大江戸の朝、君と駆ける

藤本 サクヤ

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第一章 遠邊家顛末記

5.流砂(四)

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 どの位待っていたのだろうか。
 翠との新しい生活に思いを馳せる誠之助は、ゆらりと近づいた朝陽にも気づかなかった。

「誠之助様。戻りましたよ」

 朝陽の声は、腹を括ったかのように強い。

「朝陽…!」

 さすがは朝陽だ。誠之助は大きな期待を込めて朝陽を見つめる。

「あらかたの事情は分かりました。歩きながら話しましょう」

 茶屋を出て家路につく二人。朝陽は前を向いたままこう告げた。

「百両です。誠之助様。百両の金がありゃあ翠を身請けできますよ」

「百、両…」

 あまりの金額に誠之助は衝撃を受ける。

「確かに百両と言やあ大金だ。だけど…その金を作る方法がひとつだけある。お分かりですよね、誠之助様」

 ああ。誠之助はうなずいた。

「さいの目に全てを託すしかないな。どう考えても私がまともに作れる金額ではない」

 朝陽は厳しい表情で下唇を撫でる。

「その通り。だけど誠之助様、元手が必要です。桁違いの元手がね」

「いくらぐらい必要なのだろうか」

 朝陽はしばし考え込んだ。

「二十両…でかい金額ですが、もし作れたら百両稼ぎ出すのも夢じゃない。で、それを作るには…」

 朝陽はゆっくりと誠之助の腰の物に目を止める。視線を追った誠之助は息を呑んだ。

「刀、か…」

「その大小を質に入れりゃ…二十両にはなる」

 誠之助はさすがにためらった。

 ――刀は武士の魂だ。
 それを質に入れるとは生半可なことではない。刀を下げていなければ、屋敷の者たちにも見咎められるだろう。
 だが私の持ち物の中で金目の物など、この刀しか…。

 …いや、待て。
 誠之助は思わず手をぱんと打った。

 ――そうか。
 竹光たけみつ…。竹光を使う手がある。

 刀を砥ぎ士に出す時は刀身だけを取り外して渡す。手元に残った鞘と柄は、刀身に似せて竹を細工した『竹光』に取りつける。それを刀の代わりに腰から下げておくのだ。

「そうか。竹光と入れ替えればいいのか」

 御名答。朝陽は片目をつぶり笑った。

「誠之助様、俺がいい質屋を知ってます。実はね、俺の刀…何度か竹光に化けちゃあ戻りしてるんですよ。だから俺が誠之助様の代わりに持っていきます。きっちり二十両、俺が責任持って持ち帰りますよ」

 任せてください。明るく胸を叩いた朝陽。誠之助の心に熱い思いが湧き上がる。

「…朝陽」

「ん? 何です?」

「本当に…本当に、ありがとう」

 立ち止まり、深々と頭を下げる誠之助。朝陽は思わず目を白黒させた。

「ちょ、ちょっと誠之助様やめてくださいよ。若党の俺になんか、頭下げたりして」

 誠之助は真っ直ぐな目で朝陽を見つめ、優しく微笑んだ。

「朝陽。身分なんて…関係ないよ。お前は、私の恩人だ」

 そっと朝陽の手を取り、包み込む。

「広い世界を教えてくれて、翠にもめぐり合わせてくれた。いつもいつもお前には、助けられてばかりだけれど…」

 澄み切った眼差しが朝陽の心の奥まで差し込んだ。

「お前は私の、たったひとりの、大切な…朋友なんだ。無力な私だけれど、お前にとって私もそうだったなら…とても嬉しく思うよ。お前に出会えて良かった。ありがとう、朝陽」

 ――朋友…。
 誠之助様、あんたって人は。

 朝陽はしばし言葉を失う。
 何だかわけもなく、泣きたくなった。

「誠之助様、俺、は…」

「お前はいい奴だ。私は…お前がとても好きだよ、朝陽」

 朝陽は目をそらし、かすれた声で答える。

「…誠之助様のほうが、百万倍もいい奴ですよ。いい奴すぎて…嫌になっちまう」

「ははっ。なんだ、ひねくれてるな、朝陽は」

 朝陽のおでこをぽん、と指でつついて誠之助は笑った。

「さあ、行こう。元手を作ったら、一世一代の大勝負だ!」

 歩き出した誠之助を追いかけようとして足を止めた朝陽。
 これから妓楼に向かうのだろう。笑いさざめく男たちが、二人の横を楽しげに通り過ぎて行く。

 ――まるであの日の俺たちみたいじゃねぇか。

 朝陽はそっと振り返り、まるで何かを惜しむかのように、男たちの背中をじっと見送った。


 ***


「誠之助様、誠之助様」

 突然誰かに揺り起こされて、誠之助は瞬時に枕元の懐刀を掴む。

「ぴりぴりしちゃって、嫌だな、俺ですよ」

 暗がりの中で、朝陽が声を抑えて笑った。

「…朝陽か。どうした、こんな夜更けに」

「知らせが来ました。今夜です。今夜あの賭場が開きます」

 二人は力強く視線をからめた。

 誠之助の刀身が竹光に変わった日。大勝負にうってつけの賭場があると朝陽は持ちかけた。
 今までとおなじ丁半博打に変わりはないが、コマ札一本の価値が十両に跳ね上がるのだと言う。しかも勝負は五回のみ。
 動く金は桁違い。胴元もめったな人間には声をかけず、秘密裡に選ばれた客のみぞ知る裏の鉄火場なのだった。
 語る朝陽の頬は、興奮で上気していた。

「何故そんな希少な話が朝陽のところに?」

 驚く誠之助に朝陽は笑う。

「そりゃあ誠之助様が、今を時めく遠邊家の御子息だからですよ。遠邊家と言やあ、もはや世間じゃ利根屋であるのとおんなじだ。利根屋の莫大な金を背負った御子息ともなりゃ、上得意様として奴らが特別なお誘いをかけるのは至極しごく当たり前のことでしょう?」

 なんて滑稽な話だろう。誠之助は思わず笑いだしたくなった。

「皆の期待に沿えなくて何だか申しわけないよ。遠邊家は遠邊家でも、私のところにだけは利根屋の金が一向に流れてこないのに。腰の大小を竹光に換えてまで、ちまちま金を作っているだなんて…思いもしないだろうな」

 今夜は冬儀に見つからないようこっそりと屋敷を出た二人。
 寝静まった師走の江戸の町を、足早に賭場へ向かった。

「冷えると思ったら、雪か…」

 暗い空からはらはらと大粒の雪が花びらのように舞い落ちる。

「綺麗だな。まるで歌舞伎の散り花だよ」

 ――知らざあ言って聞かせやしょう、か。

白波五人男しらなみごにんおとこ』の名台詞がふと浮かぶ。五人の悪党が痛快に暴れまわる、朝陽お気に入りの歌舞伎の演目だ。
 幼い頃は旅芸人が演じるそれを見て、まだ見ぬ江戸にあこがれを募らせたものだった。

 翠と二人で真っ当な奉公に励み、旨い物を食べたり本物の歌舞伎を観たりして、楽しく暮らす。
 江戸ではそんな日々が待っているのだ。幼い自分はそう信じて疑わなかった。

 ――もういいよ、今までのことは。
 そう朝陽は思う。
 ――これから翠と、思う存分そういう暮らしをするために…俺は今夜こうして賭場に向かってるんだから。

 生業なりわい白波しらなみの、おきえたる夜働よばたらき。

 ――はは、いいね。まさに今夜にぴったりの口上じゃねぇか。お天道様まで憎い演出をしやがるぜ。

 朝陽は自分を励ますように、心の中で大見得を切った。


 ***


 はやる鼓動を落ち着かせるため、大きく息を吸い込む。
 ――初めて来た時は、へっぴり腰で中に入ったな。

 胴元の男たちの視線を感じた。誠之助は両の拳を握りしめ、真っ直ぐ前を見て歩く。大勝負の前の緊張感なのか、不思議にしんとした静けさが座を取り巻いていた。

 広い座敷にはいくつかの座が設けられ、それぞれ十人程度の客が配置されている。誠之助は朝陽に伴われ、その一角に腰を据えた。ぐるりと周りの客を見回してみる。やはり前回までとは客層がだいぶ違っていた。

 見るからにお大尽と言った風情のでっぷり太った商人風の男。
 血走った目でコマ札を握りしめる町人風の痩せた男。
 長煙管ながぎせるを優雅に咥えながら、悠然と辺りを睥睨へいげいする女のように美しい役者風情の男。
 その他の面々もそれぞれに、ただ者ではない空気をまとった者たちばかり。

 落ち着け、落ち着け。己に言い聞かせる誠之助にふと話しかける者があった。
 
「まだお若いのに、お前さまは…何をどうして苦界の果てまでお流れに?」

 ぽん。煙草盆たばこぼんをひとつ叩くと、長煙管の男は妖しい流し目で誠之助を見遣った。

 誠之助はすっかり気圧されて口をぱくぱくさせるばかり。朝陽がさりげなくその会話を引き継いだ。

「兄さん、からかうなって。うぶな男の切ない恋路がさ、ここに続いてたんだよ。仕方がねえからなけなしの金をかき集め、ええいままよと乗り込んだってわけだ」

 おどけて返す言葉の裏を見透かすように、男は上目遣いでじいっと朝陽を見つめた。

「ふうん…。あんた悪い男だねぇ。お稚児ちごさんの手を引いて、伴う先は地獄の一丁目か」

 ちっ。
 余計なことを。
 男をぐっと見返した朝陽の顔からすっと笑いが消える。

「…違うよ兄さん。俺は鬼じゃねぇ。地獄で仏に決まってらあね」

 おお、こわ。
 男は大げさにしなを作ってみせた。

「これはとんだ御無礼を。それならどうか仏様、あたしにも…御利益授けてくださいな」

 ほほ。
 男はさも可笑しそうに笑った。
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