大江戸の朝、君と駆ける

藤本 サクヤ

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第一章 遠邊家顛末記

5.流砂(五)

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 始めから大胆に賭けようと決めていた。
 とにかく勝負は五回しかないのだ。ちまちま賭けていては目標の金額に達さないまま終わる可能性があった。

 翠を請け出す百両。当面の生活費として、せめて刀と同額の二十両。最低でも百二十両。刀で作った二十両を元手に必ず稼ぎ出さねばならない。
 誠之助はごくりと生唾を飲み込む。いよいよ大勝負が始まるのだ。

「…入ります」

 壺振りが眼光鋭く壺を構えた。
 からんっ。
 白い盆布の上に壺が伏せられる。

「さあ張った張った、張った張った」

 胴元の男たちがあちらこちらで声を張り座を盛り上げる。
 誠之助は二枚のコマ札を重ね、縦向きの半に置いた。

「しょっぱなから全部突っ込むなんて、今夜の誠之助様は男だな」

 朝陽が驚いたように目を見張った。

「えぇ、半、半、丁、半、丁、丁…」

 中盆が客の手元を確かめて行く。

「コマ、出揃いました。勝負っ」

 頼むっ!

 祈るような視線の先に姿を現したさいころの目は、果たして二と三。

「サニの、半っ」

 よおおし! 
 誠之助は朝陽と顔を見合わせ、思わず腰を浮かせた。

「誠之助様、こっからだ!」

 二枚のコマ札が四枚に増えた。これで四十両。
 誠之助は注意深く四枚の札を二枚ずつに分けた。そのうち二枚を手持ちに戻す。

「はは、誠之助様、さすがに堅実だな」

 誠之助は丁の目に二枚コマ札を賭けた。

 と。

 先刻の、痩せた町人の様子がおかしい。ぶるぶると手元を震わせながら、手持ちの全てのコマ札を縦向きに並べている。
 男は手持ちの全額を、誠之助とは逆の半に賭けた。
 目は血走り下唇を固く噛み締める男の形相に、誠之助は心底ぞっとする。

「あいつ、もうあとがないんでしょうね。まさに命がけの一手だな」

 ささやく朝陽。
 一瞬哀れにも思ったが、なにせ相手は自分と逆の目に賭けている。悪いが勝つのはこちらだ。誠之助は己の中にそんな冷たい感情があることに驚いた。

「えぇ、丁、丁、半、半、半、丁、半…」

 数が合わない。中盆が客の翻意を誘う。

「丁ないか、丁ないか」

 すると豪商風の太った男がおもむろに自分のコマ札を縦から横に直した。誠之助と同じ丁に張りなおしたのだ。

「はいっ、コマ、出揃いました。勝負っ!」

 全員の視線が壺振りの手元に集中する。

「ロクゾロの、丁っ!」

 うわああああっ! 
 痩せた男が狂ったように頭をかきむしる。
 誠之助は自分の勝ちを喜ぶよりも前に、思わず男を凝視した。胴元の男たちが騒ぐんじゃねぇっ、と駆け寄って来る。

「やめろっ、待ってくれ、離してくれえっ!」

 暴れる男を左右から抱え、引きずるように連れて行く男たち。その無慈悲な表情に誠之助は心底震えた。

 客たちのささやき声が耳に入ってくる。

「あいつ、負けが込んで…胴元からずいぶんと金、貸りちまってたみたいだよ」

「うわ。ありゃあ利息はすごいし…取り立てだって、半端なもんじゃないんだろ?」

「ああ。今夜は、かさんだ借金を一気に返すための…大勝負だったんだろうね」

「ひゃあ、怖い、怖い。借金のかたに、どっかに売られるか、何か悪いことでもさせられるか、はたまた消されるか…年増の男じゃ、使い勝手も悪いしなあ…」

 背筋を冷たいものが走った。顔を強張らせる誠之助に、朝陽は内心大いに焦る。

 ――まずいな。こんな話、誠之助様に聞かれちゃあ、びびっちまうじゃねぇか。
 朝陽は慌てて、場の雰囲気を変えようとした。

「おいおい、辛気臭ぇ話はやめようぜ」

 すると豪商風の男が半笑いで言い放つ。

「あの男はねぇ、分かっちゃいないんだよ。金の好物ってのは金なのさ。だからあたしみたいに金のあるところには、匂いを嗅ぎつけてわらわら集まって来る。けどねぇ、あんな素寒貧すかんぴんなんかにゃ見向きもしないよ。なんたって餌の匂いがしないんだからね」

 くっくっく。男はさも可笑しそうに嗤った。
 
「貧乏人は一生貧乏人。はん、抜け出せるもんかね。早いとこ諦めて、おとなしく慎ましく暮らしゃあいいものを。分不相応な夢を見たりして…ありゃあ自業自得だよ」

 誠之助の中で、男の顔が利根屋惣右衛門に重なる。刀まで質に入れた自分を見透かされ、あざ笑われているようだった。卑屈な気持ちになりそうで、誠之助は唇を噛み締める。

 ――駄目だ動揺しては…。
 誠之助は必死に心を抑え、手元の六枚の札を三枚ずつに分け、三枚を半、に賭けた。

 ここが大事だ。
 これで勝てば手持ちは九十両となり、それでもなお二回の勝負が残る。勝ちがほぼ確定する、大事な局面だった。

「さあ、張った張った! 張った張った!」

 座の雰囲気を取り戻すように、胴元たちが盛大にけしかける。誠之助は、自分の手が細かく震えているのに気が付いた。
 ――駄目だ、動揺している。先刻の男の姿が…目に焼き付いて離れない。

「よしっ、半、丁、丁、半、半、丁…」

 ――武家の子息の身分を捨てて、ただ翠と共に暮らしたいと願う私の思いは…それすら分不相応な欲だと言うのか。
 そんな小さな幸せさえ、私には許されないと…。

「コマ、出揃いました。勝負!」

 駄目だっ。誠之助は思わず目を閉じた。

「ゴゾロの、丁っ!」

 五と五。くそっ、負けた! 

 三枚のコマ札を持っていかれ、残りは手元の三枚、三十両になってしまった。残りの勝負は、あと二回。

「誠之助様、ここで弱気になっちゃ駄目ですよ。こうなりゃ強気で、攻めるしかない!」

 朝陽は励ますように、誠之助の背中をぐいぐいとこすった。

 朝陽の言う通りだ。百二十両を稼ぎ出すためには、ここから倍々で増やすしか手はない。しっかりしろ、と自分に気合いを入れた。

 ――ここで弱気になって、どうする。
 翠が、私を信じて待っているというのに。

 誠之助は、昨日翠と交わしたばかりの会話を、頭に思い浮かべた。

『なあ、翠。上州に行ったら…』

『ふふっ、誠之助様、またおんなじ、おはなしね』

『はは、呆れたか?』

 優しく首を横に振り、翠は誠之助にもたれかかる。背中越しに抱きとめながら、誠之助はまるであやすように、翠をそっと揺らした。

『お前は縁側で、お前そっくりの可愛い娘と、私を待ってるんだ。そこに川で沢山魚を釣り上げた、私とやんちゃな息子が帰ってくる』

『誠之助さまたちが、あたしに手をふってる…』

『お前たちはにっこり微笑んで、手を振り返す。またそんなに釣ってきて、お魚だらけよ、なんて…お前は笑うだろうな』

 それは二人の、他愛もないお伽話。けれど誠之助にとっては心の底から願う、大切な、たったひとつの、生きる希望だった。
 ――そうだ。私は絶対に負けられない。

 誠之助は、手元に残った三枚のコマ札を、半に賭けた。
 ――翠、待っていてくれ。いざ、勝負だ!

「ええ、半、半、丁、半、半、丁…」

 半ないか、と呼びかけてもなお数が揃わない。中盆が、半のほうに自分の札を賭けた。

「コマ、出揃いました。勝負!」

 ――頼むっ、来い! 来てくれ!

「イチニの、半!」

 おおっ、と座がどよめく。勝った! 
 誠之助の体から、一気に力が抜けた。あと一回、最後の勝負で、勝つことができれば!
 ここまで来ると、手元の札を全て失い、いまいましそうに席を立つ者もいる。勝ち抜けしようと、ほくほく顔で座をあとにする者もいる。座を囲む客は始めに比べ、だいぶ少なくなっていた。

「朝陽…」

 口がからからに乾き、誠之助は朝陽を呼ぶのがやっとだった。

「誠之助様…次が最後です。こうなりゃまさに、一か八かだ。全部、突っ込みますよね?」

 朝陽は励ますように、誠之助をじっと見つめる。誠之助は自らに言い聞かせるように、強くうなずいた。

「もちろんだよ、朝陽。きっと上手く行く。私は今まで真面目に真っ正直に生きてきた。そろそろ報われたっていいと思う。いや…きっと報われるはずだ」

 ――いいや、誠之助様、そうじゃねぇ。
 この世はそんな、綺麗なもんじゃねぇ。

 朝陽は思わず、心の中で呟いた。

 ――あんたみてぇな善人が叩きのめされる。
 俺みてぇな悪党が勝ち抜ける。
 悲しいけど、それが真実なんだ。

 勧善懲悪かんぜんちょうあくなんて、芝居だけの話。
 祈りは通じねぇ。
 泣いたって仕方ねぇ。
 望みがあるなら…力づくで勝ち取るしかねぇんだよ。

「報われますよ、誠之助様。きっと上手く行きますよ」

 励ます自分の声は、まるで他人の声のようによそよそしく、朝陽の耳に響いた。

「ああ。そう信じよう」

 朝陽の暗い思いには気付かずに、誠之助はにっこり微笑む。
 最後の勝負は、手持ちの六枚の札を全て、丁に賭けた。最初に朝陽とここへ来た日、最初に賭けて見事に勝った目。ささやかな験担げんかつぎのつもりだった。勝てば百二十両になり、負ければ全てが泡と消える。

「今宵最後の大勝負、さあ張った張った、張った張った!」

 ――きっと勝てる。
 今日、妓楼が開いたらすぐに翠を迎えに行くんだ。
 誠之助は祈るように目を閉じた。

 客たちが全員コマ札を場に置き終える。

「よしっ、丁、丁、半、丁、半、丁…」

 中盆が、声を張り上げた。

「半ないか、半ないか」

「…半、乗った!」

 よく通る声で言い放ち、コマ札を縦に直したのは、あの長煙管の男だった。男はつと誠之助を見遣ると、ふふ、と妖艶ようえんに笑う。
 私と、逆の目に…。何だか嫌な予感がした。

「コマ、出揃いました。さあ勝負だ!」

 飛び出さんばかりに目を見開いて壺振りの手元を凝視する。

「…イチロクの、半!」

 一瞬何が起きたのか分からなかった。こだまする怒号と狂喜の声が遠い世界の音のようにくぐもって、誠之助の耳に響いていた。

 ――負けた、負けてしまった…。
 受け入れがたい現実に立ち上がることすら叶わない。

「…御利益をありがとうね、慈悲深い仏さま」

 座を立った長煙管の男が、うつむく朝陽の肩をぽん、と叩いて通り過ぎる。
 颯爽と去るその後ろ姿を誠之助はまるであやかしでも見るかのように、ぼんやり見送った。
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