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第二章 寺小姓立志譚
3.奥山詣(六)
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昼間あんなにはしゃいで歩いた道。つい何刻か前のことなのに、ずいぶん遠い昔のようだ。
楽しかった一日が、もうすぐ終わろうとしていた。ぎゅっと手を繋ぎながら歩く、清沙院への道。
「なあ、珠希。俺、何だか…泣きたくなってきちまった」
何かをぐるぐると考えていた諒は、悲しげに顔をゆがめた。
「せっかくお前と気持ちが繋がったのに、先がねぇなんて…」
珠希は驚いたように、諒を見つめる。
「先が無い? どうして?」
「…だって、お前と俺じゃ身分が違いすぎるだろ?」
珠希はあっけらかんと笑った。
「あはは、やだなあ諒さん。僕、武家の御姫様じゃないんだよ? 僕は諒さんとおんなじ、ただの町人なのに」
珠希は楽しげに、少し潤んだ目で諒の目を覗き込む。
「ね…諒さん。二人で暮らさない? 僕たちが一緒に暮らしたら、毎日とっても素敵で…きっと、楽しいよ?」
諒は自信なさげに目を伏せた。
「そりゃあ珠希、お前が毎日一緒にいてくれたら、そんなの…楽しいに決まってる。けど…情けねぇけど俺の少ねぇ給金じゃ、御院主様みてぇにお前を養う自信がねぇんだ…」
悲しげにうつむく諒を、珠希は頬を上気させ、真っ直ぐに見つめた。
「そんなこと考えてたの! 諒さん、もちろん僕もお仕事を探すよ。諒さんに寄りかかって重荷になるようなことはしたくないし…それに僕ね、思ってたんだ。このままずっとお寺にいるわけにはいかないって。僕は僕の生き方を探さなきゃって」
決意を固めたように珠希は大きくうなずいた。
「僕、お主さまにきちんと話をする。一生懸命話せばきっと分かってくださると思うんだ。そしたら僕は清沙院を出る」
夢のような話だった。でも、だからこそ、諒には不安ばかりが募る。
「けど…御院主様、そんなに簡単にお前を手放すかな…。それに仕事を探すったって、お前、今までまともに働いたことねぇのに…。外で働くのは辛ぇぞ? 俺は心配だよ珠希。今の暮らしのほうがむしろお前にとっちゃ、幸せなんじゃねぇかって…」
諒を見つめる珠希の顔が、悲しげにゆがむ。諒ははっとした。
「諒さん…僕の幸せって…一体なあに? それに…僕、まだ何も試してないよ?」
「…ごめん珠希、そういうつもりじゃねぇんだ。けど世の中は、お前が思ってるよりずっと厳しいから…箱入りのお前には辛すぎるんじゃねぇかって、不安でさ…」
珠希は立ち止まり、じっと足元を見つめた。
「…ありがとう諒さん。心配してくれてるんだよね。僕があまりに頼りないから…」
諒は慌てて珠希の両手をとった。
「違うんだよ珠希、そういう意味じゃ…」
珠希はそっと諒の手をほどくと、うつむいて黙ったまま早足で歩き出す。
「ごめん珠希、お前を見くびってるわけじゃねぇんだ。変な言い方して、悪かった…」
さっきまでぴったり寄り添っていた二人の気持ちが、急速にすれ違って行く。うまく思いを伝えられないまま、とぼとぼと珠希の背中を追う諒の目に見え始める清沙院。
と、門前で立ち尽くす黒い人影があった。
「…珠希? 珠希なのか?」
大股でこちらに向かってくる慈風を認め、はっとした珠希が身を固くする。
「お主さま…! でも、でも今夜は…」
「珠希が寂しいだろうと予定を切り上げたんだ。探したよ。一体どこへ…」
いつになく厳しい口調の慈風。諒は慌てて珠希の前に出た。
「御院主様、珠希を叱らないでやってください。俺が無理やり誘ったんです」
「お前は誰だ…! 珠希に何かあったらどうするつもりだった…!」
珠希をかばう諒。保護者然として気色ばむ慈風。
――これじゃあまるで、僕ひとりが子どもみたいだ…。
珠希は叫ぶように悲痛な声を上げた。
「…違う、違うよ…! 僕が諒さんを誘ったんだ。僕が、僕が出かけたかったんだ!」
呆気にとられる諒と慈風をその場に残し、珠希はその目いっぱいに涙を溜めながら寺の中へ走り込んだ。
「珠希!」
諒と慈風の声が合わさる。慈風はぐっと諒を一瞥すると、珠希を追って寺に消えた。
「くそ…っ!」
後悔が諒の全身を貫く。
――どうして言えなかったんだ。
二人でやってみようって。
一緒に珠希の生き方を探そうって。
何であいつのこと、励ましてやれなかったんだ…!
視線を落とす諒。
今日珠希が幾度もぎゅっと掴んだ左の袖の袂には、まだかすかなしわが残っている。ついさっきまで、諒を見上げて笑う珠希がいた左側は、今ではもう空っぽだった。
「ごめん。ごめんな珠希…」
宵闇に沈む清沙院。その門前で諒は唇を噛み締めたまま、ただ呆然と立ち尽くしていた。
楽しかった一日が、もうすぐ終わろうとしていた。ぎゅっと手を繋ぎながら歩く、清沙院への道。
「なあ、珠希。俺、何だか…泣きたくなってきちまった」
何かをぐるぐると考えていた諒は、悲しげに顔をゆがめた。
「せっかくお前と気持ちが繋がったのに、先がねぇなんて…」
珠希は驚いたように、諒を見つめる。
「先が無い? どうして?」
「…だって、お前と俺じゃ身分が違いすぎるだろ?」
珠希はあっけらかんと笑った。
「あはは、やだなあ諒さん。僕、武家の御姫様じゃないんだよ? 僕は諒さんとおんなじ、ただの町人なのに」
珠希は楽しげに、少し潤んだ目で諒の目を覗き込む。
「ね…諒さん。二人で暮らさない? 僕たちが一緒に暮らしたら、毎日とっても素敵で…きっと、楽しいよ?」
諒は自信なさげに目を伏せた。
「そりゃあ珠希、お前が毎日一緒にいてくれたら、そんなの…楽しいに決まってる。けど…情けねぇけど俺の少ねぇ給金じゃ、御院主様みてぇにお前を養う自信がねぇんだ…」
悲しげにうつむく諒を、珠希は頬を上気させ、真っ直ぐに見つめた。
「そんなこと考えてたの! 諒さん、もちろん僕もお仕事を探すよ。諒さんに寄りかかって重荷になるようなことはしたくないし…それに僕ね、思ってたんだ。このままずっとお寺にいるわけにはいかないって。僕は僕の生き方を探さなきゃって」
決意を固めたように珠希は大きくうなずいた。
「僕、お主さまにきちんと話をする。一生懸命話せばきっと分かってくださると思うんだ。そしたら僕は清沙院を出る」
夢のような話だった。でも、だからこそ、諒には不安ばかりが募る。
「けど…御院主様、そんなに簡単にお前を手放すかな…。それに仕事を探すったって、お前、今までまともに働いたことねぇのに…。外で働くのは辛ぇぞ? 俺は心配だよ珠希。今の暮らしのほうがむしろお前にとっちゃ、幸せなんじゃねぇかって…」
諒を見つめる珠希の顔が、悲しげにゆがむ。諒ははっとした。
「諒さん…僕の幸せって…一体なあに? それに…僕、まだ何も試してないよ?」
「…ごめん珠希、そういうつもりじゃねぇんだ。けど世の中は、お前が思ってるよりずっと厳しいから…箱入りのお前には辛すぎるんじゃねぇかって、不安でさ…」
珠希は立ち止まり、じっと足元を見つめた。
「…ありがとう諒さん。心配してくれてるんだよね。僕があまりに頼りないから…」
諒は慌てて珠希の両手をとった。
「違うんだよ珠希、そういう意味じゃ…」
珠希はそっと諒の手をほどくと、うつむいて黙ったまま早足で歩き出す。
「ごめん珠希、お前を見くびってるわけじゃねぇんだ。変な言い方して、悪かった…」
さっきまでぴったり寄り添っていた二人の気持ちが、急速にすれ違って行く。うまく思いを伝えられないまま、とぼとぼと珠希の背中を追う諒の目に見え始める清沙院。
と、門前で立ち尽くす黒い人影があった。
「…珠希? 珠希なのか?」
大股でこちらに向かってくる慈風を認め、はっとした珠希が身を固くする。
「お主さま…! でも、でも今夜は…」
「珠希が寂しいだろうと予定を切り上げたんだ。探したよ。一体どこへ…」
いつになく厳しい口調の慈風。諒は慌てて珠希の前に出た。
「御院主様、珠希を叱らないでやってください。俺が無理やり誘ったんです」
「お前は誰だ…! 珠希に何かあったらどうするつもりだった…!」
珠希をかばう諒。保護者然として気色ばむ慈風。
――これじゃあまるで、僕ひとりが子どもみたいだ…。
珠希は叫ぶように悲痛な声を上げた。
「…違う、違うよ…! 僕が諒さんを誘ったんだ。僕が、僕が出かけたかったんだ!」
呆気にとられる諒と慈風をその場に残し、珠希はその目いっぱいに涙を溜めながら寺の中へ走り込んだ。
「珠希!」
諒と慈風の声が合わさる。慈風はぐっと諒を一瞥すると、珠希を追って寺に消えた。
「くそ…っ!」
後悔が諒の全身を貫く。
――どうして言えなかったんだ。
二人でやってみようって。
一緒に珠希の生き方を探そうって。
何であいつのこと、励ましてやれなかったんだ…!
視線を落とす諒。
今日珠希が幾度もぎゅっと掴んだ左の袖の袂には、まだかすかなしわが残っている。ついさっきまで、諒を見上げて笑う珠希がいた左側は、今ではもう空っぽだった。
「ごめん。ごめんな珠希…」
宵闇に沈む清沙院。その門前で諒は唇を噛み締めたまま、ただ呆然と立ち尽くしていた。
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