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葵
”それ”
しおりを挟む「次は専門学校だね。受験する学校は決まった?」
至が少し首を傾げて葵を視野に入れながら訊ねると、「一応」と葵が静かに高揚している顔をした。以前至が渡した夜間部のある学校のリストから、割と早い段階で絞り込んでいたらしい。
「合格して入学金とか授業料とか合わせた必要金額が分かったら教えて。君の給与を入れてる口座に振り込むから」
「いや、1年目は分割にすればなんとかいけると思う。2年目以降……足りない分を貸して」
見かけによらず堅実な葵が視線を落として言った。子どもの頃から貧乏で親に借金があったこともあって、金を借りるのが好きではないのだ。
そして ”その話” は至が予想もしていないタイミングで訪れた。
「あー……ほんと、金っていくらあっても足りねーよなぁ……ウチがあんな貧乏じゃなかったら母ちゃんも死ななくて済んだかもしんねぇし。兄貴が羨ましいよ」
”それ” を聞き流すべきだ、ということは分かっていた。
しかしドクンと一度強く打った心臓は、追い立てるように鼓動を早め、至に訊け、と迫る。
やめろ、やめろと思っているのに、口は「羨ましいって?何故?」と喋ってしまっていた。
「ん~?だって、なんかちょー金持ちの家に貰われてったんだって。いい思いしてんだろーなーって」
じわりと汗をかく。芙蓉が閉じ込められていたあの家のモノトーンの画像がコンマ何秒の間にいくつも蘇る。
「ひとりになってぼろぼろにしんどかった時、何回か妄想したよ。兄貴が現れて、これで好きなものでも食べなさい、とかなんとか言って金くれるとこ」
満開の桜、強い風に舞い散る花びら、谷を吹き抜けていく風の音。
笑顔も涙も失くした芙蓉の、静かで空虚な青い瞳。
「まーあっちは思い出しもしてないだろうけど。どうでもいいよな。ド貧乏な前の家族なんて」
無理だった。腹の奥から震えるような感情が込み上げて抑えきれず、「そんなことない……!」と、ただ事ではないと感じさせる圧を葵に伝えていた。
「え……」
「そんなことないよ……大事に思ってた……」
己の命が燃え尽きるまで忘れたことはなかっただろう弟のこと。自分の家族を守るために何も言わないでいた彼の唯一の意志を、どうしても……どうしても、無いものには出来なかった。
その明らかにいつもと違う様子の至に、葵はひとつの事実を直覚した。
「兄貴のこと、知ってんの?」
あれほど気を付けようと考えていたこと。駒井にも注意されていたのに。
頑張れば誤魔化せただろうか?いや……無理だったろう。それほど、至自身が強く揺さぶられていた。
「知ってる。黙っててごめんね」
「いや……そっか。なんかヘンな感じ」
大丈夫……葵の中で自分の兄と芙蓉さんは繋がってない……俺の忘れられない人、葵の言う「嫌な目にあわせた」青い目の人、兄の光、はそれぞれ別の存在だ……大丈夫……
だがどれもほんの近くに背中合わせで存在している。
振り向きさえすればそこにある、ただひとつの真実だ。
「兄貴って、今何してんの?……って訊いても、思い浮かべられるのって写真の中の中学生の兄貴なんだけどさ」
何も知らない葵が覆いを被された秘密に不用意に近づくことに静かに体を緊張させながら、至は「亡くなってるんだ」と呟くように言った。
「え……」
「事故で。でも僕は、彼が君たち家族のことをとても大事に思っていたことは直接聞いて知っているから」
慎重に……かつ慎重になっていることを悟られないように言葉を紡ぐ。
大丈夫だ。大丈夫……
「そっか……思い出しもしなかったくせにアレだけど……もう会えないと思ったら、会いたかったって思うもんだな」
記憶も朧げな、兄。その兄が死んだのだと聞かされても特別悲しい気持ちは生まれなかったのだろうが、確かに同じ時を過ごした兄弟がもうこの世に存在していないと思うと寂しさは覚えたらしい。
「もしかして……あの時びっくりしたのって、兄貴に似てたから?」
出会いの『FLARE』のテーブル席。気分が悪くなって帰ったあの時のことを言っている。これはセーフか、アウトか……いつもは楽に判断出来るのに、今は痺れ薬でも飲んだように思考は鈍く、重い。
「うん……そう。あの時はほんと、悪かった」
「はは、なるほど。死んだはずの人間が生きてたら、そりゃびっくりするよな」
早くこの話題から離れなければ。
ボロが出ないうちにやめなければ。
至は残っていた酒を一息に飲み干してバーテンダーに話しかけ、今の自分におすすめの酒を訊ねて時間を稼いだ。
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