大江戸の朝、君と駆ける

藤本 サクヤ

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第二章 寺小姓立志譚

4.邂逅(かいこう)(四)

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 次の日。
 稲荷の祠の前で待ち合わせた、見違えるような秋司の姿に珠希は感嘆の声を上げた。

「松波様…御立派です!」

 髪結床かみゆいどこで整えたのだろう。綺麗に剃りあがった月代。固く結われた髷。昨日までの乱れた風情とはまるで別人の精悍さだった。そして何より、きっちり着込んだ羽織袴に腰から下げた大小の刀。

 ――あれ、この羽織どこかで…。
 お寺にいらしてたお武家様が着てらしたのかもね。

 すっかり見違えた秋司のどこか晴れやかな顔に、珠希は何だか嬉しくなった。
 秋司は照れくさそうに、まじまじと自分の姿を見下ろす。
 ――冬儀が無理やり俺の行李にしまい込んでいた遠邊家の羽織袴。もう二度とまとうことなど無いと…思っていたが。

「御立派です、か…。はは、これから出陣でもするみたいだな」

「ふふ、じゃあ今日の僕は寺小姓ならぬ小姓、森蘭丸の御役おやくを頂戴しますね」

「それは大きく出たな。じゃあ俺は信長公か。鼻の下に髭でも描くか」

 珠希の軽口につられて久しぶりに気分が高揚するのを感じながら、秋司は一路深川の町へと繰り出した。

「…ちょ、ちょっと差配さん、あれ…!」

「え…!」

 いつものように立ち話をしていた差配と木戸番は目の前の光景に言葉を失う。

 珠希はにこにこと、そんな二人に声をかけた。その隣には涼やかな目をした秋司が、遠邊家の正装を身にまとい立っている。

「こんにちは差配さん、番太郎さん。僕、松波様と一緒にお仕事を辞めてきます!」

「…ちょっとした出陣だ。その…行ってくる」

「え?…あ、あはは、そりゃ豪気な…い、行ってらっしゃいませ松波様、珠希」

「ご、御武運を…」

 二人の後ろ姿を差配と木戸番はあんぐり口を開け、ぼんやりと見送った。

「珠希が、松波様と一緒に仕事を辞めてくる? 差配さん、こりゃ一体どういう…」

 年のせいか、すっかり涙もろくなった差配は、熱くなった目頭をそっと押さえた。

「何でもいいさ。松波様も珠希も…きっとそれぞれの駒をひとつ前に進めようって、そう決めたんだよ…」

 長い梅雨もそろそろ終わりの気配を見せていた。

「今年の夏はさ、かあっと暑くなりゃいいね」

 海を目指すかもめが二羽、晴れ渡る深川の空をゆっくり横切った。


 ***


 深川木場は材木の町である。碁盤の目のように張り巡らされた運河には、各地で切り出された丸太が所狭しと浮かんでいた。明暦の大火後、可燃性のものを扱っているからと埋立地への移転を命じられた日本橋や神田の材木問屋らが作り上げた町。それがここ、深川木場だった。

 何しろ建物から家財道具、食器に至るまで、この世を形成するほとんどは木製である。木材は、燃えてしまえば灰燼かいじんに帰す。朽ち果てもする。それを再建するには、また同じだけの木材が必要で…と、その需要は永遠に続いて行く。
 江戸の暮らしを維持するには、常に大量の木材の備蓄が必要だ。それを商う材木問屋は、まさに社会の根幹を担う重要な商売だった。

 運河に浮かんだ丸太の上には、川並かわなみと呼ばれる筏師いかだしたちが乗っている。鳶口とびくちという長い棒をあやつり、丸太を乗りこなしながら筏の形に組む様は、まさに職人技。ここから角乗かくのりという芸能も生まれた。

「…壮観だな。珍しい眺めだ」

 水面を照り返す日差しにまぶしく目を細めながら、秋司が辺りを眺める。

「松波様、こちらまでいらしたことなかったんですね。ほら、師走にずいぶん雪が降った日…あの時は歌川広重の江戸百景に描かれたとおりの素敵な景色でした」

 ――あの雪の日。
 誠之助様のことがあったのは…あれからすぐのことだった。
 そう思い表情を曇らせた秋司の様子に、珠希はさりげなく話題を逸らした。

「ね、松波様聞いてください。ああやって川並さんたちはこともなげに丸太に乗っていますよね? 僕、てっきり簡単に乗れるもんだと思って、こっそり乗ってみたんです。そしたら、ふふ、あっという間にひっくり返っちゃって! 溺れそうになったところを川並さんたちに引き上げられて。あはは。もう大変な騒ぎになったんですよ」

「さすがにそれは無謀だぞ、珠希。でも分かるよ、こうやって見ていると、何だか自分にも…簡単にできそうだ」

「なら…二人で乗ってみますか? こっそり」

 ――珠希は…いい奴だな。一瞬かげった俺の気持ちが、知らぬ間にもうほぐれている。
 今まで色々なことがあったのだろう。
 寺小姓をしていたというのも、その寺を出たのも、それからの苦労も昨夜のことも…。それなのに、つい表情を曇らせた俺を気遣い自然に寄り添ってくれている。

「…揃ってずぶ濡れで帰ったら、差配が腰を抜かすだろうな」

 秋司も軽い調子を作り珠希に言葉を返す。

 ――そうか。人とは、そういうものなんだな…。
 痛んだ人に寄り添うには、自分にも痛みの記憶が必要なんだ。

 思えば俺はあのことがあるまで、常に陽の当たる道を…何のてらいもなく歩いていた。そんな俺は知らず他人に…誠之助様にも、そして俺自身にも…その王道を歩み続けることを強いていたのかもしれない。

 痛みや苦しみを、俺は知らなさすぎた。
 だから俺はあの頃の誠之助様に寄り添えなかった。だから誠之助様は俺に何も打ち明けられなかったんだ…きっと。

 痛みを得た今なら…あの頃の誠之助様の痛みに寄り添うことができるだろうか。

「松波様。あれが僕の働いている材木問屋です」

 真新しい木の香りが心地よく鼻をつく。物思いにふける秋司は我に返った。


 ***
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