! こっちに上がらなくても、翠さんの本は僕がそこまで運ぶから…ね? そのままそこに腰掛けてしまいなよ」
「気をつけろよ翠、ゆっくりな」
「うん、ありがと…」
翠と呼ばれたその女は駆け寄った秋司に支えられながら、土間からの上り框に腰を下ろす。珠希は一冊の本を片手に翠の元に近づいた。
「今日はね、翠さんの好きな猫の絵が沢山描いてある本を持ってきたんだけど…わ、翠さん、また一段とお腹が大きくなったじゃない!」
はにかむように笑い、愛しげに腹を撫でる翠。珠希は眩しそうな顔で翠の姿を見つめた。だが翠の顔が少しだけ曇る。
「でてくるのは、秋なのに…あたしのお腹にはいりきらなくなったら、どうしよう…」
翠は辛そうに腰のあたりをさすった。
「なんだかこわいこと、たくさん考えちゃうの…。あたし、ちゃんとお母さんに、なれるのかな…」
「翠さん…」
言葉を探す珠希。
どうしよう、とか、できるのかな、という不安は自分にも覚えがある。新しい何かに向かう時、きっと人はその思いに押しつぶされそうになるのだ。
――まして翠さんは、ひとりっきりでお母さんになろうとしてるんだもの。
ひとりぼっちの心細さは、珠希にも痛いほど分かる。けれども生き方を己の意思で変えて行くことと、否が応でも母になることは、何かが違う気がする。
黙り込んだ珠希を引き継ぐように、近くの長屋に住まうおかみさんがぽんと胸を叩いた。
「そんなもんさ。あたしだって翠ちゃんぐらいの時期には散々泣き喚いたもの。若かったしさ、どうしよう、どうしよう、ってね。不思議なもんで、最後の最後に何故だかそういう気分になるもんなんだよ、それはみんなおんなじ」
うつむく翠の顔が持ち上がる。
「ほんと…? あたしだけじゃ、ないの…?」
「そうだよ。翠ちゃんだけじゃない」
娘に向けるような温かな眼差しで、おかみさんは翠を包み込んだ。
「いいかい翠ちゃん、とにかくね、あたしたちに何でも頼ればいいんだ。あんたひとりで育てようだなんて、そりゃあ見上げた根性だけどさ、実際難しいことも多いだろうから…あんたのことはあたしたちが、町じゅう総出で助けるからね」
赤子を背負い、小さな娘の手を引く若い母親もおっとりと言葉を合わせた。
「ふふ、大丈夫よ翠ちゃん、あたしだって何とかなってるもの。困った時はね、助けてぇって遠慮なしに言えば大丈夫。そうしたら頼れる先輩方が、すぐに駆け付けてくれるんだから!」
堰を切ったように女たちが声を上げる。
「産んじまえばなんとかなるよ! うちの息子なんざ遊んでばかりで一向に孫の顔を見せてくれやしないんだ。代わりと言っちゃなんだけど、あたしゃほんとに楽しみにしてるんだよ、翠ちゃんの子のお世話するのをね!」
「ここじゃあたしたち、みんなそうしてやってきたんだよ。だから遠慮なんかいらない。みんなで育てりゃいいんだよ、ね?」
口々に励ます皆の言葉に、翠はぽろぽろと涙を流した。
「ありがと、みんな。あたし…がんばる」
ぽつりとつぶやく健気な翠の様子に、秋司の中には義侠心が湧き上がる。
――相手の男は、まるで子どものままの翠をひとりここに置き去りにして、消息を絶ったのだとおみつに聞いた。ずいぶんと恰幅のいい、与太者風の若い男だったらしいが…まあ堅気の者ではないだろうな。家を買い与えたとて、翠に子育てなどできないことは明白だろうに。たまたまおみつの家の隣だから良かったようなものの…全くとんでもない男もいたもんだ。
おみつの親は下働きとして翠を雇い、家事や生活のあれこれを教えながら、日々の糧となる給金を渡していた。
――町方の懐の深さには頭が下がる。深川の町には、俺もずいぶん世話になった。今度は俺の番だな。恩を返すつもりで、翠の件には俺も全面的に協力しよう。
なにしろ互いに支え合うのは…はは、俺のような『長屋住まいの江戸っ子』にとっちゃ、至極当たり前のことだからな。
翠を励まそうと、秋司は軽口を叩いた。
「…もし男だったら、俺がびしっと鍛えてやる。しっかり面倒見るから安心しろよ、翠」
豪快に笑った秋司に、おどけて抗議の声を上げる珠希。
「やめてください秋司さん! 僕が沢山本を読み聞かせて、賢い子にするんですからね!」
「何だよ珠希、それじゃあまるで俺が賢くないみたいじゃないか」
居合わせた一同はどっと笑った。
翠も涙の残る目で、そっと笑った。
***
汗だくの秋司は立ち止まり、辛そうに腰を伸ばした。
「あはは、秋司さんたら。まだまだ回りますよ。お休みするには早すぎます!」
額の汗を首にかけた手ぬぐいで拭きながら、珠希は可笑しそうに笑う。
「お前は欲張りすぎなんだ。あれもこれもと俺に担がせて…」
「だって、お勧めしたい本がありすぎて…! 僕にはとても、これ以上は減らせない」
「なら、担ぐ比率がおかしいだろ! お前の背負子は、あまりに小さすぎる…」
「そりゃあ秋司さん、そのほうが秋司さんの鍛錬になるでしょう? 僕は秋司さんの体力増強のため、心を鬼にして、こうして沢山担いでいただいてるんです!」
「限度があるだろ、限度が…!」
ぷぷぷ、と笑う珠希は、視線の先に客の姿を認め大きく手を振った。
「おおい! おみっちゃん! 今日もおみっちゃんの好きそうな本を仕入れて来たよ!」
賢そうな目を輝かせながら、ひとりの町娘が急いで駆けて来る。それは珠希の上得意、かんざし屋の娘おみつだった。
「珠希さん! 待ってたのよ。じゃあみんなを呼んでくるわね。またうちの店の小上がりで色々広げましょ!」
「いつも助かるよ、おみっちゃん。お店に御迷惑じゃないといいんだけれど…」
「ふふ、かえって助かってるわ。あたし、みんなの目につくとこに新作のかんざしを並べてるの。これが結構、いい宣伝になるのよ?」
「さすがはおみっちゃん、商売上手だね!」
おみつはおどけて鼻を高くする。
「うふふ…って、あらやだ、秋司さんたら大丈夫? 腰が曲がっちゃってるじゃない」
秋司は苦しげな声を上げる。
「…早くみんなで借りまくって、俺の荷物を減らしてくれ…」
「ふふ、だってお返しする分もあるんだもの、結局秋司さんの荷物は減らないわよ!」
「うっ。…ならそれも他の誰かに借りさせよう。こうなりゃ意地でも借りてもらう!」
「あはは、秋司さんたら押し売りの貸本屋だなんて!」
「何だか滑稽本の題材になりそうだわね。居直り秋司、なあんて…!」
「あはは! いいねおみっちゃん!」
「おいっ! お前ら人をさんざん笑い者にして、いい気なもんだ! ほら、とっとと行くぞ!」
楽しそうに盛り上がる珠希とおみつ。そのあいだに割って入った秋司は、二人を左右の腕でぐいっと引き寄せる。
三人は笑いさざめきながら、おみつの住むかんざし屋へと入って行った。
***
寺子屋の普及により高い識字率を誇った江戸の庶民にとって、読書は一大娯楽だ。高価だった本が身近な物に成り得たのは、安価な見料で本を貸し出した貸本屋の功績だった。
仕入れた本を背負子や風呂敷包みで背負い、町じゅうの得意先を回る貸本屋。
――さすがに、ととさまとかかさまのように、お店を構える元手は無いけれど…本を仕入れるだけなら何とか、貯めたお金でこと足りそうだ。
珠希は前々からそう思っていた。
材木問屋の一件で親しくなった秋司と冬儀。珠希は二人に今後を問われ、実は貸本屋をしたいのだと打ち明ける。
貸本屋か。とてもいいじゃないか。自分と同じように書物を愛する冬儀に強く背中を押され、珠希の腹が決まった。
そこからはあっという間だった。差配に版元を紹介してもらい、仕入れ先をいくつか作った。珠希が選びに選び抜いた本が、長屋の部屋にうず高く積まれて行く。
――だけどこんなに沢山、僕に運べるのかな…。
不安を募らせる珠希に冬儀は言った。
「秋司を巻き込んだらどうだろう。ふふ、きっと…荷物運びぐらいの役には立つ」
「本か…俺はさほど詳しくないからなあ…」
当初は乗り気でなかった秋司も、いざ背負子を担いで町に出てみると、様々な客と交流できるのが意外なほど楽しかった。重い荷物を背負って歩き回るうち、心と体が目覚ましく回復していくのもしみじみ嬉しかった。
刀を置き町人に身をやつし、陽気な珠希とくだらない話をしながらのびやかに深川の町を闊歩する。それは秋司にとって非常に新鮮で刺激的な毎日だった。
珠希の営む貸本屋「つつじや」が扱う本には、その目印につつじの花をかたどった印が押されている。顧客の好みを帳面に書きつけ、的確な品揃えで本を届けるつつじやは、深川の町で瞬く間に評判の貸本屋となった。
「ざっと分けてみたよ! こっちが滑稽物で、こっちが恋愛物。それからこっちが旅のお話で…そして、はいっ! こちらが皆様お待ちかね、頼山陽先生の『日本外史』、全二十二巻だ!」
「これが何しろ重いんだ。みんな頼むよ、俺を助けると思ってどんどん借りてくれ…!」
書名を聞いて、そこに集う少年らの目がきらきらと輝く。
『日本外史』は平家から徳川家まで、国を治めた武家がそれぞれ辿った栄枯盛衰を描く大長編の歴史書だ。ペリー来航の時分から今まで約二十年に渡り話題の一線を走り続ける、憂国の志士必携の書である。
武家の歴史は不安定である。対して朝廷の歴史は遥か昔から盤石として揺るぎない。その視点でこの国の構図を説く『日本外史』は尊王思想を世に広め、時代を動かす大きな鍵となった。
開国したばかりのこの国を、虎視眈々と狙う欧米諸国。国を守るには何をすべきなのか。何を頂点に抱けば為政者として人心を掌握できるのか。次に覇権を握るのはどの勢力なのか。それぞれの思惑が蠢き、喧々諤々の議論が国じゅうに渦巻いていた。
――『日本外史』か。
冬儀と俺で熱い議論を戦わせた日も…あったな。
少年らの目の輝きを、複雑な思いで秋司は見つめる。徳川家の権威が大きく揺らいでいた。何かが変わる予感、日常が逆転する予感が人々の心を騒がせている。
しかし今の秋司に国を憂う余裕は無い。秋司にとってはただ誠之助にまつわることだけがこの世の全てだった。
頭では分かっている。きっと実家の松波家では父や兄が、遠邊家では高瀬や冬儀が、激動の世にそれぞれの家を存続させるべく、必死に大局に挑んでいることだろう。
――だが俺がそこに戻ることは決して無い。その道は、俺が永遠に、棄ててしまった道…。
少年らのさざめきから秋司は目をそらす。少しの後ろめたさと一抹の寂しさが、ふっと胸の隙間を吹き抜けた。
一方恋愛物の本を台詞交じりに宣伝する珠希は、うっとりした女たちに囲まれている。芝居さながらの書評を終えた珠希は、重たげに腹を抱えながら小上がりを上がろうとしている馴染み客に気が付いた。
「あ! 待って翠さん! こっちに上がらなくても、翠さんの本は僕がそこまで運ぶから…ね? そのままそこに腰掛けてしまいなよ」
「気をつけろよ翠、ゆっくりな」
「うん、ありがと…」
翠と呼ばれたその女は駆け寄った秋司に支えられながら、土間からの上り框に腰を下ろす。珠希は一冊の本を片手に翠の元に近づいた。
「今日はね、翠さんの好きな猫の絵が沢山描いてある本を持ってきたんだけど…わ、翠さん、また一段とお腹が大きくなったじゃない!」
はにかむように笑い、愛しげに腹を撫でる翠。珠希は眩しそうな顔で翠の姿を見つめた。だが翠の顔が少しだけ曇る。
「でてくるのは、秋なのに…あたしのお腹にはいりきらなくなったら、どうしよう…」
翠は辛そうに腰のあたりをさすった。
「なんだかこわいこと、たくさん考えちゃうの…。あたし、ちゃんとお母さんに、なれるのかな…」
「翠さん…」
言葉を探す珠希。
どうしよう、とか、できるのかな、という不安は自分にも覚えがある。新しい何かに向かう時、きっと人はその思いに押しつぶされそうになるのだ。
――まして翠さんは、ひとりっきりでお母さんになろうとしてるんだもの。
ひとりぼっちの心細さは、珠希にも痛いほど分かる。けれども生き方を己の意思で変えて行くことと、否が応でも母になることは、何かが違う気がする。
黙り込んだ珠希を引き継ぐように、近くの長屋に住まうおかみさんがぽんと胸を叩いた。
「そんなもんさ。あたしだって翠ちゃんぐらいの時期には散々泣き喚いたもの。若かったしさ、どうしよう、どうしよう、ってね。不思議なもんで、最後の最後に何故だかそういう気分になるもんなんだよ、それはみんなおんなじ」
うつむく翠の顔が持ち上がる。
「ほんと…? あたしだけじゃ、ないの…?」
「そうだよ。翠ちゃんだけじゃない」
娘に向けるような温かな眼差しで、おかみさんは翠を包み込んだ。
「いいかい翠ちゃん、とにかくね、あたしたちに何でも頼ればいいんだ。あんたひとりで育てようだなんて、そりゃあ見上げた根性だけどさ、実際難しいことも多いだろうから…あんたのことはあたしたちが、町じゅう総出で助けるからね」
赤子を背負い、小さな娘の手を引く若い母親もおっとりと言葉を合わせた。
「ふふ、大丈夫よ翠ちゃん、あたしだって何とかなってるもの。困った時はね、助けてぇって遠慮なしに言えば大丈夫。そうしたら頼れる先輩方が、すぐに駆け付けてくれるんだから!」
堰を切ったように女たちが声を上げる。
「産んじまえばなんとかなるよ! うちの息子なんざ遊んでばかりで一向に孫の顔を見せてくれやしないんだ。代わりと言っちゃなんだけど、あたしゃほんとに楽しみにしてるんだよ、翠ちゃんの子のお世話するのをね!」
「ここじゃあたしたち、みんなそうしてやってきたんだよ。だから遠慮なんかいらない。みんなで育てりゃいいんだよ、ね?」
口々に励ます皆の言葉に、翠はぽろぽろと涙を流した。
「ありがと、みんな。あたし…がんばる」
ぽつりとつぶやく健気な翠の様子に、秋司の中には義侠心が湧き上がる。
――相手の男は、まるで子どものままの翠をひとりここに置き去りにして、消息を絶ったのだとおみつに聞いた。ずいぶんと恰幅のいい、与太者風の若い男だったらしいが…まあ堅気の者ではないだろうな。家を買い与えたとて、翠に子育てなどできないことは明白だろうに。たまたまおみつの家の隣だから良かったようなものの…全くとんでもない男もいたもんだ。
おみつの親は下働きとして翠を雇い、家事や生活のあれこれを教えながら、日々の糧となる給金を渡していた。
――町方の懐の深さには頭が下がる。深川の町には、俺もずいぶん世話になった。今度は俺の番だな。恩を返すつもりで、翠の件には俺も全面的に協力しよう。
なにしろ互いに支え合うのは…はは、俺のような『長屋住まいの江戸っ子』にとっちゃ、至極当たり前のことだからな。
翠を励まそうと、秋司は軽口を叩いた。
「…もし男だったら、俺がびしっと鍛えてやる。しっかり面倒見るから安心しろよ、翠」
豪快に笑った秋司に、おどけて抗議の声を上げる珠希。
「やめてください秋司さん! 僕が沢山本を読み聞かせて、賢い子にするんですからね!」
「何だよ珠希、それじゃあまるで俺が賢くないみたいじゃないか」
居合わせた一同はどっと笑った。
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