大江戸の朝、君と駆ける

藤本 サクヤ

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序章

慶応三年、深川

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 降り注ぐ雨は、わずかに潮の香りがした。

 大川隅田川の河口も近い深川佐賀町ふかがわさがちょう。海を埋め立て拓かれた、小舟行き交う運河の町だ。いさみ肌の江戸っ子たちが躍動やくどうするにぎやかな水の都。けれども今日は、その歯切れのいいやりとりが聞こえない。代わりに町を包むのは鬱々うつうつと町を濡らす陰気な雨音ばかり。すれ違う人は皆背中を丸め、足早に通り過ぎて行った。

 運河沿いの道を歩く若侍、武崎冬儀たけざきとうぎ高下駄たかげたを履いた足に力を込める。良くない予感が友の元へ向かう冬儀の心をかしていた。

 唯一無二の友、松波秋司まつなみしゅうじは同じ主君の元に仕える同胞どうほうだ。だが秋司の住まいは今、この町の裏長屋うらながやにある。うらぶれたその一角を目指し切れ長の目で真っ直ぐ前を見据えながら、冬儀はただ足早に歩を進めた。

 強く握りしめた番傘ばんがさ梅雨寒つゆざむの雨に打たれ、ぱらぱら音を立てる。雨はまだ当分止みそうも無い。低い空、見えない光、目に映る灰色の光景はまるで己と秋司の心模様だ。ざわつく心を抑えようと冬儀は薄い唇の端を噛みしめて、鼻からふっとため息をついた。

 冬儀は羽織はおり襟元えりもとに目を落とす。以前は秋司も日々まとっていた揃いの黒い羽織。その襟元には左右にひとつずつ白い家紋が染め抜かれている。斜め十字に交差する二本の鷹の羽。それは自分と秋司を繋ぐ大切な証。旗本遠邊家とおなべけに仕える同志の揺るがぬあかしのはずだった。

 通りに面した裏木戸うらきどを冬儀はくぐる。裏長屋の敷地を走り回る子どもたちの姿が今日は見えない。物干し場の隅に置かれた小さな稲荷のほこらも冷たい雨に濡れていた。奥まった一軒の戸の前で冬儀は遠慮がちに声をかける。

「…秋司、邪魔するぞ」

 返事が無いのはいつものことだ。閉じた番傘を軒下の外壁に立てかけて、冬儀は引き戸をからりと開く。小さな部屋に身を縮めるようにして、こちらに背を向け寝転がる秋司の姿が見えた。規則的に上下する大柄な体。その傍らには酒瓶が一本打ち捨てられている。それはあまりにも予想通りの光景だった。

 屋根を叩く雨音。しん、と冷えた部屋。窮屈そうに丸められた背中は寒さに震えているようにも、痛みをこらえているようにも見える。壁に掛けられた夜着よぎを静かに下ろし、寝入った体にそっと掛けてやりながら、眉根まゆねにしわを寄せた友の寝顔を冬儀は見つめた。
 ――笑う顔を最後に見たのは、いつだったろう。

 散らかった部屋は秋司の荒れた心そのもののように見える。冬儀は床に転がる酒瓶をそっと拾い上げると自らの胸に強く押し当てた。
 寝返りを打った秋司が、かすかに目を開く。

「ん…」

「秋司」

「冬儀…」

「今、来たところだ。良く眠っていたから起こさなかった」

 秋司はまだ酔いが抜けていないのか、大儀たいぎそうに体を起こす。気怠けだるげに額を右手で押さえたまま、ひとつ大きな欠伸あくびをした。

「秋司。昼間から飲むのは…正直あまり、賛成できないな」

「…言うな冬儀。雨の日は傷が痛むし…気分も滅入めいる。紛らわせるには…酒が一番手っ取り早い」

 見渡せば、部屋に陣取る季節外れの長火鉢。まるでここに住み始めた真冬のまま時が止まってしまったかのようだ。

「何も掛けずに眠ってはいけない。体が冷えれば、なおさら傷跡が痛むだろう? 所詮しょせん長火鉢で部屋は温まらないし…第一付け放しで寝ていては、火の元だって不用心だ」

 くどくど言葉を並べる冬儀を、手を挙げ秋司は制止した。

「分かった、分かったから…小言は止めてくれ。お前の小言は…頭に響く」

「…」

 わずかに眉根を上げながら、冬儀は長火鉢の脇に腰を下ろす。鉄瓶から湯呑みに白湯さゆを注ぐと、雑に胡坐あぐらをかいた秋司の前にそっと置いた。

「秋司。まずは体を温めよう」

 秋司は湯呑みに手を付けず、右手で左肩をぞんざいに揉む。

「…まともに動かないってのに、痛みだけはいっぱしに感じるなんて…苛々いらいらするよ」

「状況は…変わらずか?」

「ああ。左腕はどうしたって、肩より上には上がらない。もう、慣れたが…でも手先に力が入らないのは…利き手じゃないにしろ、正直参る」

「秋司…」

「つい忘れて使おうとするから、馬鹿みたいに物を落とすんだ。…はは、情けなくってな。毎回自分が嫌になる」

 秋司は己を嘲笑あざわらうかのように、ふっと息を漏らした。

「まあ…だらだら生き永らえてる俺だ。手が動こうが動かまいが、どうでもいいか」

 冬儀は眉をしかめ、苦しげに呟く。

「…そのように、捨て鉢になるな、秋司」

 療養生活の中、突如出現したその症状。診察した薬師くすしは首を傾げ、その帰り際、冬儀に小声で告げた。
『松波様のお暮らしの乱れ、何よりもお心の乱れが…招いたことやもしれませぬ』
 己を責め、日々絶望を深めて行く秋司。動かぬ手先はまさに秋司の暮らしそのものだった。

「冬儀、お前も災難だよな。御役目とはいえ、こんな雨の日に深川くんだりまで来なきゃならないなんて。だらしない男の顔なんか見たって…面白くもないだろう」

 冬儀は取り合わず、あちこちに脱ぎ捨てられた秋司の着物を畳んでいく。

「御役目だから来ているわけじゃない。私が来たいから、ここに来ているんだ」

 秋司はなおも絡むように言い募った。

「何の道楽だよ。お前は立派な、遠邊家の用人ようにん様だ。俺にお手当てを渡すのなんて、下男げなんに頼めばいい」

 冬儀は手を止めてじっと秋司を見つめる。

「そんな風に自分を卑下ひげするな、秋司。お前は今も私と同じ、遠邊家の家臣だ」

 秋司は口元をゆがめ、膝に置いた拳に視線を落とした。その左手はかすかに震えている。

「何が家臣だ。俺は遠邊家の御子息を…誠之助せいのすけ様を…斬り殺した罪人だ。本来なら遠邊家にとって…許しがたいかたきのはずじゃないか」

 冬儀は秋司を落ち着かせようと、ゆっくり首を横に振った。

「…避けようがなかった。あれは…お前のせいじゃない。秋司を責める者など誰もいない。お前は最初から…許されている」

 固く目を閉じる、秋司。

「それは真実を隠したからだ。俺は誠之助様を斬り殺し、自分だけのうのうと生きている。つぐないもせず、罰されもせず…」

「違う。のうのうと生きてるわけじゃない。真相にたどり着くために、償うために…それを誠之助様の御遺志ごいしと信じ、今は生きるのだと…二人でそう決めたんだ」

 秋司の呼吸が荒くなる。声にならない叫びを絞り出すように秋司は頭を抱えた。

「でも…っ! でも実際は、どうだ…! 半年経ったって、何の手掛かりも、一片いっぺんの真実さえも…俺は掴めていない。俺は一歩も、ただの一歩も進めていないんだ」

 込み上げる涙に赤く染まった秋司の目。

「誠之助様を、おひとりで…俺の…、俺の手で! かせてしまった、あの日のまま…」

 冬儀はうつむく秋司の前に膝をつくと、激しく上下する両肩にそっと手を触れた。

「…体を治すことが第一だったからだ。お前は大怪我を負い生死の淵を彷徨さまよった。けれど苦しい鍛錬たんれんを重ね、お前が…左腕を肩まで上がるようにしたんだ。それは秋司…お前が勝ち得た前進じゃないか」

 懸命に励ます冬儀。だが見上げる秋司の眼差しに力は無い。冬儀はまるで祈りをささげるように、秋司の体へ熱い言葉を注ぎ込む。

「大丈夫だ。いつかは左手だって自在に動くようになる。真相にたどり着く日も必ず来る。お前はひとりじゃないんだ秋司。私がお前をその地獄から救い出す。必ず…必ずだ」

 冬儀はぐっと秋司を見つめた。

「だからそこに留まるな、秋司。このまま前に進み続けよう。私と共に、二人で」

 しばしのあいだ、沈黙が流れる。

「…済まない冬儀、俺、は…」
 
 かすれた声と共に大粒の涙がぽつり、ぽつりと、うつむく秋司の膝に落ちた。

「秋司。お前の苦しみは私の苦しみだ。だってそうだろう。私たちはずっと二人でひとりなのだと…誓ったじゃないか」

 けれども力強い言葉とは裏腹に、冬儀もまた深い霧の中で彷徨っていた。
 ――どうしたら…私たちは真実にたどり着くのだろう。私はどうしたら秋司の心を救えるのだろう。

 床の一点を見つめる秋司の口から心の内がこぼれ落ちる。

「冬儀。こうして生きることは…耐え難い。夜になると俺はいつも願うんだ。誠之助様、俺を…どうかお側に連れて行ってくださいと。俺を…ゆるしてくださいと。でも答えは返ってこない。誠之助様は何も…何も、言ってくださらない…」

 思い詰めたようにつぶやく秋司。
 ――狂いたい、もういっそ…狂ってしまいたいのに。

「俺が悲しいほど正気なのは…何をしても狂えないのは…罰なのか冬儀…これが俺の償いなのか…」

 秋司の目は、ここではないどこかをすがるように見つめていた。

「…ならばこうして償い続ければ、またお会いできるのか、冬儀俺は…俺はお会いしたい、もう一度、もう一度お会いしたい…! 誠之助様に、誠之助様にもう一度…!」

「秋…」

「誠、之、…うう…、う、うああああっ!」

 自らの命をえぐり出すように胸元に爪を立て、秋司は慟哭どうこくした。

「死なせてくれ冬儀、今すぐ謝りたいんだ誠之助様に、どうしても…どうしてもお会いしたい…!」

「落ち着け秋司、頼む生きてくれ、私はお前に生きていてほしいんだ、秋司…、秋司…!」

 秋司の命を心をここに留まらせんと、泣き伏す背中を必死に包み込む冬儀。
 ――何故…、何故、こんなことに。

 何千何万と繰り返したその問い。深い霧に向かって叫ぶようなその問いを、冬儀は再びどこかに向かい幾度いくども問いかける。

 屋根を叩く雨音が強まった。
 降り続く雨と同じように、秋司の目からこぼれ落ちる涙も、冬儀の心に積み重なる悲しみも、とどまる気配を見せなかった。
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