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第一章 遠邊家顛末記
3.傾城の恋(二)
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秋も深まった日の、いつもと同じ講武所帰り。
気まぐれな指導者の指示で、誠之助と共に厳しい訓練を受ける羽目になった朝陽は疲れたとさんざんぼやき、気分晴らしにと誠之助を酒に誘った。支払いは誠之助様持ちでね、とちゃっかり念押しをして。
二人はたびたびそんな風に寄り道をする。講武所へ通うようになって毎日外出していることもあり、誠之助は気ままに屋敷を出入りできるようになっていた。
「若様」の誕生に沸く遠邊家では、たとえ誠之助の帰りが遅かろうと、誠之助を咎めるどころか気に留める者すらいない。
――もちろん秋司と冬儀の二人を除いては、だけれど。
二人に見つからない限り、誠之助は自由だった。
「講武所ってのは糞ですね。誠之助様もさ、よくあんなとこに通い詰めるもんだ。俺なんか今日一日でうんざりですよ。痛てっ…ったく、災難ったらありゃしねぇ」
煮売屋で蛸の江戸煮をつつきながら、朝陽は盛んに腕を揉む。
誠之助は苦笑いをした。
「他にすることがないんだ。講武所に通うぐらいしか、暇つぶしを知らないだけだよ」
「はあ? 勿体ねぇ。誠之助様も、もっと面白味のある暇つぶしをすりゃあいいのにさ。金だって持ってるんだから」
「じゃあ、もしも朝陽が私の立場だったら…どんな暇つぶしをする?」
朝陽はしたり顔でにやっと笑った。
「そんなのはね…女に決まってるでしょうよ」
誠之助はやれやれと肩をすくめる。
「お前と中間の二人はそんな話ばかりしているよな。吉原がどうの、深川がどうのって…」
「あのね、当たり前ですよ。男が寄り集まればそんな話にもなるでしょ? まさか誠之助様、そういうとこには一度も…?」
「行くはずがないだろう。秋司や冬儀とは女の話など一度もしたことが無いんだから」
きっぱり答える誠之助に朝陽は笑う。
「あはは、まあそりゃそうか。大事な若様をそんなところに連れて行っちゃ…みっちりお叱り受けちまうもんな」
誠之助はほんの少し顔を曇らせた。
「…あの頃は、な。けれど今ではもう…私は大事な若様でも何でもないから」
朝陽は片目をつぶり、誠之助に笑いかける。
「拗ねないでくださいよ。そんならちょうどいいじゃないですか。うるさく言う奴らがいねぇだなんて…俺に言わせりゃ最高ですよ」
「どういうことだ。何がちょうどいい?」
朝陽は身を乗り出した。
「行きましょうよ、俺と一緒に。実はさ、根津の遊郭に…誠之助様がぐっと来そうな女がいるんですよねぇ…」
「根津? そんなところにも遊郭が…?」
「ったく誠之助様は、何にも御存知ねぇんだから」
可笑しくてたまらないと言った様子で朝陽は笑った。
「根津の岡場所は、もぐりだから御公儀に睨まれどおしでね。けど新吉原の遊郭が大火事で焼けちゃったから、何年か前に御禁制が解かれて、大威張りで根津遊郭を名乗れるようになったんですよ。まあ立派なもんでね。新吉原なんかに引けは取りませんや」
朝陽ったら、まるで根津遊郭の主みたいに。誠之助は無性に可笑しくなった。
「ふふ、それはお見それしたよ。でも朝陽。何だ、私がぐっと来そうな女なんて…どうしてそんなことが朝陽に分かる?」
朝陽は得意げに目をくるりと動かした。
「そりゃあ分かりますよ。俺は色んな奴らを見てきましたからね。だから誠之助様好みの女なんか、簡単に分かっちゃうんです」
誠之助は顔をしかめ、首を横に振った。
「でも…やめておくよ。金で女を買うなんて気が進まない」
朝陽は指で誠之助をつつく。
「お堅いなあ誠之助様は。あのね、これは人助けなんですよ。俺らの金で少しでも女たちの借財が減りゃあ、年季明けだって前倒しになるんですから」
珍しく、少しだけ真面目な顔を見せた朝陽。
「それに、あの女を助けられんのは…まあ世間広しったって、誠之助様しかいないでしょうよ。俺ぁ別の妓楼に馴染みの女がいるもんで、他の女を買うような不義理はできねぇし…」
だが誠之助はそんな朝陽の台詞を途中でさえぎった。
「人助け? またお前はそんな詭弁を」
朝陽は気分を害したように口の端を下げる。
「なんだよ誠之助様、さては怖気づいてるんでしょ。ったく誠之助様は、そういうとこが良くねぇなあ。すぐ訳知り顔で決めつけるんだ。行ってもいねぇで決めつけちゃ、逃げてるって取られちまっても仕方がねぇですよ?」
朝陽の言葉はいつになく鋭い。男として馬鹿にされたようで、誠之助は悔しくなった。家来に軽んじられては立つ瀬がないし、正直図星を突かれたような居心地の悪さもある。
「人を小者みたいに言うな。私だって別に…怖気づいてなどいない。ああ分かったよ、いいだろう。行ってやろうじゃないか」
朝陽は満面の笑みを浮かべ、手をぽんと叩いた。
「よおし決まった! ふふ、男を見せましたね。そうとなりゃ善は急げだ、今から早速行きますよ。夜はこれから、懐には小遣いもたんまりでしょ? ほら、早く早く」
「こ、このまま? …う、うん…」
朝陽に急き立てられながら誠之助は店を出る。
――まさか今日、このまま向かうとは。
朝陽にのせられて、面倒なことになってしまった。
根津に向かう道すがら、まるで兄貴分のように、妓楼に入ったらああしろ、女が来たらこうしろと朝陽は教えを垂れた。
そんな朝陽に最初は辟易していた誠之助だったが、上野の不忍池を過ぎ、だんだんと根津が近づくにつれ、徐々に真剣に朝陽の講義に耳を傾け始める。
何しろ何をどうすればいいのか全く分からない。女とは母以外まともに手を握ったことすらないのだ。
今更ながらどうしよう。誠之助は心細くなった。
――百戦錬磨の遊女など目の前にしたら…。私はきっと気後れしてしまう。
「ああ、やっと着いた! ほら誠之助様、あれですよ。手前から三軒目の…牡丹楼って妓楼」
目の前に広がる見たこともない光景。誠之助は思わずぐっと息をのんだ。
気まぐれな指導者の指示で、誠之助と共に厳しい訓練を受ける羽目になった朝陽は疲れたとさんざんぼやき、気分晴らしにと誠之助を酒に誘った。支払いは誠之助様持ちでね、とちゃっかり念押しをして。
二人はたびたびそんな風に寄り道をする。講武所へ通うようになって毎日外出していることもあり、誠之助は気ままに屋敷を出入りできるようになっていた。
「若様」の誕生に沸く遠邊家では、たとえ誠之助の帰りが遅かろうと、誠之助を咎めるどころか気に留める者すらいない。
――もちろん秋司と冬儀の二人を除いては、だけれど。
二人に見つからない限り、誠之助は自由だった。
「講武所ってのは糞ですね。誠之助様もさ、よくあんなとこに通い詰めるもんだ。俺なんか今日一日でうんざりですよ。痛てっ…ったく、災難ったらありゃしねぇ」
煮売屋で蛸の江戸煮をつつきながら、朝陽は盛んに腕を揉む。
誠之助は苦笑いをした。
「他にすることがないんだ。講武所に通うぐらいしか、暇つぶしを知らないだけだよ」
「はあ? 勿体ねぇ。誠之助様も、もっと面白味のある暇つぶしをすりゃあいいのにさ。金だって持ってるんだから」
「じゃあ、もしも朝陽が私の立場だったら…どんな暇つぶしをする?」
朝陽はしたり顔でにやっと笑った。
「そんなのはね…女に決まってるでしょうよ」
誠之助はやれやれと肩をすくめる。
「お前と中間の二人はそんな話ばかりしているよな。吉原がどうの、深川がどうのって…」
「あのね、当たり前ですよ。男が寄り集まればそんな話にもなるでしょ? まさか誠之助様、そういうとこには一度も…?」
「行くはずがないだろう。秋司や冬儀とは女の話など一度もしたことが無いんだから」
きっぱり答える誠之助に朝陽は笑う。
「あはは、まあそりゃそうか。大事な若様をそんなところに連れて行っちゃ…みっちりお叱り受けちまうもんな」
誠之助はほんの少し顔を曇らせた。
「…あの頃は、な。けれど今ではもう…私は大事な若様でも何でもないから」
朝陽は片目をつぶり、誠之助に笑いかける。
「拗ねないでくださいよ。そんならちょうどいいじゃないですか。うるさく言う奴らがいねぇだなんて…俺に言わせりゃ最高ですよ」
「どういうことだ。何がちょうどいい?」
朝陽は身を乗り出した。
「行きましょうよ、俺と一緒に。実はさ、根津の遊郭に…誠之助様がぐっと来そうな女がいるんですよねぇ…」
「根津? そんなところにも遊郭が…?」
「ったく誠之助様は、何にも御存知ねぇんだから」
可笑しくてたまらないと言った様子で朝陽は笑った。
「根津の岡場所は、もぐりだから御公儀に睨まれどおしでね。けど新吉原の遊郭が大火事で焼けちゃったから、何年か前に御禁制が解かれて、大威張りで根津遊郭を名乗れるようになったんですよ。まあ立派なもんでね。新吉原なんかに引けは取りませんや」
朝陽ったら、まるで根津遊郭の主みたいに。誠之助は無性に可笑しくなった。
「ふふ、それはお見それしたよ。でも朝陽。何だ、私がぐっと来そうな女なんて…どうしてそんなことが朝陽に分かる?」
朝陽は得意げに目をくるりと動かした。
「そりゃあ分かりますよ。俺は色んな奴らを見てきましたからね。だから誠之助様好みの女なんか、簡単に分かっちゃうんです」
誠之助は顔をしかめ、首を横に振った。
「でも…やめておくよ。金で女を買うなんて気が進まない」
朝陽は指で誠之助をつつく。
「お堅いなあ誠之助様は。あのね、これは人助けなんですよ。俺らの金で少しでも女たちの借財が減りゃあ、年季明けだって前倒しになるんですから」
珍しく、少しだけ真面目な顔を見せた朝陽。
「それに、あの女を助けられんのは…まあ世間広しったって、誠之助様しかいないでしょうよ。俺ぁ別の妓楼に馴染みの女がいるもんで、他の女を買うような不義理はできねぇし…」
だが誠之助はそんな朝陽の台詞を途中でさえぎった。
「人助け? またお前はそんな詭弁を」
朝陽は気分を害したように口の端を下げる。
「なんだよ誠之助様、さては怖気づいてるんでしょ。ったく誠之助様は、そういうとこが良くねぇなあ。すぐ訳知り顔で決めつけるんだ。行ってもいねぇで決めつけちゃ、逃げてるって取られちまっても仕方がねぇですよ?」
朝陽の言葉はいつになく鋭い。男として馬鹿にされたようで、誠之助は悔しくなった。家来に軽んじられては立つ瀬がないし、正直図星を突かれたような居心地の悪さもある。
「人を小者みたいに言うな。私だって別に…怖気づいてなどいない。ああ分かったよ、いいだろう。行ってやろうじゃないか」
朝陽は満面の笑みを浮かべ、手をぽんと叩いた。
「よおし決まった! ふふ、男を見せましたね。そうとなりゃ善は急げだ、今から早速行きますよ。夜はこれから、懐には小遣いもたんまりでしょ? ほら、早く早く」
「こ、このまま? …う、うん…」
朝陽に急き立てられながら誠之助は店を出る。
――まさか今日、このまま向かうとは。
朝陽にのせられて、面倒なことになってしまった。
根津に向かう道すがら、まるで兄貴分のように、妓楼に入ったらああしろ、女が来たらこうしろと朝陽は教えを垂れた。
そんな朝陽に最初は辟易していた誠之助だったが、上野の不忍池を過ぎ、だんだんと根津が近づくにつれ、徐々に真剣に朝陽の講義に耳を傾け始める。
何しろ何をどうすればいいのか全く分からない。女とは母以外まともに手を握ったことすらないのだ。
今更ながらどうしよう。誠之助は心細くなった。
――百戦錬磨の遊女など目の前にしたら…。私はきっと気後れしてしまう。
「ああ、やっと着いた! ほら誠之助様、あれですよ。手前から三軒目の…牡丹楼って妓楼」
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