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芙蓉
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しおりを挟む大学が始まるまでは毎日通おうと思っていた。何しろ、芙蓉のことが頭から離れないのだ。
早く仕事を辞めさせて東京のマンションに来させたい。そうすれば毎日もっと楽に会えるようになる。自分も一緒に暮らしてもいい。元々大学に近い場所に拠点があった方がいいと言って買い与えられたマンションなのだから、そこでどれだけ過ごそうと文句はないはずだ。
食事や掃除洗濯が面倒で実家にいた至だったが、芙蓉と過ごせるなら話は別だ。料理にしろ家事全般、やったことはなかったがやれば出来ることは分かっていた。
翌日、芙蓉のスマホを契約しに行ったり、マンションの掃除をしたり、小物を買い足したりしていた都合で芙蓉の元に行けなかった。逢いたかったが、ちゃくちゃくと準備が進めば芙蓉が傍にいる新しい生活が見えてくるようでわくわくした。
たまたま電話をかけてきた友達にも「えらく機嫌がいいな」と悟られるほどだったが、至は芙蓉のことを誰にも話さなかった。意図してのことではない。ただ、話題の一つとしても芙蓉を誰かと分け合うのが嫌だと感じたのだ。
明日は朝から芙蓉の元へ行ってこのスマホを渡し、使い方を教えてあげる。もっと芙蓉を知りたい。近くに感じたい。そんなシンプルな欲求が至を幸福で満たしていた。
夜が明けて、セットしたアラームよりも早く目覚めた至は、いそいそと準備をして朝食も食べずに芙蓉のもとに出発した。車で1時間ほどの道のりも芙蓉に逢えるならば、途中のコンビニで買ったサンドイッチを齧り、ホットコーヒーを飲みながらの楽しいドライブだ。
なんでこんなに好きなんだろう。
ハンドルを握りながら、もう何度も考えていながら答えが出ないことに頭を巡らす。
オメガだから?いや……風が匂いを運んでくる前、桜の木の下に佇む彼を見た時にもう心を奪われていた。
例え彼がオメガで自分がアルファだから惹かれたのだとしても、結局その理由はどうでもいいのだ。恋はもう始まってしまったのだから。
もう見慣れた山道を登って機嫌よく離れを訪れた至は、呼び鈴の音で玄関に現れた芙蓉を見て息を飲んだ。
「芙蓉さん、どうしたの……その顔」
至が呆然と呟く。明らかに誰かに叩かれたものだろう、頬には手の跡がくっきり残り口元が切れて滲んだ血が固まっていて、儚げな美貌がより痛々しさを強調している。
「黒十字を見たお客が告げ口したんだろうね。パパが勝手なことをするなって、怒鳴り込んできたの。昨日」
「……パパ?」
「お客を連れてくる人のこと」
オーナーのことをパパって呼んでるのか。マフィアみたいだな。
至は少し腫れている芙蓉の頬を手で包むように触れた。
「ちゃんと冷やした?痛そう……」
「平気だよ。見た目ほどじゃない」
芙蓉はそっと手のひらから逃れると、至を中へ招き入れて玄関の戸に鍵をかけた。
至はすぐに芙蓉を抱き締めた。抱き締めればそれだけで留まれず、血の滲むその唇に口づけを落とす。口づけを落とせば……手が服の中へと滑り込むのを止める気持ちが起こらない。
「芙蓉さん……」
「番ってすごいね……触れられる感覚が違う。感じるよ……至……」
それは至も同じだった。芙蓉の皮膚が至を待ち望んでいたのをまさに肌で感じるのだ。
深く互いを求め合うキスをして、上がり框のその先で睦み合う。番になったあの台所での性交からゴムはつけていない。芙蓉の中に思い切り自分の精を注ぎ込みたいという抗いがたい至の欲求と、そうして欲しいと願う芙蓉の欲求がかみ合えば、それを止められるものなど何もない。
情事が終わった後も、いつまでも芙蓉を離したくない。強く抱き締めながら、何度も何度もキスをする。たまらなく愛おしい。抱き合う二人の背中に浮かび上がる黒十字。それはまるで何かを背負わされているようだったが、至がそれに気づくことはなかった。
「それで……ここを押して……ここに触ると俺に電話出来る。メールとかLINEとか……ほんとに知らないの?」
「見たことはあるけどね。お客さんが使ってるとこ」
「スマホくらい欲しくならない?」
「別に。僕の暮らしに必要ないでしょう?」
必要か不必要かと言われれば……必要だろう、と至は呆れたように眉を上げた。
芙蓉は電話にもLINEにもほとんど興味を示さなかったがただひとつ、カメラ機能には反応して、たどたどしい手つきで画面上のシャッターを切っては撮れた画像をまじまじ眺めていた。
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