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第一章 遠邊家顛末記

3.傾城の恋(五)

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 その時秋司は自室に戻るべく、屋敷の玄関を出ようとしていた。

 そこで目に入ったのが門前で話し込む誠之助と朝陽の姿。朝陽は何やら誠之助に笑いかけると足早に外へ走って行く。

 ――朝陽の奴、俺よりも親しげに…。
 はっとした秋司は慌てて首を横に振った。
 ――何だ、俺。これじゃまるで、妬いてるみたいじゃないか。

 朝陽をぽつんと見送る誠之助。その背中に向かい、秋司はつとめて明るく声をかける。

「誠之助様!」

「ああ…秋司。何だか、久しぶりだね」

 言葉を返す誠之助の様子に驚く秋司。振り向いた誠之助からは、以前の溌溂とした明るさが感じられなかった。

「どうかしましたか、誠之助様。まさか朝陽の奴、誠之助様に何か失礼なことでも…」

「朝陽はそんな奴ではないよ、秋司。むしろ今の私をただひとり支えてくれる、大切な存在だ」

 ――ただ、ひとり…?
 秋司の言葉にかぶせるように誠之助が放った一言。それが妙に心に引っかかる。

 ――もしや誠之助様…俺の忙しさに拗ねていらっしゃるのか?

「誠之助様、お忘れですか? 誠之助様には俺って奴もいるんだってこと」

 ――駄目だな、俺。中間の二人にかまけて、誠之助様のお相手が…疎かになりすぎていた。
 軽口を叩きながらも、秋司は心の中で己を叱咤する。

 ――最近の遠邊家の雰囲気じゃ…いくら穏やかな誠之助様だって、御自分の御立場を不安に感じられることもあるだろう。
 俺が守りますと、以前のようにお伝えせねばな。
 秋司は懸命に快活な笑顔を浮かべた。
 
「何かお悩みがあるんなら、まずはこの俺を頼っていただかないと。ね? 誠之助様」

 明るく胸を叩く秋司。
 誠之助はつい昔のように、秋司に寄りかかってみたくなる。

 翠との、遊女との恋など秋司に語るべきではない。それはよく分かっていた。
 けれどもとにかく今、苦しいこの思いを心に仕舞っておくことが無性に辛い。

 誰彼構わず話して回りたいような恋の高ぶり。それが誠之助の自制心を上回った。
 ――秋司なら…何か力になってくれるかもしれない。

 それでも直接的な言葉が言えず、誠之助は曖昧な問いかけを口に上らせる。

「その…秋司は、誰かに思いを寄せたことが、あるかな」

 思いもよらない話題に面食らう秋司。

「お、思いを、ですか? い、いや、俺は…」

 子どもの頃から可愛がってきた誠之助と、そんな話をすることが何だか気恥ずかしい。
 ――誠之助様はどなたかお好きな姫君ができて、それを悩まれているのか?

「そう…ですね。実家にいた頃、道場仲間の姉上様に、憧れたことは…ありましたが…」

「そう…。秋司にも…そんなことがあったんだね」

 秋司は照れて鼻の下をこする。

「いや、でもまあ…三男坊のしがない俺には所詮高嶺の花でした。結局その方は他家に嫁いで行かれましたよ。はは、こうして遠邊家に仕官が叶った今なら、あんな風に気兼ねすることもないんでしょうが…」

 ――そうだとも、誠之助様ならなおさらだ。お悩みになることなど何もない。

「誠之助様なら大丈夫ですよ。何の御心配もいりません。何たって誠之助様は遠邊家の次期御当主。どちらの御息女だって喜んで御輿入れされますよ。ご安心ください。俺と冬儀が話をまとめてきますから」

 以前と変わらぬ秋司の優しさが嬉しかった。
 だが一方で、やはりという思いもある。
 ――そう…だな。私は武家の嫡男…。

 思いを寄せる相手は当然武家の娘だと、秋司がそう思うのも仕方がないことだった。

 誠之助は思う。
 ――あまりに身分が違い過ぎる。

 翠との恋には…未来が無い。遊女の翠とは、しかもまるで子どものままの翠とは…どこまで行っても結ばれないんだ。
 残酷な現実を改めて誠之助は思い知る。

 悲しい運命さだめに心を痛め黙り込んだ誠之助。その姿を見て秋司は思う。
 ――誠之助様、よっぽどその方のことが…。

 初めての淡い初恋に悩んでおられるのか。秋司はそんな誠之助を愛おしく思いながら、あえて軽口を続ける。

「そんな深刻なお顔をされることはありませんよ。はは、『曽根崎心中そねざきしんじゅう』じゃあるまいし」

 曽根崎心中。遊女との恋を反対されて、あげく友人にまで裏切られた商家の手代が、ついには遊女との心中を選ぶ人形浄瑠璃にんぎょうじょうるりだ。

 ――遊女との恋は…悲恋にしかならない、か。
 誠之助は悲しく笑った。
 
「私の思い人はね…遊女なんだよ、秋司」

 誠之助の返答に秋司の心が弾む。
 ――俺の軽口に誠之助様が乗ってくれた。

「あはは。誠之助様のおふざけは相変わらずだな。よし、俺ご相談に乗りますよ。実際のところ、意中のお方は…一体どちらの武家の御息女なのですか?」

 明るく言葉を返した秋司は、誠之助の思いつめた表情にはっとした。

「…どう、されましたか、誠之助様」

 ――未来が描けなくても…諦められない。
 思いが繋がっているなら…会わずにいられない。今はただ、朝陽だけを頼りに、この激しい恋に流されて行くことしか、私には…。
 誠之助は懸命に憂いを隠した。

 ――やはり翠とのことを、秋司には言えない。
 朝陽以外の誰にも…言うべきではないんだ。

「そうだね。秋司の言うとおりだ。何も悩むことなど…無い。おかげで心が決まったよ」

「誠之助様…?」

「今日は秋司と話せて…嬉しかった。ありがとう、秋司。また相談に乗ってくれ」

「誠之助、様…」

 屋敷へ歩き出す誠之助。背中を見送る秋司のことは、もう振り返らなかった。

 つむじ風に舞い上がった落ち葉が、やがて力を失いからからと落ちて行く。
 寒く長い冬が始まろうとしていた。
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