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第二章 寺小姓立志譚
1.深窓の寺小姓(三)
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抜けるような初夏の青空が広がっていた。
「あはは、諒さんたら。僕はほんとに、お武家様じゃないったら!」
「…ほんとかぁ? だって寺小姓なんだろ? そこんじょそこらの町人が、なれるもんじゃねぇはずだぜ?」
「まあ、ね。…僕には僕の、ふふ、物語がありまして」
諒は一気に緊張をゆるめ、正座にしていた足を胡坐に崩しながら、大きく伸びをした。
「…なあ珠希。その…『僕』って言い方さ。変…いや…ちょっと珍しい、よな。俺、聞いたことねぇよ?」
ずっと気になっていた引っ掛かりを、諒は思い切って口にする。
「あ、気になる? これはね、漢語から取った自分の呼び方なんだ。あなたのしもべ、っていう意味。可愛らしくていいでしょう?」
「しもべ、ねぇ…」
そもそも漢語から取る、という言葉の意味が諒には謎だったが、訊いたら珠希に笑われてしまいそうで、ひとまず分かったようなふりをした。
「お主さまのお側にお仕えするようになってから、自分をどういう風に呼ぼうか散々考えたんだ。『珠希は』っていうのも子どもっぽいし、『私は』じゃ固すぎる。『俺は』なんて言い出したら、もう興ざめじゃない。だから『僕』って、ね? 最高にちょうどいいよ。諒さんはそう思わない? お主さまは、気に入ってらしたけどな」
「…何だか良く分からねぇけど…寺小姓ってのも、色々大変なんだな」
舌っ足らずの頃から『俺』一択の単純男、諒とは、まるで違う世界がそこにあった。
「ね、ちょっと諒さん、すごい汗」
普段からなるべく汗をかかぬよう気を遣っている珠希は、諒をまじまじと見た。
「でもそっか、こんなに暑いんだもの、大変だよね…。諒さんは植木屋さんをして、もう長いの?」
「長ぇのか分からねぇけど…見習いを入れりゃ、もう十年だ」
十年も!
珠希は目を丸くした。諒はからかうように、珠希の目を覗き込む。
「なあ珠希。そんなに丸くしたらさ、今度はお前の目ん玉が落ちちまうぞ?」
精悍な諒にぐっと顔を近づけられて、珠希は何だかどぎまぎしてしまった。
――さっき、諒さんに倒れ込んだ時…ふわっと…草の香りがした…。
変な気持ちを吹き飛ばそうと、珠希は思い切りあはは、と笑う。
「ね、諒さんはさ、どうして植木屋さんになろうと思ったの?」
「別に、そんな大層な話じゃねぇよ。たまたまみてぇなもんだけど…」
諒は照れたように頭をかいた。
「俺は八つの時に、ひとりになっちまってさ。親方に拾ってもらったんだよ。だからその流れで十の時分、親方んとこに弟子入りした。だから植木屋になったのは…ま、偶然ってとこだな」
え。
珠希は思わず身を乗り出すと、ちらりと素の表情をのぞかせた。
「諒さんも…ひとりなんだ。なら、僕と一緒…。僕は十四の時に火事に遭って…逃げ込んだこの清沙院に、そのまま住まわせてもらうことになったんだ」
江戸では火事が頻発している。哀しいけれど、子どもだけが遺され孤児になってしまうことも、よくある話ではあった。
「親御さんと、はぐれちまったのか?」
珠希はうつむいて、こくん、とうなずいた。
「僕の家は駒込千駄木町にあって…小さな小さな絵草紙屋さんだった。一階はお店でね、本好きのととさまが選んだ沢山の御本と、絵が上手なかかさまが選んだ沢山の錦絵をいっぱい並べた、まるでちっちゃな宝箱みたいな…今でも僕の心の中にある、大好きな場所」
所狭しと並ぶ本。壁のあちこちに掛けられた絵。ととさまとかかさまの、笑い声…。
「だけどある日、町が火事に遭って…ととさまとかかさまは、少しでもお店の物を持ち出そうと必死だった。珠希は先に清沙院に逃げなさいって、あとから必ず行くからって。でもね、諒さん。ととさまも、かかさまも、ここには結局…辿り着けなかった」
珠希は、しおれて落ちたつつじの花を手に取り、寂しそうにぽん、と投げる。
「そっか…お前も、辛かったんだな」
来ない親を待つ気持ちは、諒にも痛いほど分かった。諒も珠希とおんなじ場所に、落ちたつつじをぽん、と投げる。重なり落ちたつつじのように、互いの心にしまった寂しさが、そっと重なる気がした。
諒はなにげなく言葉を繋ぐ。
「…それで珠希は、そのまま寺小姓になったってわけなのか?」
珠希は悲しい気持ちを振り払うように、にっこりと笑った。
「ううん、最初はお坊さんの見習いってことで、小僧さんをしてた。お勉強したり…修行をしたりもしてたんだよ。だけど僕、ふふ、お坊さんになるのがどうしても嫌で。ね、どうしてだと思う?」
珠希は笑いながら諒に問いかける。
「そうだな…修行が厳しかった、とか?」
「ううん、違うよ。僕ね、髪をつるつるに剃るのが絶対に嫌だったんだ」
はは、髪のことかよ、と諒は笑う。
「だからよくここへ逃げ出して、こっそり泣いてた。どうしてお寺なんかに引き取られちゃったんだろうって、町で暮らしてた頃のことを沢山思い出して…。そしたらお主さまが、そんな僕を可哀想に思われて、わざわざ僕のために特別な御役目を作ってくださったんだ。つまり寺小姓が、僕のお仕事になったってわけ」
「じゃあ珠希がこの寺に、寺小姓の御役目を作らせたのか。へえ、お前、何かすげぇな!」
「諒さんと同じように、僕も長いこと見習いだったけど…あはは、そう考えると…僕たち何だか似てるよ、諒さん!」
「まあな。けど寺小姓は、さすがに俺の植木屋とは格が違うぜ? みんながみんな、なれるようなもんじゃねぇし…。だってさ、例えば俺が寺小姓になりてぇって思っても、こんな感じじゃ丁重にお断りされちまうだろ?」
諒は可笑しそうに笑いながら、珠希の美しい装いと、それにも負けぬ美しい顔かたちを改めて見遣った。
「あはは、諒さんたら。僕はほんとに、お武家様じゃないったら!」
「…ほんとかぁ? だって寺小姓なんだろ? そこんじょそこらの町人が、なれるもんじゃねぇはずだぜ?」
「まあ、ね。…僕には僕の、ふふ、物語がありまして」
諒は一気に緊張をゆるめ、正座にしていた足を胡坐に崩しながら、大きく伸びをした。
「…なあ珠希。その…『僕』って言い方さ。変…いや…ちょっと珍しい、よな。俺、聞いたことねぇよ?」
ずっと気になっていた引っ掛かりを、諒は思い切って口にする。
「あ、気になる? これはね、漢語から取った自分の呼び方なんだ。あなたのしもべ、っていう意味。可愛らしくていいでしょう?」
「しもべ、ねぇ…」
そもそも漢語から取る、という言葉の意味が諒には謎だったが、訊いたら珠希に笑われてしまいそうで、ひとまず分かったようなふりをした。
「お主さまのお側にお仕えするようになってから、自分をどういう風に呼ぼうか散々考えたんだ。『珠希は』っていうのも子どもっぽいし、『私は』じゃ固すぎる。『俺は』なんて言い出したら、もう興ざめじゃない。だから『僕』って、ね? 最高にちょうどいいよ。諒さんはそう思わない? お主さまは、気に入ってらしたけどな」
「…何だか良く分からねぇけど…寺小姓ってのも、色々大変なんだな」
舌っ足らずの頃から『俺』一択の単純男、諒とは、まるで違う世界がそこにあった。
「ね、ちょっと諒さん、すごい汗」
普段からなるべく汗をかかぬよう気を遣っている珠希は、諒をまじまじと見た。
「でもそっか、こんなに暑いんだもの、大変だよね…。諒さんは植木屋さんをして、もう長いの?」
「長ぇのか分からねぇけど…見習いを入れりゃ、もう十年だ」
十年も!
珠希は目を丸くした。諒はからかうように、珠希の目を覗き込む。
「なあ珠希。そんなに丸くしたらさ、今度はお前の目ん玉が落ちちまうぞ?」
精悍な諒にぐっと顔を近づけられて、珠希は何だかどぎまぎしてしまった。
――さっき、諒さんに倒れ込んだ時…ふわっと…草の香りがした…。
変な気持ちを吹き飛ばそうと、珠希は思い切りあはは、と笑う。
「ね、諒さんはさ、どうして植木屋さんになろうと思ったの?」
「別に、そんな大層な話じゃねぇよ。たまたまみてぇなもんだけど…」
諒は照れたように頭をかいた。
「俺は八つの時に、ひとりになっちまってさ。親方に拾ってもらったんだよ。だからその流れで十の時分、親方んとこに弟子入りした。だから植木屋になったのは…ま、偶然ってとこだな」
え。
珠希は思わず身を乗り出すと、ちらりと素の表情をのぞかせた。
「諒さんも…ひとりなんだ。なら、僕と一緒…。僕は十四の時に火事に遭って…逃げ込んだこの清沙院に、そのまま住まわせてもらうことになったんだ」
江戸では火事が頻発している。哀しいけれど、子どもだけが遺され孤児になってしまうことも、よくある話ではあった。
「親御さんと、はぐれちまったのか?」
珠希はうつむいて、こくん、とうなずいた。
「僕の家は駒込千駄木町にあって…小さな小さな絵草紙屋さんだった。一階はお店でね、本好きのととさまが選んだ沢山の御本と、絵が上手なかかさまが選んだ沢山の錦絵をいっぱい並べた、まるでちっちゃな宝箱みたいな…今でも僕の心の中にある、大好きな場所」
所狭しと並ぶ本。壁のあちこちに掛けられた絵。ととさまとかかさまの、笑い声…。
「だけどある日、町が火事に遭って…ととさまとかかさまは、少しでもお店の物を持ち出そうと必死だった。珠希は先に清沙院に逃げなさいって、あとから必ず行くからって。でもね、諒さん。ととさまも、かかさまも、ここには結局…辿り着けなかった」
珠希は、しおれて落ちたつつじの花を手に取り、寂しそうにぽん、と投げる。
「そっか…お前も、辛かったんだな」
来ない親を待つ気持ちは、諒にも痛いほど分かった。諒も珠希とおんなじ場所に、落ちたつつじをぽん、と投げる。重なり落ちたつつじのように、互いの心にしまった寂しさが、そっと重なる気がした。
諒はなにげなく言葉を繋ぐ。
「…それで珠希は、そのまま寺小姓になったってわけなのか?」
珠希は悲しい気持ちを振り払うように、にっこりと笑った。
「ううん、最初はお坊さんの見習いってことで、小僧さんをしてた。お勉強したり…修行をしたりもしてたんだよ。だけど僕、ふふ、お坊さんになるのがどうしても嫌で。ね、どうしてだと思う?」
珠希は笑いながら諒に問いかける。
「そうだな…修行が厳しかった、とか?」
「ううん、違うよ。僕ね、髪をつるつるに剃るのが絶対に嫌だったんだ」
はは、髪のことかよ、と諒は笑う。
「だからよくここへ逃げ出して、こっそり泣いてた。どうしてお寺なんかに引き取られちゃったんだろうって、町で暮らしてた頃のことを沢山思い出して…。そしたらお主さまが、そんな僕を可哀想に思われて、わざわざ僕のために特別な御役目を作ってくださったんだ。つまり寺小姓が、僕のお仕事になったってわけ」
「じゃあ珠希がこの寺に、寺小姓の御役目を作らせたのか。へえ、お前、何かすげぇな!」
「諒さんと同じように、僕も長いこと見習いだったけど…あはは、そう考えると…僕たち何だか似てるよ、諒さん!」
「まあな。けど寺小姓は、さすがに俺の植木屋とは格が違うぜ? みんながみんな、なれるようなもんじゃねぇし…。だってさ、例えば俺が寺小姓になりてぇって思っても、こんな感じじゃ丁重にお断りされちまうだろ?」
諒は可笑しそうに笑いながら、珠希の美しい装いと、それにも負けぬ美しい顔かたちを改めて見遣った。
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