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第二章 寺小姓立志譚
3.奥山詣(八)
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清沙院に差し込む早朝の光。朝の務めを終えた慈風は、足早に珠希の部屋へと向かっていた。
――珠希が務めに顔を見せないだなんて…。
やはり昨夜のことが、まだ…。
今日は珠希の喜ぶことを何でもしてやろう。そう思いながら、慈風は珠希の部屋の入り口に立つ。
「…珠希、起きているか? 寝坊だなんて珍しいじゃないか。朝の務めはもう…」
だがしんと静まり返った部屋からは何の返事もない。
「珠希…?」
胸騒ぎがして、慈風はがらっと襖を開ける。
「…っ!」
部屋は、もぬけの殻。文机にただ一枚広げられた懐紙には、見慣れた珠希の筆跡が残されていた。
『お主さま 勝手な僕をお許しください
大人になって、いつか必ず御挨拶に参ります』
慌てて開いた行李には、綺麗に畳まれた衣装の数々。心を乱した慈風はまるで投げ散らかすようにしてその中身を確かめる。床に散らばる豪奢な衣装。わずかに普段着の小袖だけが消えていた。
「そ…んな…珠希…珠希、珠希…っ!」
我を忘れ、走り出した慈風は門前に向かう。
と、こんな早朝から所在なさげに立っている、出入りの若い植木職人と行き会った。
「…御院主様?」
いぶかしげにこちらを見る顔には見覚えがある。
「お前は…昨夜の…!」
「御院主様…」
男は決意を固めたように、深く頭を下げた。
「御院主様、俺は、俺は諒って者です、御院主様にお願いがあります。珠希に…珠希にもう一度会わせてください、それで…それで珠希を、珠希を手放してやってください、お願いします御院主様、どうか、このとおりです…!」
――では、珠希はこの男のところにも行っていないと…?
ああ珠希、どういうことだ…珠希、これは一体、どういうことなんだ…!
慈風の体から全ての力が抜けて行く。
「珠希は…珠希は寺を…出て行った。大人になると、そんなことを書き残して…」
やにわに顔を上げた諒の目が、飛び出さんばかりに開かれた。
「珠希が…っ? 出て行ったって御院主様っ、い、一体ぇ、どこへ…!」
慈風の頭の中に、幾度も同じ言葉ばかりが浮かんでは消える。
――珠希が消えてしまった…。
私の人生から、珠希が、消えてしまった…。
「分からない…私には何も分からない…ああ、どうして、珠希、珠希、珠希…」
思わず座り込んだ慈風。その向かいには呆然自失となった諒がへたり込んだ。
慈風の心を深い絶望が覆っていく。
――珠希、無茶だ…お前が私を離れ、たったひとりで生きられるはずもないのに…。
諒の体を鋭い自責の念が貫いた。
――珠希、ごめんな。ゆうべの俺が情けねぇことばっかり言ったから…お前はひとりっきりで、行くしかなかったんだよな…。
それぞれの思いの果てで、二人の言葉が重なる。
「珠希…一体、どこへ…」
やがて秋が来て冬となり、春を経て次のつつじの季節が終わってしまっても。珠希の行方は、杳として知れなかった。
――珠希が務めに顔を見せないだなんて…。
やはり昨夜のことが、まだ…。
今日は珠希の喜ぶことを何でもしてやろう。そう思いながら、慈風は珠希の部屋の入り口に立つ。
「…珠希、起きているか? 寝坊だなんて珍しいじゃないか。朝の務めはもう…」
だがしんと静まり返った部屋からは何の返事もない。
「珠希…?」
胸騒ぎがして、慈風はがらっと襖を開ける。
「…っ!」
部屋は、もぬけの殻。文机にただ一枚広げられた懐紙には、見慣れた珠希の筆跡が残されていた。
『お主さま 勝手な僕をお許しください
大人になって、いつか必ず御挨拶に参ります』
慌てて開いた行李には、綺麗に畳まれた衣装の数々。心を乱した慈風はまるで投げ散らかすようにしてその中身を確かめる。床に散らばる豪奢な衣装。わずかに普段着の小袖だけが消えていた。
「そ…んな…珠希…珠希、珠希…っ!」
我を忘れ、走り出した慈風は門前に向かう。
と、こんな早朝から所在なさげに立っている、出入りの若い植木職人と行き会った。
「…御院主様?」
いぶかしげにこちらを見る顔には見覚えがある。
「お前は…昨夜の…!」
「御院主様…」
男は決意を固めたように、深く頭を下げた。
「御院主様、俺は、俺は諒って者です、御院主様にお願いがあります。珠希に…珠希にもう一度会わせてください、それで…それで珠希を、珠希を手放してやってください、お願いします御院主様、どうか、このとおりです…!」
――では、珠希はこの男のところにも行っていないと…?
ああ珠希、どういうことだ…珠希、これは一体、どういうことなんだ…!
慈風の体から全ての力が抜けて行く。
「珠希は…珠希は寺を…出て行った。大人になると、そんなことを書き残して…」
やにわに顔を上げた諒の目が、飛び出さんばかりに開かれた。
「珠希が…っ? 出て行ったって御院主様っ、い、一体ぇ、どこへ…!」
慈風の頭の中に、幾度も同じ言葉ばかりが浮かんでは消える。
――珠希が消えてしまった…。
私の人生から、珠希が、消えてしまった…。
「分からない…私には何も分からない…ああ、どうして、珠希、珠希、珠希…」
思わず座り込んだ慈風。その向かいには呆然自失となった諒がへたり込んだ。
慈風の心を深い絶望が覆っていく。
――珠希、無茶だ…お前が私を離れ、たったひとりで生きられるはずもないのに…。
諒の体を鋭い自責の念が貫いた。
――珠希、ごめんな。ゆうべの俺が情けねぇことばっかり言ったから…お前はひとりっきりで、行くしかなかったんだよな…。
それぞれの思いの果てで、二人の言葉が重なる。
「珠希…一体、どこへ…」
やがて秋が来て冬となり、春を経て次のつつじの季節が終わってしまっても。珠希の行方は、杳として知れなかった。
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