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芙蓉
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しおりを挟むそれから至は毎日東京の家と芙蓉の家とを行き来した。本当は泊まりたかったが、まだ客が来るかもしれないから、と芙蓉に言われれば引かざるを得なかった。
「番になったらお客さんが付かないかなって思ったけど、黒十字のことを知らない人も多いからまだ需要があるって、パパが」
「抜けさせてもらえないのか?金が必要なら用意するし」
抜ければヤクザのけじめのように芙蓉が傷つけられるのなら金で解決できないか。それが無理なら父親のコネでも何でも使って権力者から話をつけてもらうとか。
なんとか仕事を辞めさせたい至がグルグルと考えていると、芙蓉は「今度パパが来たら聞いてみる」と俯いた。銀髪がサラリと揺れる。誘われるように指先で芙蓉の髪を掬うと、けぶるような長い銀色のまつ毛が上がって惹き込まれる青い万華鏡の瞳が至を見つめた。
「早く東京に連れていきたい」
至が恋情を込めて囁くが、芙蓉は特に同意をすることなく微かに笑って台所へ行き、紅茶を淹れ始める。
こういう瞬間が一度や二度ではないからもどかしい気持ちになった。
自分が想うほど芙蓉は自分を想ってくれていないのではないか──そんなことはない、番になってもいいと言ったんだ。でもそれなら何故素性を隠す?──まだ出逢って間もないからだ。話したくない過去だってあるかもしれない。そんな行ったり来たりで至の頭の中は忙しかった。
その時──台所の芙蓉がサバンナの草食動物がそうするように、動き止めて振り返り、家の外に耳を澄ませた。
「パパだ。至。ちょっとこっちに隠れてて」
至を台所の隅に押し込んで、芙蓉は玄関の方へ小走りに行った。
間もなく、ガチャガチャと外から鍵を開ける音がした。至はドキドキしながら想像を巡らせた。芙蓉に客をとらせ、気に入らなければ殴りつける身勝手な男。あの華奢で美しい顔をよくもあんなにひどく打ち据えることができたものだ、と。
玄関でオーナーであろう男と芙蓉が話している声を遠くに聞きながら、至は眉を寄せた。
男の声に聞き覚えがある気がしたのだ。
気配が近づき、どさりとソファに腰掛けたのが音で分かる。
「光《ひかる》。こっちへ来なさい」
至はどくん、と痛いほど心臓が跳ねるのを感じた。聞き覚えどころの話ではない。男の声は、自分の父親、勝のものだった。
父さん……?え、パパって…オーナーって、父さんのこと……?芙蓉さんを離れに住まわせているのも、客を紹介するのも、殴ったのも……?
でも芙蓉さんはそんなことは言っていなかった。
オーナーが俺の父さんだって知らなかった?
いや、勝さんって呼んでた。よく知ってるみたいな口ぶりだった。じゃあなんで?
心臓がどきどきしすぎて体が熱くなる。事実は事実として受け入れざるを得ないのに、唐突に降って沸いたそれに理解が追いつかない。
「まだ言う気にならんのか。心当たりを聞いてみたが誰も口を割らん。お前の相手は誰なんだ」
何度聞いても勝の声だった。どう聞いても、間違えようがない。
「お前……この匂い。相手が来たんだな?昨日か、今朝か……服を脱ぎなさい。確認する」
芙蓉はひとことも発しない。ただ、衣擦れの音から言われたとおりにしているのが至にも分かった。
「濡れてる……今朝か。こんなに匂いをさせて……悪い子だ。パパが消毒してやるからあっちを向いて手をつきなさい」
ぞっとした。起きていることを受け入れたくない。自分が知っている父親とのあまりのギャップに吐き気がしてくる。
やがてぬちゃぬちゃという濡れた音と芙蓉の高い声が部屋に充満し、至は歯を噛みしめて声を殺した。涙が滲んでいた。悲しいのか、悔しいのか、怒りなのか、名前をつけがたい感情で叫び出しそうだった。
勝は芙蓉を、光、光と呼んだ。
芙蓉は本名じゃないのか。なんなんだ。何がほんとで、何が嘘で……
「いやらしい子だな……番を持ったところでさほど変わらん……いい具合だ……よく締まる……」
勝の欲に濡れた声が、おぞましいその声が、至の中の何かを壊していく。
「いや、パパ……痛い……」
「いやじゃないだろう……光の可愛いここはこんなに悦んでる。ほら、パパのを出すぞ……」
口を両手で強く押さえ、ぎゅっと目を閉じる至の頬を涙が転がる。本当に今にも吐きそうだった。
地獄のような時間が過ぎ、静かな身支度の気配がして、しゃがんで口を押さえたままの至がいる台所へ芙蓉が入ってきた。
ちらりと至を見やる目は、酷く静かな、冷たい色をしている。
「パパ、コーヒー飲む?」
まるで何事も無かったかのように、居間にいる勝に声をかける芙蓉。
至はこれ以上ない現実に打ちのめされていながらまだ頭の隅では救いを求める自分が足掻いていて、何か事情がある筈だと縋るような気持ちで、小鍋に水を入れる芙蓉の横顔を見ていた。
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