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第二章 寺小姓立志譚
3.奥山詣(四)
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ぷうっと頬を膨らませながら店を後にする珠希は歯磨き粉を掴んでぶんぶん振りながら、しきりに諒に問いかける。
「矢場って、何だか変だね。どうしてお姉さんたちはあんなに着物を着崩して、お客様に肌を見せるの? さすがにちょっと見苦しいよ。それにさ、僕だけあんな近くから的を射ていいだなんて、もしかして僕、子どもと間違えられたのかな。その割に景品は、こう言っちゃ悪いけど、大した物が無かったし…」
諒は言いづらそうに、ぼそぼそと説明した。
「いや、あれは、何だ、その、気にいりゃ矢取り女と奥の部屋で…ってことよ。矢場ってのはさ、矢を射るために来るとこじゃねぇんだ。むしろそっちが主なんだよ」
珠希は驚いて声を上げる。
「ええっ、そうなの! 全然気が付かなくて…! わ…僕…わあ、僕ひとりではしゃいで、何だか申し訳なかったよ…!」
「はは、哀れな矢取り女だぜ。あんなに散々頑張ってたのに」
――寺で話してる分にはあんまり気にならねぇけど、やっぱり全然すれてねぇんだな、珠希って奴は。
ま、そこが珠希のいいとこなんだけど。
「だからさ珠希。この辺りはちょっと良くない連中も集まってくる。そろそろ戻ろうぜ」
そう言った矢先のことだった。わざと大声で笑い辺りを威嚇しながら、見るからに柄の悪い集団がやってくる。
――うわっ。ほらみろ。
目立つ珠希が絡まれぬよう、何気なくやり過ごそうとした諒だったが、思いもよらずあちらからお声がかかってしまう。
しかも、諒に。
「おお、諒じゃねぇか。何だよお前ぇ、なんだかずいぶんと御無沙汰だよなあ?」
――ついてねぇ、こんなところで銀次さんかよ…。こいつ、面倒くせぇんだよなあ…。
諒はすがる思いで、ちんぴらの一団をぐるりと見渡した。
――おお、いたいた、助かった!
目当ての顔を探し当てた諒は、頼む、何とかしてくれ、と必死に目で合図を送る。
一団の中でもひときわ大柄な体を派手な着物で包んだ男。それは同じ植木屋で働いていた諒の幼馴染、鉄二郎だった。
もう三年ほど前のこと。親方の厳しい指導に辟易していた鉄二郎は、調子が悪いの何のと理由を濁してぱったり現場に来なくなった。そして遊興にばかりいそしむうち、いつしか悪い仲間とつるむようになる。
やがて鉄二郎はその仲間に誘われるまま、御禁制である賭場の開帳を生業にし始めた。なんでも最近では太い旦那が付いたとかで、空き家になった丸ノ内の大名屋敷跡を使いずいぶん派手な賭場を手掛けている。
だが鉄二郎が道を逸れても諒との付き合いは続いた。何を隠そう諒がさいころ賭博の面白さを知ったのは、鉄二郎に誘われたのがきっかけだ。
しかし諒は鉄二郎の予想を遥かに超えて過剰にのめり込む。誘ってしまった責任感からか、鉄二郎は諒に何かと助け船を出すのが常だった。
諒は背後に珠希を隠すようにして、銀次に愛想笑いをした。状況を察した珠希は少し諒から離れ、手近な出店を覗くふりをする。
「はは、ちょっと最近忙しくって。御無沙汰しちまってすいませんね、銀次さん」
「なあ諒、まさかお前ぇ、さいころ断ちだなんて、つれないこたぁ言わねぇよな。お前ぇが素寒貧になった時にゃ、俺ぁあんだけ金を融通してやったんだぜ? だったら挨拶がてら、たまには俺の賭場に顔ぐれぇ出すってのが筋だろ? なあ、お前らもそう思うだろ?」
ったく何言ってやがる! 諒は心底苛々する。
――くそっ、珠希の前でこんな話を…。
借財なんざ綺麗さっぱり返したんだ。そのあと賭場に行こうが行かまいが、そんなもんこっちの勝手だろ!
人に絡んで兄さん面をしたいだけなんだよ。ったく朝顔のつるじゃあるめぇし。心の中で散々悪口を並べるうちに、頼みの鉄二郎があいだに割って入ってくれた。
「銀次兄さん、すんません、今日のところは勘弁してやってください。そのうち顔出すように、こいつには俺からしっかり言っときますんで」
――鉄…っ! やっぱりお前は頼れる男だよ。
諒は心の中でぎゅっと手を合わせる。
「ああ? そうか? まあ子分に頭下げられちゃあ仕方がねぇなあ。そんなら今日はお前ぇに免じて…」
――はいはい分かったよ。
よしっ、あと一押しでおさらばできるぜ。
諒が安心しかけたその時だった。
「へぇ…。なあ、兄ちゃんさ。お前またずいぶんな上玉を…連れてるじゃねぇか」
はっ、と声の主を見る。
初めて見る顔だ。どうやらどこぞの若党らしい。
男はこれ見よがしに武家の羽織をまとい、腰刀を見せつけている。交差する二枚の鷹の羽の家紋が胸元に輝いていた。
「はは。朝陽さんはさすがだよぉ。目の付けどころがやっぱり俺なんかとは違うなあ」
あの銀次がまるで機嫌を取るかのように、朝陽と呼ばれたその若党を盛んに持ち上げる。朝陽は諒を見据え、にやりと笑った。
「うらやましいねぇ。今日は二人で仲良く奥山詣か。一体ぇどちらの寺小姓さんが、若い男とこっそりこんなところへ? ふうん、こいつあ…面白れぇとこ押さえちまったなぁ」
刀の柄をゆっくり撫で上げる朝陽。
「なあ寺小姓さんよ。夜道は危ねぇから…今夜は俺がこのまま送ってやるよ。送り届けた先で住職さんに何をご報告するかは…ま、お前ぇ次第だけどな?」
諒の全身から血の気が引いた。
――こいつ…珠希を強請るつもりか。
銀次とは異質の危険な雰囲気が朝陽からは漂っている。頼みの鉄二郎もしぶい顔をして、諒に向かい小さく首を横に振った。こいつぁ無理だとそう言いたげに。
「や、やめ…」
諒が決死の一歩を踏み出そうとしたその瞬間。
「きゃあっ! 誰かぁっ、誰か助けてぇっ、人買いに、かどわかされるうっ!」
突然珠希がけたたましく騒ぎ立てた。
「何だ何だ、かどわかし?」
「おいちょっと、ほら、あの寺小姓じゃねぇか?」
「んだとぉ? 俺のシマで何してやがるんでい!」
「おいお前ぇら、突っ立ってねぇで助けてやろうぜ!」
やいのやいのと、あちらこちらから野次馬が集まってくる。
「助けてぇっ、そいつらに連れて行かれるよぉっ!」
珠希は朝陽たちの一団をぐっと指さした。
「おうっ、あいつらか!」
「はは、面白ぇ。そら、あいだに入っちまおうぜ!」
「喧嘩だ喧嘩だぁ! むしゃくしゃしてたんだ、へへ、丁度いいぜ!」
様々な者が様々な意図で、ぐるりと一団を取り囲む。呆気にとられる諒の手を、ぐいっと珠希が引っ張った。
「諒さん、走るよ!」
「矢場って、何だか変だね。どうしてお姉さんたちはあんなに着物を着崩して、お客様に肌を見せるの? さすがにちょっと見苦しいよ。それにさ、僕だけあんな近くから的を射ていいだなんて、もしかして僕、子どもと間違えられたのかな。その割に景品は、こう言っちゃ悪いけど、大した物が無かったし…」
諒は言いづらそうに、ぼそぼそと説明した。
「いや、あれは、何だ、その、気にいりゃ矢取り女と奥の部屋で…ってことよ。矢場ってのはさ、矢を射るために来るとこじゃねぇんだ。むしろそっちが主なんだよ」
珠希は驚いて声を上げる。
「ええっ、そうなの! 全然気が付かなくて…! わ…僕…わあ、僕ひとりではしゃいで、何だか申し訳なかったよ…!」
「はは、哀れな矢取り女だぜ。あんなに散々頑張ってたのに」
――寺で話してる分にはあんまり気にならねぇけど、やっぱり全然すれてねぇんだな、珠希って奴は。
ま、そこが珠希のいいとこなんだけど。
「だからさ珠希。この辺りはちょっと良くない連中も集まってくる。そろそろ戻ろうぜ」
そう言った矢先のことだった。わざと大声で笑い辺りを威嚇しながら、見るからに柄の悪い集団がやってくる。
――うわっ。ほらみろ。
目立つ珠希が絡まれぬよう、何気なくやり過ごそうとした諒だったが、思いもよらずあちらからお声がかかってしまう。
しかも、諒に。
「おお、諒じゃねぇか。何だよお前ぇ、なんだかずいぶんと御無沙汰だよなあ?」
――ついてねぇ、こんなところで銀次さんかよ…。こいつ、面倒くせぇんだよなあ…。
諒はすがる思いで、ちんぴらの一団をぐるりと見渡した。
――おお、いたいた、助かった!
目当ての顔を探し当てた諒は、頼む、何とかしてくれ、と必死に目で合図を送る。
一団の中でもひときわ大柄な体を派手な着物で包んだ男。それは同じ植木屋で働いていた諒の幼馴染、鉄二郎だった。
もう三年ほど前のこと。親方の厳しい指導に辟易していた鉄二郎は、調子が悪いの何のと理由を濁してぱったり現場に来なくなった。そして遊興にばかりいそしむうち、いつしか悪い仲間とつるむようになる。
やがて鉄二郎はその仲間に誘われるまま、御禁制である賭場の開帳を生業にし始めた。なんでも最近では太い旦那が付いたとかで、空き家になった丸ノ内の大名屋敷跡を使いずいぶん派手な賭場を手掛けている。
だが鉄二郎が道を逸れても諒との付き合いは続いた。何を隠そう諒がさいころ賭博の面白さを知ったのは、鉄二郎に誘われたのがきっかけだ。
しかし諒は鉄二郎の予想を遥かに超えて過剰にのめり込む。誘ってしまった責任感からか、鉄二郎は諒に何かと助け船を出すのが常だった。
諒は背後に珠希を隠すようにして、銀次に愛想笑いをした。状況を察した珠希は少し諒から離れ、手近な出店を覗くふりをする。
「はは、ちょっと最近忙しくって。御無沙汰しちまってすいませんね、銀次さん」
「なあ諒、まさかお前ぇ、さいころ断ちだなんて、つれないこたぁ言わねぇよな。お前ぇが素寒貧になった時にゃ、俺ぁあんだけ金を融通してやったんだぜ? だったら挨拶がてら、たまには俺の賭場に顔ぐれぇ出すってのが筋だろ? なあ、お前らもそう思うだろ?」
ったく何言ってやがる! 諒は心底苛々する。
――くそっ、珠希の前でこんな話を…。
借財なんざ綺麗さっぱり返したんだ。そのあと賭場に行こうが行かまいが、そんなもんこっちの勝手だろ!
人に絡んで兄さん面をしたいだけなんだよ。ったく朝顔のつるじゃあるめぇし。心の中で散々悪口を並べるうちに、頼みの鉄二郎があいだに割って入ってくれた。
「銀次兄さん、すんません、今日のところは勘弁してやってください。そのうち顔出すように、こいつには俺からしっかり言っときますんで」
――鉄…っ! やっぱりお前は頼れる男だよ。
諒は心の中でぎゅっと手を合わせる。
「ああ? そうか? まあ子分に頭下げられちゃあ仕方がねぇなあ。そんなら今日はお前ぇに免じて…」
――はいはい分かったよ。
よしっ、あと一押しでおさらばできるぜ。
諒が安心しかけたその時だった。
「へぇ…。なあ、兄ちゃんさ。お前またずいぶんな上玉を…連れてるじゃねぇか」
はっ、と声の主を見る。
初めて見る顔だ。どうやらどこぞの若党らしい。
男はこれ見よがしに武家の羽織をまとい、腰刀を見せつけている。交差する二枚の鷹の羽の家紋が胸元に輝いていた。
「はは。朝陽さんはさすがだよぉ。目の付けどころがやっぱり俺なんかとは違うなあ」
あの銀次がまるで機嫌を取るかのように、朝陽と呼ばれたその若党を盛んに持ち上げる。朝陽は諒を見据え、にやりと笑った。
「うらやましいねぇ。今日は二人で仲良く奥山詣か。一体ぇどちらの寺小姓さんが、若い男とこっそりこんなところへ? ふうん、こいつあ…面白れぇとこ押さえちまったなぁ」
刀の柄をゆっくり撫で上げる朝陽。
「なあ寺小姓さんよ。夜道は危ねぇから…今夜は俺がこのまま送ってやるよ。送り届けた先で住職さんに何をご報告するかは…ま、お前ぇ次第だけどな?」
諒の全身から血の気が引いた。
――こいつ…珠希を強請るつもりか。
銀次とは異質の危険な雰囲気が朝陽からは漂っている。頼みの鉄二郎もしぶい顔をして、諒に向かい小さく首を横に振った。こいつぁ無理だとそう言いたげに。
「や、やめ…」
諒が決死の一歩を踏み出そうとしたその瞬間。
「きゃあっ! 誰かぁっ、誰か助けてぇっ、人買いに、かどわかされるうっ!」
突然珠希がけたたましく騒ぎ立てた。
「何だ何だ、かどわかし?」
「おいちょっと、ほら、あの寺小姓じゃねぇか?」
「んだとぉ? 俺のシマで何してやがるんでい!」
「おいお前ぇら、突っ立ってねぇで助けてやろうぜ!」
やいのやいのと、あちらこちらから野次馬が集まってくる。
「助けてぇっ、そいつらに連れて行かれるよぉっ!」
珠希は朝陽たちの一団をぐっと指さした。
「おうっ、あいつらか!」
「はは、面白ぇ。そら、あいだに入っちまおうぜ!」
「喧嘩だ喧嘩だぁ! むしゃくしゃしてたんだ、へへ、丁度いいぜ!」
様々な者が様々な意図で、ぐるりと一団を取り囲む。呆気にとられる諒の手を、ぐいっと珠希が引っ張った。
「諒さん、走るよ!」
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