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第22話 白鷲探偵事務所、開業
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ビュシェルツィオ帝国で第一皇子アステル殿下の婚約者として生活することになった私に、殿下は屋敷を用意してくれた。
王都にあるこじんまりとした、だが居心地のいい屋敷だ。カフェでも始めたら王都の人たちの憩いの場になりそうな――洒落た雰囲気の建物。
アステル殿下と結婚するまでの仮の家の予定だが、あまりも居心地が良くて……。
私はそこで、なんと探偵事務所を開いてしまったのだった。カフェではなく、探偵事務所だ。
その名も『白鷲探偵事務所』!
ルース殿下にいわれた悪口から着想を得たものである。事務所の紋章には深緑色の瞳をした白銀の鷲を配した。もちろんモデルは私だ。
真実を見極める深緑の瞳と常に冷静さをもって羽ばたく白銀の翼。それは探偵のイメージにピッタリだった。
他国から来た伯爵令嬢、しかも皇子の婚約者が、与えられた屋敷で探偵事務所を開く――。
きっとビュシェルツィオの人たちには、ご令嬢のお遊びだとと思われていることだろう。
けどね、これには深い理由があるのよ……。
ある日の昼下がりのこと。
ようやく接客室――つまりはサロンの本棚に『水晶探偵アメトリン』シリーズがそろったので、私はその背表紙を眺めながら紅茶を飲んでいた。
……うん、うん。やっぱり壮観な眺めね。
アメトリンシリーズは何十人ものいろんな作家さんが連作で書いている壮大なシリーズだ。
だから誰の作品が大本の原作だとか、誰の作品が何かの派生だとか、そういう概念はない。いわばすべてが原作であり、すべてが派生。――そんな何でもありの長大なシリーズだ。
正直、私が生きているうちに終わるかどうかすら分からない。そういう規模で、このシリーズは続いている。その刊行ペースから週刊アメトリンなんていわれることもあるくらいだ。
だからファンとしてはいつでも、そしていつまでもアメトリンの世界に入り込むことができる。
私が死んだら、毎週出る新刊を墓に供えて欲しいと切に願っている。
で、主要アメトリン作家の作品で手に入るものを全て詰め込んだ壁いっぱいの本棚を見ながら、私は誇らしい気分でいっぱいになっていた。
私のコレクション。私のアメトリン。
ああ、なんて素晴らしい本たち! 本を仕舞うために床を補強してもらった価値があるというものだ。
……さて、お気に入りの巻でも再読しましょうかしらね。
なにがいいかな……。アメトリンvs改造黒豹人間のお話にしようかしら。
これは探偵ものというよりは冒険寄りのお話で、アメトリンの水晶を転がして遊んでいた黒猫が実は黒豹の改造人間で……というような内容だ。
で、この黒豹人間を造った狂気の科学者の謎を暴いていく……という感じの血湧き肉躍る冒険活劇風のお話である。ちなみに黒豹人間は最終的に森に還る。そういうオチだ。
もちろん断っておくが、アメトリンシリーズはこのお話みたいな冒険活劇風のお話ばかりというわけではない。
入り組んだパズルのような本格的な推理物もあるし、意味がよく分からないシュールなギャグが羅列された巻もある。宿命のライバル怪盗ルピナスとの対決は手に汗握るアクションものの様相を呈する。
アメトリンは決して型になんかはまらない。そうやって、私たち読者にいつでも新鮮な驚きを提供してくれるのだ。
このバリエーションの豊富さがアメトリンシリーズの特徴であり、そして魅力でもあるのよね。
で、さて席を立って本を手に取ろう、と思ったところで、若いメイド――ポレット・クロンが慌てた様子でサロンに入ってきた。
「所長! あと少しでアステル殿下がお見えになるそうですっ!」
ミルクティー色の侍女服を着た彼女は、ふわふわと肩で揺れるやわらかな髪を跳ねさせ、赤褐色の瞳を焦ったように輝かせている。
「あら、もうそんな時間?」
アステル殿下……私の初恋の人であり婚約者にして、この居心地のいい屋敷をくださった方。
探偵事務所を開くのを許してくださったばかりか、実は彼がこの探偵事務所の初めての依頼人でもあるのだ。
できすぎじゃない? と苦笑いしてしまう。
私の大事なものは、なにもかもがアステル殿下関連じゃないの。
……でも実はう一つ、大切なことがあるのよね。
アステル殿下の別の顔は、私の宿命のライバル怪盗であるブラックスピネルなのだ。
この白鷲探偵事務所開業の理由が、実はそれなのである。
首飾りを取り戻し、私との再会を果たしたアステル殿下。
普通ならここで怪盗はもう廃業にすると思うじゃない? 私と再会するという目的も叶えたし、首飾りだって取り戻したのだから。
でも、「怪盗をやめるつもりなんかないよ」と笑顔で言われてしまったのである。
ようやく怪盗デビューを果たしてこれから面白くなっていくところなのに、ここでやめるわけないよ、と。
帝国の第一皇子が怪盗って、どうなのよ。
首飾りについては本当にビュシェルツィオ皇家に取り戻しただけなわけだけれど、調子に乗ったアステル殿下のことだ、いつか本当に盗みを働くかもしれない。
かといって、アステル殿下は盗っ人だからみなさん気をつけてください! と国内外に向けて私が発信するわけにもいかないでしょ?
仮にも皇子様なんだから。
それに、彼はまだギリギリ罪は犯していないのよ。あの夜のことは謝りもしていないけれどね。
……ということで、私が考え出した答えがこの探偵事務所だったのだ。
探偵事務所を開き、探偵として『怪盗皇子ブラックスピネル』と相対する。それでブラックスピネルの犯罪を防いだり、時として遊びの相手をしたりして、アステル殿下の気を紛らわす。
そうやって、この白鷲探偵事務所を怪盗ブラックスピネルへの抑止力として使うつもりなのだ。
まあ、子供の頃に探偵vs怪盗ごっこを楽しんでいた、その延長線だと思えば……。
あの頃とは比べものにならないくらい責任は重大になってしまったけどね。
……さて。
ポレットがアステル殿下の来訪を教えにきてくれたわけだけど……。
もちろん、アステル殿下は怪盗としてやってくる訳ではない。
アステル殿下から頼まれた開業祝いとして頼まれた仕事の、結果を報告をする予定になっているのだ。
「でもアステル殿下も変な仕事を依頼してきますよね。探偵のこと何でも屋だとでも勘違いしているんでしょうか」
ポレットが少し口を尖らせて言うのを聞いて、私は思わず笑ってしまう。
「まあ、そうね。でもいいじゃないの。こういう依頼をこなしていくことが探偵事務所の信頼に繋がるのよ」
私はテーブルの上に視線を移し、そこにあるアクセサリーボックスを見つめた。
そこには、あの騒動の元となったピンクダイヤモンドの首飾りが輝いている。
しかし、以前とは違う――デザインが仕立て直され、宝石そのものもまるで新しく生まれ変わったようだった。
「それに、面白いじゃない? 宝石に名前を付けてくれ、だなんて」
アステル殿下から預かったこの宝石に、新たな名前を付けること。
それが、アステル殿下からいただいた白鷲探偵事務所の初の仕事であった。
仕立て直された宝石には、新しくそれらしい来歴も作られていた。
つい最近、遠き東方の地より買い付けた神秘的なピンクダイヤモンド……そんなもっともらしい来歴だ。
ハルツハイム国王に盗られていたという過去は抹消され、宝石は名実ともに別物になるのだ。
確かに探偵らしい仕事とはいえない。だけど私とアステル殿下にとっては縁の深い宝石だし、開業したばかりでなんの実績もない探偵事務所にとっては依頼自体が貴重なものである。
「それで所長、これの名前はもう考えられたのですか?」
ポレットが興味津々な顔で見上げてくるのに、私は困ったような苦笑で返した。
「それが……まだ悩んでいるのよね」
「え、まだなんですか? てっきりもう決められたのかとばかり……」
「相応しい名前をいろいろと考えたのだけれど、どれもピンとこなくて」
彼女は急に胸を張り、拳でとんとその胸を叩いた。
「じゃあっ、名探偵の助手のこのポレットめが、所長の代わりにパパッとおつけいたします! それで所長は、新たに持ち込まれるかもしれない密室殺人事件の解決に全力を傾けてください!」
「お気持ちだけ受け取っておきますわ。密室殺人事件ねぇ。持ち込まれたくない事件ナンバーワンだわね……」
思わず苦笑してしまう私に、ポレットは意外そうに目をパチクリさせた。
「え? そうですか? 私、所長が密室の謎をバーンと解決するところ、すっごい見たいです!」
「でもねぇ、殺人事件よ? 人が亡くなるわけだし。どちらかというとそういう犯罪を防ぎたいわね、私は」
「そうですか……、まあ人が死ぬのはいただけませんよね。好きなんだけどなぁ、密室……」
しょぼん、と肩を落とすポレット。
アステル殿下ったら、ちょっと変わったメイドさんを付けてくれたのよね。
いい子だけど、個性が強いというか。
『名探偵の助手になるのが小さい頃からの夢っていう女の子が仕事を探しているんだ。君にピッタリ合うと思うんだけど、どうかな』
なんて紹介されたんだけど……。まあ、いい子ではあるんだけどね。
――そのとき。
突風が室内に入り込んできた。
風が応接室のカーテンをふわりと舞い上がらせ、室内に光が差し――テーブルの上を照らしだす。ピンクダイヤモンドの首飾りも陽光を受け、キラキラと反射しだした。
「うわぁ……」
感嘆の声を上げて室内を見渡すポレット。
室内に桜色の光が舞っていた。
天井、壁、感じの良いソファーセット、本棚にぎっしり詰まったアメトリンシリーズの背表紙にも――。部屋中に桜色の光がきらきらと散っていく。まるで満開の桜のなかにいるような幻想的な光景だった。
その瞬間、私のなかに閃きが訪れた。
そうだ、これだわ……!
「うわ、綺麗……。でも窓閉めますね。風が強くなってきたみたいです」
「ううん、いいの。このままにしておいて。これが新しい名前になるから」
「え?」
「決まったの、宝石の名前が」
私は微笑んだ。
ポレットが期待に満ちた顔で身を乗り出してくる。
「え、なんですか? 教えてください! 名探偵の初仕事なんですし、きっとビシッ! と格好いいヤツですよね!」
私は彼女の熱気に微笑んでから、人差し指を唇の前に立てた。
「ごめんね。最初に依頼者に教えたいの。だから、それまで秘密よ」
「くぅーっ、そうですよねそうですよね、やっぱり依頼者って大事ですよね! でも気になるー! あぁっ、殿下ってば早くいらっしゃらないかなぁ!」
そう言いながら、ポレットは目を輝かせて小さく跳ねた。
私の視線は、桜色の光で満たされた部屋を巡った。まるで満開の桜の下にいるような――桜吹雪が舞っているなかにいるかのような、静かな喜びが心に広がっていく。
【桜であって、桜にあらずあらず】
それが、この首飾りの新しい名前だ。
当方からやって来たという設定を付けられ、生まれ変わったピンクダイヤモンドの首飾り。
それと同じように、再開して初恋を実らせた私たちは、これからまったく新しい人生を迎えていくことになる。
その新しい生活が、どうか輝きに満ちたものになりますように。
この光の桜吹雪も、どうかずっと花びらを舞い散らせますように――。
王都にあるこじんまりとした、だが居心地のいい屋敷だ。カフェでも始めたら王都の人たちの憩いの場になりそうな――洒落た雰囲気の建物。
アステル殿下と結婚するまでの仮の家の予定だが、あまりも居心地が良くて……。
私はそこで、なんと探偵事務所を開いてしまったのだった。カフェではなく、探偵事務所だ。
その名も『白鷲探偵事務所』!
ルース殿下にいわれた悪口から着想を得たものである。事務所の紋章には深緑色の瞳をした白銀の鷲を配した。もちろんモデルは私だ。
真実を見極める深緑の瞳と常に冷静さをもって羽ばたく白銀の翼。それは探偵のイメージにピッタリだった。
他国から来た伯爵令嬢、しかも皇子の婚約者が、与えられた屋敷で探偵事務所を開く――。
きっとビュシェルツィオの人たちには、ご令嬢のお遊びだとと思われていることだろう。
けどね、これには深い理由があるのよ……。
ある日の昼下がりのこと。
ようやく接客室――つまりはサロンの本棚に『水晶探偵アメトリン』シリーズがそろったので、私はその背表紙を眺めながら紅茶を飲んでいた。
……うん、うん。やっぱり壮観な眺めね。
アメトリンシリーズは何十人ものいろんな作家さんが連作で書いている壮大なシリーズだ。
だから誰の作品が大本の原作だとか、誰の作品が何かの派生だとか、そういう概念はない。いわばすべてが原作であり、すべてが派生。――そんな何でもありの長大なシリーズだ。
正直、私が生きているうちに終わるかどうかすら分からない。そういう規模で、このシリーズは続いている。その刊行ペースから週刊アメトリンなんていわれることもあるくらいだ。
だからファンとしてはいつでも、そしていつまでもアメトリンの世界に入り込むことができる。
私が死んだら、毎週出る新刊を墓に供えて欲しいと切に願っている。
で、主要アメトリン作家の作品で手に入るものを全て詰め込んだ壁いっぱいの本棚を見ながら、私は誇らしい気分でいっぱいになっていた。
私のコレクション。私のアメトリン。
ああ、なんて素晴らしい本たち! 本を仕舞うために床を補強してもらった価値があるというものだ。
……さて、お気に入りの巻でも再読しましょうかしらね。
なにがいいかな……。アメトリンvs改造黒豹人間のお話にしようかしら。
これは探偵ものというよりは冒険寄りのお話で、アメトリンの水晶を転がして遊んでいた黒猫が実は黒豹の改造人間で……というような内容だ。
で、この黒豹人間を造った狂気の科学者の謎を暴いていく……という感じの血湧き肉躍る冒険活劇風のお話である。ちなみに黒豹人間は最終的に森に還る。そういうオチだ。
もちろん断っておくが、アメトリンシリーズはこのお話みたいな冒険活劇風のお話ばかりというわけではない。
入り組んだパズルのような本格的な推理物もあるし、意味がよく分からないシュールなギャグが羅列された巻もある。宿命のライバル怪盗ルピナスとの対決は手に汗握るアクションものの様相を呈する。
アメトリンは決して型になんかはまらない。そうやって、私たち読者にいつでも新鮮な驚きを提供してくれるのだ。
このバリエーションの豊富さがアメトリンシリーズの特徴であり、そして魅力でもあるのよね。
で、さて席を立って本を手に取ろう、と思ったところで、若いメイド――ポレット・クロンが慌てた様子でサロンに入ってきた。
「所長! あと少しでアステル殿下がお見えになるそうですっ!」
ミルクティー色の侍女服を着た彼女は、ふわふわと肩で揺れるやわらかな髪を跳ねさせ、赤褐色の瞳を焦ったように輝かせている。
「あら、もうそんな時間?」
アステル殿下……私の初恋の人であり婚約者にして、この居心地のいい屋敷をくださった方。
探偵事務所を開くのを許してくださったばかりか、実は彼がこの探偵事務所の初めての依頼人でもあるのだ。
できすぎじゃない? と苦笑いしてしまう。
私の大事なものは、なにもかもがアステル殿下関連じゃないの。
……でも実はう一つ、大切なことがあるのよね。
アステル殿下の別の顔は、私の宿命のライバル怪盗であるブラックスピネルなのだ。
この白鷲探偵事務所開業の理由が、実はそれなのである。
首飾りを取り戻し、私との再会を果たしたアステル殿下。
普通ならここで怪盗はもう廃業にすると思うじゃない? 私と再会するという目的も叶えたし、首飾りだって取り戻したのだから。
でも、「怪盗をやめるつもりなんかないよ」と笑顔で言われてしまったのである。
ようやく怪盗デビューを果たしてこれから面白くなっていくところなのに、ここでやめるわけないよ、と。
帝国の第一皇子が怪盗って、どうなのよ。
首飾りについては本当にビュシェルツィオ皇家に取り戻しただけなわけだけれど、調子に乗ったアステル殿下のことだ、いつか本当に盗みを働くかもしれない。
かといって、アステル殿下は盗っ人だからみなさん気をつけてください! と国内外に向けて私が発信するわけにもいかないでしょ?
仮にも皇子様なんだから。
それに、彼はまだギリギリ罪は犯していないのよ。あの夜のことは謝りもしていないけれどね。
……ということで、私が考え出した答えがこの探偵事務所だったのだ。
探偵事務所を開き、探偵として『怪盗皇子ブラックスピネル』と相対する。それでブラックスピネルの犯罪を防いだり、時として遊びの相手をしたりして、アステル殿下の気を紛らわす。
そうやって、この白鷲探偵事務所を怪盗ブラックスピネルへの抑止力として使うつもりなのだ。
まあ、子供の頃に探偵vs怪盗ごっこを楽しんでいた、その延長線だと思えば……。
あの頃とは比べものにならないくらい責任は重大になってしまったけどね。
……さて。
ポレットがアステル殿下の来訪を教えにきてくれたわけだけど……。
もちろん、アステル殿下は怪盗としてやってくる訳ではない。
アステル殿下から頼まれた開業祝いとして頼まれた仕事の、結果を報告をする予定になっているのだ。
「でもアステル殿下も変な仕事を依頼してきますよね。探偵のこと何でも屋だとでも勘違いしているんでしょうか」
ポレットが少し口を尖らせて言うのを聞いて、私は思わず笑ってしまう。
「まあ、そうね。でもいいじゃないの。こういう依頼をこなしていくことが探偵事務所の信頼に繋がるのよ」
私はテーブルの上に視線を移し、そこにあるアクセサリーボックスを見つめた。
そこには、あの騒動の元となったピンクダイヤモンドの首飾りが輝いている。
しかし、以前とは違う――デザインが仕立て直され、宝石そのものもまるで新しく生まれ変わったようだった。
「それに、面白いじゃない? 宝石に名前を付けてくれ、だなんて」
アステル殿下から預かったこの宝石に、新たな名前を付けること。
それが、アステル殿下からいただいた白鷲探偵事務所の初の仕事であった。
仕立て直された宝石には、新しくそれらしい来歴も作られていた。
つい最近、遠き東方の地より買い付けた神秘的なピンクダイヤモンド……そんなもっともらしい来歴だ。
ハルツハイム国王に盗られていたという過去は抹消され、宝石は名実ともに別物になるのだ。
確かに探偵らしい仕事とはいえない。だけど私とアステル殿下にとっては縁の深い宝石だし、開業したばかりでなんの実績もない探偵事務所にとっては依頼自体が貴重なものである。
「それで所長、これの名前はもう考えられたのですか?」
ポレットが興味津々な顔で見上げてくるのに、私は困ったような苦笑で返した。
「それが……まだ悩んでいるのよね」
「え、まだなんですか? てっきりもう決められたのかとばかり……」
「相応しい名前をいろいろと考えたのだけれど、どれもピンとこなくて」
彼女は急に胸を張り、拳でとんとその胸を叩いた。
「じゃあっ、名探偵の助手のこのポレットめが、所長の代わりにパパッとおつけいたします! それで所長は、新たに持ち込まれるかもしれない密室殺人事件の解決に全力を傾けてください!」
「お気持ちだけ受け取っておきますわ。密室殺人事件ねぇ。持ち込まれたくない事件ナンバーワンだわね……」
思わず苦笑してしまう私に、ポレットは意外そうに目をパチクリさせた。
「え? そうですか? 私、所長が密室の謎をバーンと解決するところ、すっごい見たいです!」
「でもねぇ、殺人事件よ? 人が亡くなるわけだし。どちらかというとそういう犯罪を防ぎたいわね、私は」
「そうですか……、まあ人が死ぬのはいただけませんよね。好きなんだけどなぁ、密室……」
しょぼん、と肩を落とすポレット。
アステル殿下ったら、ちょっと変わったメイドさんを付けてくれたのよね。
いい子だけど、個性が強いというか。
『名探偵の助手になるのが小さい頃からの夢っていう女の子が仕事を探しているんだ。君にピッタリ合うと思うんだけど、どうかな』
なんて紹介されたんだけど……。まあ、いい子ではあるんだけどね。
――そのとき。
突風が室内に入り込んできた。
風が応接室のカーテンをふわりと舞い上がらせ、室内に光が差し――テーブルの上を照らしだす。ピンクダイヤモンドの首飾りも陽光を受け、キラキラと反射しだした。
「うわぁ……」
感嘆の声を上げて室内を見渡すポレット。
室内に桜色の光が舞っていた。
天井、壁、感じの良いソファーセット、本棚にぎっしり詰まったアメトリンシリーズの背表紙にも――。部屋中に桜色の光がきらきらと散っていく。まるで満開の桜のなかにいるような幻想的な光景だった。
その瞬間、私のなかに閃きが訪れた。
そうだ、これだわ……!
「うわ、綺麗……。でも窓閉めますね。風が強くなってきたみたいです」
「ううん、いいの。このままにしておいて。これが新しい名前になるから」
「え?」
「決まったの、宝石の名前が」
私は微笑んだ。
ポレットが期待に満ちた顔で身を乗り出してくる。
「え、なんですか? 教えてください! 名探偵の初仕事なんですし、きっとビシッ! と格好いいヤツですよね!」
私は彼女の熱気に微笑んでから、人差し指を唇の前に立てた。
「ごめんね。最初に依頼者に教えたいの。だから、それまで秘密よ」
「くぅーっ、そうですよねそうですよね、やっぱり依頼者って大事ですよね! でも気になるー! あぁっ、殿下ってば早くいらっしゃらないかなぁ!」
そう言いながら、ポレットは目を輝かせて小さく跳ねた。
私の視線は、桜色の光で満たされた部屋を巡った。まるで満開の桜の下にいるような――桜吹雪が舞っているなかにいるかのような、静かな喜びが心に広がっていく。
【桜であって、桜にあらずあらず】
それが、この首飾りの新しい名前だ。
当方からやって来たという設定を付けられ、生まれ変わったピンクダイヤモンドの首飾り。
それと同じように、再開して初恋を実らせた私たちは、これからまったく新しい人生を迎えていくことになる。
その新しい生活が、どうか輝きに満ちたものになりますように。
この光の桜吹雪も、どうかずっと花びらを舞い散らせますように――。
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