大江戸の朝、君と駆ける

藤本 サクヤ

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第一章 遠邊家顛末記

1.めぐり逢い(一)

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「あのね、初音はつね…今だけ…かかさま、って…呼んでも、いい、か…な…」

 幼い誠之助は枕元に座った女中の初音に小さく呼びかけた。布団を鼻まで引き上げて、緊張した面持ちでこちらを見上げる誠之助。愛しい我が子の言葉が初音の心に切なく沁みた。

「誠之助様…」

「ね…誠之助、って…呼んでみて」

 初音はそっと誠之助の額をなでた。

「どうして、そのようなことを?」

「道場に行く時に見かけたんだ。町方の親子が…そんな風に、呼び合っていたから」

 誠之助は布団から小さな手をそっと出し、初音の手をふわりと包む。

「初音のことを…かかさま、って…呼んでみたくなったんだ。最後、に…」

「誠之助、様…」

 こみ上げる感情を抑えきれず、うつむく初音は身を震わせた。
 ――こんなに小さな誠之助様を…寂しがりやの愛しいわが子を、江戸に置き去りにして…。
 私は明日、遠い里の上州に帰って行く。

 神田小柳町に屋敷を構える遠邊家は石高わずか三百石の小さな旗本家である。その屋敷の片隅で母と子は、離れがたい最後の夜を過ごしていた。

 遠邊家長男誠之助。その母初音は、うら若く溌溂とした下働きの女中だった。長患いの後に亡くなった奥方の隙間を埋めるかのように、いつしか若き当主、深月みづきのお手付きとなった初音。やがて初音はひとりの男子を授かる。

 奥方とのあいだに子がいなかった深月は赤子を誠之助と名づけ、長男として遠邊家に迎え入れた。
 しかしさすがに農家の出である女中の初音を奥方に据えることは許されない。初音とてそれは最初から分かっていた。むしろこうして誠之助が七つになるまで側にいられたことのほうが奇跡だったのだ。
 しかしその奇跡は、ついに終わりを迎える。

「…分かるな、初音。深月様は武家の御当主。いずれは再び正式な奥方様をお迎えせねばならぬ。そなたをいつまでも…ここへは置けぬ」

 先代の頃から遠邊家を支える用人ようにんの高瀬は、苦渋の色を滲ませつつ初音に告げた。

「誠之助様のことは、責任を持って我らがお預かりする。案ずること無く里で達者に暮らせ。これまでの忠勤…誠に…御苦労であった」

 ――本来ならば身重になった時…お屋敷を追われても仕方がない立場だった。
 それでも深月様は、私の子を御長男として迎えてくださった。私をこれまでお屋敷に置いてくださった。ああ…でも。いっそあの時、この子と共に追い出されてしまえば…ずっと一緒に、生きられたのに。

「…誠之助」

 初音は懸命に涙をこらえ、わが子の姿をその目に焼き付けようと一心に見つめる。

「かかさま…」

 誠之助はまだ短い腕を精一杯愛しい母に伸ばした。
 ――いつまでも、ずっと、ずっとこのまま…朝が来ないと…いいのに、な…。

 温かい母の胸にすがりついたまま、いつしか寝入ってしまった誠之助の頬には涙の跡が幾筋も残っていた。


 ***


「…様、誠…様」

「う…ん…」

「誠之…様、誠之助様!」

 誰かに強く揺り起こされて、はっと誠之助は目を開ける。
 ――ああ…また同じ夢を…。

「誠之助様、大丈夫ですか? ずいぶんひどくうなされて…」

 心配そうに誠之助を覗き込む秋司。
 その顔にほっとしながら、誠之助は突っ伏していた文机から身を起こした。
 ――いつの間にか、うたた寝をしていたんだ…。

 文机に広げたままの書物を見遣り、誠之助は現実の世界へ身を馴染ませる。

「…母上と、お別れした夜の夢を、また…見ていた」

 遠い目をした誠之助の肩に、秋司は温かい手のひらをぽん、と置いた。
 御家人松波家の三男松波秋司。誠之助が十四歳を迎えた今年、その御相手役として遠邊家に召し抱えられた二十歳の青年である。
 三男坊の気楽さで、剣術道場の仲間たちと自由気ままに稽古に励みつつ、大らかな青春時代を謳歌してきた秋司。情に厚い秋司は誠之助がそっとしまい込んでいた寂しさに触れ、誠心誠意その心をほどこうと努めた。

 温かい陽射しが差し込むように、誠之助の暮らしは鮮やかに変わっていく。母を捨てた父には心を開けなかった分、誠之助は秋司をまるで兄のように慕った。

「誠之助様、外は最高のお天気です。今日はまさに、稽古日和ってやつですよ」

「…よしっ、秋司。今日こそ負けないぞ。さあ、早速中庭に出よう」

 勢いをつけて立ち上がった誠之助は、悲しい夢を振り払おうと思い切り笑った。


 ***
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